強制収容所生まれ、広島育ち。3つのアジア系差別を経験 ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(後編)

広島の原爆投下から5ヵ月後、一家で広島に渡った。(撮影:筆者)

【日系人強制収容から80年】

前編からの続き)

  • 以下、古本武司氏のインタビュー内容

ベトナム戦争で最前線送り、PTSDを患う

ベトナムでの血みどろの戦いは、1955年11月から1975年4月までの長期戦となった。

1955年、ベトナム戦争が始まりました。第二次世界大戦下でもベトナム戦争下でも当初、兵士は志願でなく招集されていました。私が入隊したのは68年2月、ちょうどカリフォルニアの大学を卒業した23歳のときです。

私は広島からカリフォルニアに戻って来た後、“Jap”(ジャップ)と蔑称で呼ばれたり、毎年12月になると真珠湾攻撃のことを持ち出されたりと、謂れの無いことでよくいじめられました。「日系人というだけでどうしてこんな目に合わないといけないのか」と思うこともしばしばでした。「私はアメリカ人だ」と訴えても全然相手にされません。だから「米軍兵士として国のために戦えば、バカにされなくなるだろう」と思いました。入隊は私にとってアメリカ人として認められ、人々とイコールになれる方法でした。

将来を見据えて志願した士官学校で半年学んだ末、私はインテリジェンス・オフィサーとして情報部管轄の配属となりました。任務は3年間。情報部ということで、最前線ではなくエアコンが効いたオフィスでの任務になりそうだと内心ホッとしたのも束の間、70年から1年間飛ばされたのは、カンボジアとの国境近く、南ベトナム軍と共に戦う最前線の危険地帯だったのです。

そこにはトンネルがたくさんあって、無数に地雷が埋め込まれていました。夜間に敵軍を待ち伏せし、撃ち合います。仲間が撃たれたり地雷を踏んで負傷したら、救助用ヘリを呼びます。その役目を情報部が請け負っていたのですが、敵がどんどん撃ち込んできて、目の前で仲間が次々と倒れていきました。

戦争というのは実際に経験しないとなかなか想像がつかないでしょうが、そんな状況がずっと続くと頭が狂ってきます。最初は歩くのも怖かったけど、そのうち恐ろしいけど恐ろしくないという風に感覚が麻痺してきます。逃げるところはどこにもないし、追い詰められて精神的におかしな状態になっていくのです。

また、ジャングルが生い茂っている状態では敵軍の動きを把握できないので、上空から地上に大量のケミカル、エージェントオレンジ(枯葉剤)が散布されていました。そういうところで撃ち合っていたので、私の体、心臓や骨、血糖値などは今でも枯葉剤による後遺症に悩まされ続けています。アメリカ政府には今でも弁償をしてもらっています。

生き抜いて帰還、そしてNYへ

私はベトナム戦争を生き残り、71年に無事に帰還しましたが、長い間、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けました。

戦争に行くと本当に大変ですよ。第二次世界大戦を戦った兵士もそうだったでしょうが、どういう戦争でも戦い抜くのは大変だし、生き残っても大変です。辛い記憶が蘇り、やりきれない思いをヒロポンなどドラッグに癒してもらっている帰還兵は多かったです。私も本当は体のために飲んだらいけないけど、今でもお酒が好きなのはそういうわけです。

とにかく当時の精神状態は、子犬が人間にいじめられて萎縮してしまう、そんな感じでした。もちろん心の内は見せないけど孤独で、誰とも会いたくなかった。家族や友人から離れて1人でアイソレーション(隔離)したい一心で、数ヵ月後にニューヨークにやって来ました。

親戚がニューヨークで「AKI」というレストランを経営しており、古本さんも手伝うことになった。古本さんの姉が製作した古本ファミリーのヒストリー本より。(本は筆者が撮影)
親戚がニューヨークで「AKI」というレストランを経営しており、古本さんも手伝うことになった。古本さんの姉が製作した古本ファミリーのヒストリー本より。(資料は筆者が撮影)

親戚が経営する飲食店やコネで就職した陶器会社でも働きましたが、PTSDで精神的に辛く、同僚とも気が合わないし、仕事に集中できずミスも多く、半年もしないうちにクビになりました。

士官学校時代の休暇中にパーティーで出会った日系人妻キャロル(CAROLYN)さんと。今年結婚50周年を迎えた。「PTSDで随分迷惑をかけた。家内なしで今の私は存在しません」。(撮影:筆者)
士官学校時代の休暇中にパーティーで出会った日系人妻キャロル(CAROLYN)さんと。今年結婚50周年を迎えた。「PTSDで随分迷惑をかけた。家内なしで今の私は存在しません」。(撮影:筆者)

当時、家賃140ドルの床が傾いたおんぼろアパートに住んでいました。72年にキャロルと結婚したのですが、PTSDで仕事が全然続かない私の代わりに、家内が働いて支えてくれました。

74年には家内と一緒に会社を立ち上げました。アルバイトでも2年ほどの経験があれば不動産業で独立できたのです。「古本不動産」の誕生です。賃料100ドルちょっとの窓もない地下オフィスからスタートしました。

80年代にかけて日本企業がどんどんアメリカに進出し、仕事は次第に忙しくなりました。私は中途半端な日本語ながらも大企業に営業に行っていました。気が短いから客ともよく喧嘩したけど、自分の商売だからクビにならなかったのがラッキーでした。「先見の明があったね」とよく言われますが、たまたま時代とタイミングが合っただけです。当時はとにかく「飯を食うため、生きるため」に始めた会社でした。

74年、古本さんは自身の会社「古本不動産」をニュージャージーで立ち上げた。(写真は古本さん提供)
74年、古本さんは自身の会社「古本不動産」をニュージャージーで立ち上げた。(写真は本人提供)

3つのアジア系差別を体験

私はこれまで大きく分けて、3つのアジア系差別を受けてきました。

(1)戦前〜戦後のアジア系に対する排斥や日系人の強制収容(2)80年代の対日貿易赤字急増を機にした反日運動のジャパンバッシング、そして(3)新型コロナウイルスに端を発したヘイトクライム、アジアバッシングです。

パンデミック以降、日系人も差別や暴力の対象として犠牲になっているけど、昔はジャパンバッシングの影響で中国系や韓国系の人たちも大変な目に遭ってきました。

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ルーズベルト政権は、どのように12万人の無辜の日系人を強制収容したのか?自由と人権を奪う大義名分として掲げられたのは、「安全保障への懸念」というものでした。強制収容を実行するための「根拠」が必要だったので、諜報部は「西海岸の日本人は日本政府をバックアップしながら諜報(スパイ)活動をしている。危険な民族だから、収容所にぶち込まないと我々の安全を脅かし大変なことになる」といった内容の報告書を作って最高裁判所に送り、強制収容が正当化されました。

実際のところそのような危険はなく、まったくの事実無根でした。78年にリドレス(戦後の救済補償)運動の一環としてワシントンD.C.のアクティビスト、アイコ・ハージグ-ヨシナガ(Aiko Herzig-Yoshinaga)が調査を開始し、数年かけて証拠書類を集め、報告書の内容がでっち上げであり、強制収容が憲法違反だったことを証明しました。私とキャロルは、アイコ氏が亡くなる1ヵ月前、彼女と昼ご飯を食べながら語り合いました。 彼女の私たちへの最後の言葉は「(強制収容は)私たちの政府が私たち(日系人)に犯した罪だった」でした。

アイコ氏が違憲を証明したことが基となり、88年レーガン大統領が人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名しました。そして、大統領からの謝罪の手紙と補償金2万ドルが、生存者および遺族全員に贈られました。私たちも、5年後の93年10月までに、きょうだい5人全員が受け取りました。

古本さんが93年に受け取った、当時のクリントン大統領の名前付きの謝罪文。(撮影:筆者)
古本さんが93年に受け取った、当時のクリントン大統領の名前付きの謝罪文。(撮影:筆者)

ただしこの公式謝罪は、強制収容が始まってから51年後のことで、両親もすでに亡くなった後でした。家内のキャロルの祖父は収容所内で亡くなりました。中には「自分たち日系人が悪いことをしたから収容所に入れられた」と思いこんだまま死んでいった人もいます。一番苦労したのは全財産を没収され強制的に入れられた人たちですから、本当はそのような人たちがもらうべきものでした。

77歳の今、伝えておきたい「ダイバーシティ」と「平和」について

私の人生は「収容所、原爆投下の広島、ベトナム戦」と全部戦争が絡んでおり、戦争なんてもうこりごりです。二度と体験したくないし、ほかの人も同じような運命に苦しんでほしくない。けれども相変わらず戦争は続いています。

以前読んだアメリカの歴史教科書には、日系収容所に関する記述はたった1文だけでした。経験者はびっくりするほど少なくなっています。私の姉も80代後半になって記憶がだんだんと薄らいでいっています。

私は77歳の今、元気なうちに経験をできるだけ後世に伝え、平和を望む機会を作らなければならないという使命を感じているところです。史実を伝え歴史の本に残し、あらゆる問題を乗り越え、法制化していかなければなりません。

世界中ではダイバーシティ化の取り組みが進められ、アメリカも憲法であらゆる人権を守ろうとしていますが、いまだ黒人の差別問題などなかなか根強く残っています。私もこれまで受けてきた人種差別の経験を通じて問題解決に取り組んでいますが、ダイバーシティの問題はなかなか難しいと感じています。

やはりこの問題も、解決のためには「伝えていくこと」が必要です。私がこうやって話すのは、アメリカを恨んでいるとかそういうことではないです。私が住むところはここなんです。ここが私の国ですから、良くしていかないといけない。「難しいからまぁいいや」と言っていたらだめ。難しいけどそのハードルを超えて「平等」にしていかないといけません。問題解決のために闘い続ける、それが私の生き方です。

私にできることと言えば、メディアで話したり、大学や教育現場で演説をしたりして伝えることです。ニューヨークの寺の住職さんと被爆者の声や平和のメッセージを伝える活動をしたり、最近はH.R.40(黒人の弁償問題)についてもテスティモニアル(経験者の証言)をしました。また、異人種間の団結のシンボルとなる桜の木をニュージャージーに植えるプロジェクトにも取り組んでいます。

平和の尊さを伝える一環として、私は日系人のフレッド・コレマツ(Fred Korematsu)氏の人生を讃える活動もしており、5年前にコレマツさんのテスティモニアルをしました。収容所送りが始まった当初、大学生だったコレマツさんは強制収容について「不当だ」「間違っている」「入らない」と言い続けて国を提訴したのですが、有罪判決を受け、収容所ではなく刑務所に収監されました。しかし彼は最後まで諦めなかった(コレマツ対アメリカ合衆国事件 Korematsu v. United States)。ゴードン・ヒラバヤシ(Gordon Hirabayashi)氏、ミノル・ヤスイ(Minoru Yasui)氏らと共に、88年の人権擁護法の立案の礎を築いた人物です。

カリフォルニア州は彼の生誕日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」(Fred Korematsu Day)と制定しており、私が住むニュージャージー・フォートリーでも働きかけ、制定化できました。ニューヨークの行政にも同様に働きかけているところです。

「もし何かおかしいと感じることがあるなら、問題提訴を恐れてはいけません」─ アメリカの人種差別に立ち向かった英雄、フレッド・コレマツ氏。
「日系アメリカ人への不当な強制収容に立ち向かった彼の揺るぎない勇気は、我らの民主主義の価値観とその力を支持する大切さを思い起こさせてくれる」(米下院議長、ナンシー・ペロシ氏のツイッターより)

お伝えしたように私の国はアメリカですが、同時に私は日本のルーツを誇りに思っています。しかし日本人の中には戦争の歴史をあまり知らない人が結構います。アメリカ人にもベトナム戦争のことをあまり知らない人がいます。

2016年、当時のオバマ大統領が広島を訪れた記念に、私も広島を再訪し、かつて通っていた小学校で講演をさせてもらいました。小学生280人が聞いてくれて、素晴らしい質問をたくさん受けました。「これまで平和についてさまざまな講演に参加してきた」という6年生の生徒が、こんなことを話してくれました。

「平和は、大人が考えているほど難しいことではない。隣の人と仲良くしていく、これが平和の基だと思う」

私もいろいろ講演をする機会がありますが、こんなに素晴らしい返答を聞いたことはありませんでした。平和学習から出てきた素晴らしい答えを聞いて、史実を伝える教育の重要性や継続の大切さをつくづく感じました。

戦争の体験をしているのは私だけではありません。ほかにもさまざまな体験をしてきた人がいます。そのような人の話を聞いたり調べたりして、皆さんも平和について考えてみてください。同じ歴史の過ちを繰り返さないために。

(了)

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Interview, text and some photos by Kasumi Abe(Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

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