北米の先住民族 … 意外と知られていないNYとの繋がり。ネイティブアメリカンの足跡を辿る

先住民族を傷つける心ない言動や差別は、21世紀となった今も世界各地で起こっている。 日本では少し前、テレビの情報番組でお笑い芸人が先住民族のアイヌを茶化す表現をし、大問題になった。問題の表現は、先住民族の名前を動物に例えるというもので、以前からたびたびアイヌ民族に向けられてきた差別的なものだった。テレビ局は再発防止に向け、問題が起こった背景を検証しアイヌ民族や視聴者に対して謝罪した。 アメリカでも先ごろ、カリフォルニア州の高校で、教師が授業中にネイティブアメリカンの格好をし、トマホーク(斧)を振りかざすポーズをした動画が拡散され炎上した。問題の動画は、ネイティブアメリカンの生徒が撮影したものだった。生徒にとって教師の言動はネイティブアメリカンの文化に対しての攻撃的な描写として映ったという。教師はその後、休職処分となっている。 これらはほんの一例だが、いずれのケースも先住民族への配慮が足りず、知識や理解の欠如から起きたことだろう。 ネイティブアメリカン文化遺産月間を間近に控えた25日、先住民族の理解を深めるため、ニューヨークにあるスミソニアン協会の一つ、国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)では、企画展「ネイティブニューヨーク」が新設された。マンハッタンからナイアガラの滝まで12箇所において、テリトリーとして何らかのゆかりがあった秘話や、知られざる暮らしぶりなど、先住民族の歴史の足跡が展示されている。 例えば、今では高層ビルが立ち並ぶマンハッタン島も昔は緑が生い茂り、ネイティブアメリカンの人々の暮らしがあった。 17世紀になり、オランダの入植者が土地の所有や譲渡についての知識がなかった先住民族と、60ギルダー(24ドル相当)の価値の物品(ビーズや衣類など)で取引したのがマンハッタンだ(入植者側の解釈は「購入した」、先住民族側は今後もさらなるギフトがあると勘違いし、誤解が発生)。 オランダの植民地となってから、ここは新たなアムステルダム=ニューアムステルダムと呼ばれ、その後イギリス人の手に渡ることになり、新ヨーク=ニューヨークに改名された。 現在全米で、連邦政府が認めたネイティブアメリカンの部族の数は574とされている。そして多くの部族は、もともとの土地(ネイティブニューヨーク)から他の土地に強制的に追いやられた。 同博物館の学芸員で歴史家のガブリエル・タヤック(Gabrielle Tayac)氏によると、ニューヨーク州に現存するネイティブアメリカンは約10部族で、ニュージャージーエリアも含めるとそれ以上になると言う。 タヤック氏はこれまで、現存するすべての居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの理解を深め、人々に啓蒙し、差別などの問題に積極的に取り組んできた。「正しい知識や理解をすることが、問題の解決に繋がる」と語る。 同博物館のアソシエイトディレクター、デビッド・ペニー(David Penney)氏も、「ネイティブアメリカンの歴史と文化は依然として不正確な情報とステレオタイプなイメージの影響を受け続けている」と言う。それでこの特別展では、単なる歴史紹介だけでなく、先住民族の歴史が現代生活や人々とどのようにリンクし影響をもたらしているか、身近なテーマと共に示すことにした。 展示を見て周ると、例えば現在のブロンクスやマンハッタン北部周辺でもともと暮らしていたレナペ(デラウェア)族は、オランダやイギリスからの入植者、後にアメリカ政府から次々に土地を収用され、ニュージャージーやペンシルベニア、北はカナダ、西はカンザス、オハイオ、オクラホマなど遠くへと追いやられたことがわかる。 展示品の一つに、西へ西へと追いやられ1850年代にはカンザスに居留していた時のショルダーポーチがある。自然を模した柄でカラフルな色合いが特徴だ。当時、その周辺で大陸横断鉄道の建設が予定されると、居留地を売り渡すように再び強要され、今度はオクラホマに移動を強いられた。ポーチに埋め込まれたビーズの葉っぱのデザインは、タヤックさんによると「もともとそれらの土地では見られないような植物の柄なんですよ」と言う。もちろんカメラも辞書もない時代のこと。 代々にわたって自分たちの意志に反して幾度となく移動を迫られ、未開の居留地に押し込まれる中、これまで自分たちのいたネイティブの土地や自然の記憶をいつまでも失わないようにと、子や孫の世代に語り継いでいったのだ。この柄1つにも、そんな琴線に触れるエピソードが秘められているのだった。 また、先住民族の人々は現代、強制移住を強いられた先の土地で、差別とはまた別の問題にも晒されている。 28日付のニューヨークタイムズによると、テリトリーの98.9%を奪われたネイティブアメリカンは移住した先々(例えばアリゾナ州など)で、気候変動の脅威に晒されているという。(近年、異常気象による熱波、干ばつ、大規模な山火事などは、アメリカで深刻化) イェール大学の博士課程に在籍するポール・バーン・ブロウ氏は記事の中で、解決するための最善の方法として、「奪った土地を返還すること」と述べている。 いつの時代も、被害を受けやすいのは、社会的に脆弱な立場に置かれている人々だ。今すぐに大きな援助ができなくても、正しい歴史を一人一人が学んでいくことで、いずれ大きな前進に繋がっていくことになるかもしれない。 企画展「ネイティブニューヨーク」は、この先10年単位で続いていく。いつかニューヨークを訪れることがあれば、この展示に足を運んでニューヨークとネイティブアメリカンの繋がりについても考えてみてはどうだろうか。 「展示では、コミックの技法やインタラクティブな方法で、大人から子どもまで楽しく学べるように工夫しました。日本ならアイヌ民族と言うように、それぞれの国の先住民族についても考え、思いを馳せるきっかけになれば嬉しいです」(タヤック氏) 毎年11月はネイティブアメリカン文化遺産月間(National Native American Heritage Month)です。 参考資料 An ‘offensive’ high school teacher caught on video wearing a fake Native American headdress and waving air tomahawks has gone on…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

911それぞれの記憶2 「毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私はそれを聞き、涙が溢れ出た」 エリサさん(72歳、俳優・アーティスト) 事故から20年。グラウンドゼロには、ビルから避難できず亡くなった友人の名前も刻まれている。 今年25になった娘にはいつも言っている。あの辺に行くことがあるときは、決して歩き去ることのないようにと。必ず立ち寄って、きちんと犠牲者に敬意を表しなさいと。あそこは通り過ぎる場所ではない。 2001å¹´9月11日。今でも私はあの日のことを、ほとんどすべてのことを思い出すことができる。​ 私の自宅は、世界貿易センタービル(ツインタワー)から大通りを挟んだはす向かいにあった。1993年の爆発事故の時もここに住んでいたが、私のアパートまで揺れるほどの衝撃だった。 あの日の朝は快晴だった。当時5歳の娘をすぐ近くの幼稚園に送り届け、その足でプールに泳ぎに行ってすぐに戻って来る予定でいた。 幼稚園もプールも自宅から目と鼻の先だ。水着の上に軽く羽織っただけのような軽装で、持って出たのは鍵だけ。財布、携帯電話、IDなどすべて自宅に置いたまま、娘を自転車のチャイルドシートに乗せて、幼稚園に向かった。 とても美しい青空が広がっていたが、それとは対極的に、実は私も娘もその日は少しナーバスでそわそわしていた。なぜならその日は幼稚園の初日で、丸1日娘が園の生活に溶け込めるだろうかと少し心配していたから(注:アメリカは9月が新学期)。また私はほんの数週間前に最愛の母を亡くしたばかりで、まだ悲しみの中にいた。 私は娘の様子を確認するために、しばらく教室の外から見守っていた。教室の窓からは、すぐ近くに世界貿易センタービルが見えた。 ちょうどそのころ、1機目がビルに追突した時間だが、私がいる場所からは何も見えず音も聞こえなかったので、しばらく誰も気づかなかった。娘が大丈夫そうなのを確認し、私は階段に向かった。ちょうど真ん中あたりにさしかかると、下から人々の叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、その人たちの動揺ぶりからこれはただ事ではないと察した。発砲事件か何か大変なことが起きたと思った。私も怖くなり娘のいる教室に引き返した。 窓の向こうに見えたビルには大きな穴ができ、そこから黒煙が上がっていた。飛行機が突っ込んだ穴だ。私はとにかくびっくりした。まるで世界の終わりとでも言うようなとてつもなく恐ろしい光景が広がっていた。人々の泣き叫ぶ声は聞こえたものの、激突音などはまったく聞こえなかった。園内は先生が行ったり来たり騒然とし始めた。子どもに見せまいと先生はブラインドを下ろした。皆その時はまだ事故だとばかりに思っていた。 私はそのビルがこちらに向かって崩れ落ちてくるのではないかと、恐怖心でいっぱいになった。そのころの私の心境として「母も死んだ、私も死ぬんだ」といったような(絶望的な)思考回路だった。 逃げようにも、保護者がいない子どももいる。場所柄、ビルで働いていた親も多かった。警察の指示があるまで動かない方がいいと、園長先生が全児童を1箇所に集めアニメ上映をし始めた。娘は今でもそのアニメを覚えている。しばらくすると屋外に避難し、PS3(公立小学校)に北上するよう指示があった。大人は全員、両手に子ども4人ずつ手を引き外に出た。 大通りはビルの方から逃げ惑う人々で溢れていた。周り一面は砂嵐だ。あれほどの砂嵐はビーチ以外で見たことがなかった。この時も音は聞こえなかった。とにかく私が覚えているのはこうやって(高層ビルを見上げるように)振り返ったことだけ。 無音の世界だった。想像してみて、このような状況ではものすごい騒音がする時でさえ、音は一切聞こえなくなる。 砂嵐が吹き荒れる中、ビルは一瞬にして崩れ落ちた。私も子どもたちも泣き叫んだ。もうもうたる黒煙が広がり、空一面が真っ暗になった。車の走っていないハイウェイを子どもたちの手を引いて、ひたすら走った…。そのうち人々は疲れてデモ行進のように歩き始め、トボトボ歩いて歩いて歩いて…。やっとPS3に到着し、そこで保護者のいない子どもを警察に託し、まずは一安心となった。 私の成人した2人の息子は、それぞれ自立しブルックリンに住んでいた。さぞや心配しているだろうと思ったが、私は携帯も財布も持ち合わせていなかった。 しかし、途中から一緒に歩いた見ず知らずの女性がいて、私に「これから仏教寺院に祈りに行く。そこに電話があるから一緒に行きますか?」と提案してくれた。そうしてやっと電話にたどり着けたのだが、私は一連の出来事で記憶喪失のようになっていて、誰一人番号を思い出すことができなかった。昔は電話番号案内サービスというものがあり、それを利用してやっと息子と話すことができた。その優しい女性は別れ際、私に5ドル(約500円)をくれた。私たちはそれでヨーグルトと牛乳とチェリオス (コーンフレーク)を買うことができた。 腹ごしらえをし、娘を背負って再び徒歩で息子の家を目指した。とにかく暑かったが、ウイリアムズバーグ橋の麓では水の配給が行われていた。橋を渡りながら振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。娘は「火事だ!火事だ!」と泣き叫んだ。娘は今でも、この光景をしっかり覚えている。 ブルックリンに入ると、その日はバスが無料になっていた。しかし大勢の人がマンハッタンから避難してきたので、バスに乗るのにも一苦労だった。乗るのに1時間半ほどかかった上、バスは人々を乗せて周回し(それほど遠くない)息子のアパートにたどり着けたのは夕方5時だった。もう1人の息子とも会え、私たちは無事の再会を喜び合った。 一方でその日から、私は事故により受けた精神的なショックが長引き、テレビニュースで惨事を目の当たりにするたびに、涙がとめどなく溢れるようになった。死者数が1人増え、また1人増え。友人、誰かの友人と訃報が次々に入ってきた。 自宅には数日間、戻ることができなかった。私も娘も着替えも何もない状態で、友人が洋服を貸してくれたりもした。学校もオフィスもしばらく閉鎖となった。 やっと自宅に戻ることができたのは、テロから1週間後のこと。IDがないということはここに住んでいる証拠もないため、自宅に戻るのも一苦労だった。警察に敷地内に入れてもらえずにいたが、近所の人が私がここの住人だと証言してくれ、やっと我が家に戻ることができた。 アパートとその一帯はクライムシーン(凄惨な事件現場)の中心だった。近所の家には機体の一部が窓を割って部屋の中まで突っ込んできている惨状だった。そして建物、プール、屋根…あらゆる場所に亡くなった方の遺体の一部が散乱している状態だった。私は見ていないが、ビルのコンシェルジュが私に教えてくれた。彼は事件後も避難できずにいた。なぜなら2階で1人暮らしをしている老人が事故後どこにも避難できなかったから。あのような状況の中、彼はこの老人と一緒にいてあげたのだった。 私の自宅も大変なことになっていた。あの朝すぐに戻る予定だったので、窓を開けたまま外出していた。自宅の部屋という部屋、そして物という物はすべて、数センチほどの分厚いダスト(埃、ごみ、残骸)で覆われていた。携帯を取り上げると、その跡がくっきりとわかるほどだった。 自宅にはしばらく住めず、滞在先の息子宅からちょくちょく戻っては清掃や修理をするような生活が続いた。そのうちエアーフィルターを手に入れることができたが、マットレスやおもちゃやそのほかいろいろなものはもはや洗えば使えるという状態ではなく、たくさん処分した。 私の自宅窓からは、世界貿易センターが見えた。テロから4、5ヵ月経っても、キャンプファイアーの後のように燻った火はなかなか鎮火していなかった。 そこから毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私の耳にも届いた。 その音色が聞こえるたびに、今日も新たに遺体(の一部)が見つかったことを知る。私はワインを飲みながら、悲しい知らせを告げる音楽を聞く。涙がとめどなく溢れ出る。 今夜も次の夜も、またその次の夜も・・・。 自宅が住める状態になるまで数ヵ月間かかった。その年の感謝祭(11月末)はなんとか自宅で祝うことができた。幼稚園は4ヵ月後の翌年1月に再開したが、園に行っても私はあの時受けたショックから、娘の教室がどこにあるのかわからなかった。 この事件は私のその後の人生にも影響を及ぼした。 私は2015年に膀胱がんと診断され、臓器の摘出手術と化学療法を受けた。髪が抜け落ち、痩せてしまった。その3年後に孫娘も事故で亡くした。これらの体験は911の体験をはるかに凌駕するほど辛いものだった。 さまざまな問題が起こった私を誰も助けてはくれなかった。いや、私はできるだけ周囲の人を助けようとし、また人々も私に手を差し伸べようとしてくれたが、何の助けにもならず、そこから私が救われることはなかった。私が体験したことはすべて(他人が援助できるレベル)を超越していた。 私は時々、何も感じられなくなってしまっていた。一方で、映画を観に行き暴力的なものや虐待など過激なシーンが流れると涙が止まらなくなり、その場にいられなくなることもあった。いわゆるPTSDと言われるものだ。アートや音楽などさまざまなセラピー、メディテーション、そのほか良さそうな治療という治療を受けて今に至る。 私が当時、自宅での清掃時にマスクを着けていたかどうかは…思い出せない。ただ言えるのは、テロから14年後にがんになったということだ。私はこれまで一度もタバコを吸ったことはない。救助や復興活動をした多くのファーストレスポンダーがその後病気で亡くなっている。また、我が家は利用しなかったが、ほかの部屋で雇った清掃業者の中には、(違法滞在のため書類が必要な)仕事に就くことができず、この清掃作業に臨時で雇われた人もいたようだ。彼らのその後を思うと本当に気の毒だ。 今でも涙がこみ上げてくる、これだけのトラウマを抱えた状態でなぜ私がこの体験を話そうとしたか。それは私が死んだらこの話は誰も知らなくなるから。生きているうちに体験談を伝えていくことは大切だと思った。私たちは歴史を知る必要がある。 広島の原爆の被爆者でもあった私の78歳の友人はCOVID-19で亡くなった。彼は生前、子ども時代の戦争体験を私に話してくれた。一方、私は両親や祖父母の昔話を知らない。彼らは思い出したくないと、自分たちの過去を語ろうとはしなかった。ホロコーストや原爆投下など歴史上ではひどいことがたくさん起こってきたが、人は時々、自分で見たもの以外を信じようとしない。しかしそれは起こった、見た、体験した。ならばそれを伝えることが大切だ。いつまでも人々がその悲劇を忘れないように。 9月は娘と息子の誕生月であり、孫娘が亡くなった命日もある。そして911。大変な思い出が詰まっているが、センチメンタルになりすぎないようにしている。だって私の記憶には辛いことだけではなく、いい日もたくさんあったから。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview, text…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。 しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。 20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか? ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。 911それぞれの記憶 「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加 曽野正之さん(50歳、建築家) 私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。 アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。 73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。 刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。 私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。 ニューヨークに移住して3年目、2001å¹´9月11日。 私にとってはいつもの朝だった。 出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。 オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。 ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。 それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。 北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。 そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。 ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった) しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。 地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。 アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。 自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。 確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。 クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が​​95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。 この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。 911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。 アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。 事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。 毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。 2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。 関連記事 NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い 事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。 この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。 (後編につづく) 関連記事 2021年(テロから20年) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview,…

NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い

911テロがアメリカで発生して今年で20年。 亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐため、ニューヨークにはいくつか911慰霊碑が建てられている。前回紹介したマンハッタンのグラウンドゼロがあまりにも有名だが、市内にはほかにもあるのはご存知だろうか? 関連記事: 911から20周年(1) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま マンハッタン南端からフェリーで25分、スタテンアイランド(以下スタテン島)の北端にある慰霊碑、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)。ここには、スタテン島に住みこのテロで犠牲となった人々が弔われている。 日本人の建築家、曽野正之さんによる作品で、2004年に完成した。 ポストカードの両側を折ってひし形にし、羽のように見立てたもので、真っ白で曲線を帯びたシンメトリーが力強くも美しい。 羽の間から見える視界は、ニューヨーク湾を越え、ツインタワーがかつてあったグラウンドゼロへと続く。 曽野さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加することになったのか、またどんな思いで完成させたのだろうか。曽野さんに話を聞いた。 2001年の同時多発テロとその後のアフガニスタン紛争の開始を経て、アメリカがイラク戦争へ向かっていたころ、ニューヨークの設計事務所でアソシエイトとして働いていた曽野さんもデモに参加し、反戦を訴えた。しかしその甲斐もなく、アメリカはイラクでの空爆を開始した。 「911の出来事で吐き気がするほどショックを受け、無力感に襲われて創作意欲を失った」。曽野さんは自身の作品、ポストカーズを見つめながら、当時の記憶を手繰り寄せる。 曽野さんは気分が塞ぎがちになりながらも、倒壊跡地で同僚らと復旧作業に参加した。そんな中、スタテン島の犠牲者のために慰霊碑を作ろうという区のプロジェクトが持ち上がり、曽野さんの仲間内でも話題になった。03年の初めのことだ。 グラウンドゼロなど911の復興計画は通常、指名コンペとなっており、世界的な超大御所建築家しか応募ができない。しかしスタテン島慰霊碑は、初めて一般公募から広く作品を募った。曽野さんも迷わず応募した。 昼間は設計事務所で働き、夜間自宅に戻り寝る間も惜しんで制作に取り組んだ。 まずは重要なコンセプトについて考えあぐねる中、このように想像してみた。 「もし自分が亡くなった方の家族や友人だったら…」 曽野さんは、暗い部屋の中で延々に問い続けた。「これはとても恐ろしく辛いプロセスだった」。しかし、そこから「犠牲者への手紙」「ポストカードの羽」というコンセプトが湧いてきた。 次の課題は「一番大切な犠牲者、個人個人をどう表現するか」ということだ。犠牲者が実際に存在していた人として、慰霊碑を訪れた人が一人一人を感じられるようにするには…? 締め切り間際のある日、曽野さんは友人の家に寄ることがあった。そこで、横顔の構図が元々好きな曽野さんが以前撮影したある写真の話になった。それを改めて見て「真正面の写真は辛いから横顔くらいがちょうどいい」と思い、犠牲者の横顔のシルエットの彫刻を思いついたという。そうして設計案がついに完成した。 コンペには多数の国から総数200案ほどの応募があったが、曽野さん案は見事にその中から選ばれたのだった。 プロジェクトがスタートし、曽野さんは遺族とコミュニケーションを取り、犠牲者の写真を見せてもらいながら、遺族と共に横顔を一つ一つ作り上げていった。 「横顔の写真って普段撮らないから、どうしても結婚式での誓いのキスの写真などになる。遺族の方々に人生でもっとも幸せだった瞬間を思い出させることになりとても辛かった。ただそうして一緒に作ることで意味のあるプロセスとなり、慰霊碑が遺族の方々にとっても彼らの一部になってほしいと思いました」と曽野さんは振り返る。 羽の内側に刻まれた263人の中で、1つだけ何も掘られていないものがある。「アルバムを開いて写真を選ぶのが辛い」と断られたからだ。作る過程で泣き出す人もいた。それだけ残された家族には、悲痛な事件だった。 完成以来、多くの人々がこの慰霊碑を訪れている。毎年9月11日には区主催の記念式典がここで行われており、曽野さんも欠かさず参加し犠牲者を弔っている。 911はまだ続いている ポストカーズのすぐ近くの湾沿いには、別の911慰霊碑、The Staten Island September 11 First Responders Memorial(911緊急救助隊慰霊碑)も14年から設置されている。 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員が、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっており、石板には同区の被害者107人の名が刻まれている。こちらの設計も曽野さんによるものだ。 その石板は「大きな見えないリングの一部」なのだと曽野さんは説明する。 復興現場から出た瓦礫の総量180万トンを集めると、直径150メートルほどの球体になるそうだ。それをイメージし、一部が湾沿いの柵に設置された石板として現れ、見えるようにした。同区の処理場に埋め立てられた瓦礫や、消防士や作業員が粉骨砕身で立ち向かった壮絶な救出・復興作業など、「もはや見えなくなってしまったものが見えるように」という思いを込めた。 17年よりここに名前が刻まれ始めて4年経つが、今も毎年十数人ずつ名前が足されている。 「あのテロから20年が経ち、完全に過去のものとされていますが、今でもまだ終わっていないんです。この悲劇から学んだことを平和な未来への教訓にするため、何が起こったのかを特に若い世代に伝えることは、当地であの日を目撃した我々の責任だと思っています」 曽野正之(Masayuki Sono) 建築家 / ã‚¯ãƒ©ã‚¦ã‚ºãƒ»ã‚¢ã‚ªå…±åŒå‰µæ¥­è€… 幼少期を米ニュージャージーで過ごす。神戸大学と交換留学先のワシントン大学で建築学を学び、1998年ニューヨークに移住。2004年自身の作品、The Staten Island September 11 Memorialが完成。10年に設計事務所、Clouds…

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Interviewed by Kasumi Abe w. Masayo Ishigure, Koto player who is know in the movie of ”Memoirs of a Geisha” NY在住琴奏者 石榑雅代 w. Kanji Yamanouchi, Ambassador and Consul General of Japan in NY 在NY総領事館 山野内勘二大使 English French

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Interviewed by Kasumi Abe Future is Now: Naren Barfield, the Deputy Vice-Chancellor at Royal College of Art in London (06.30 2020) … Read article  英国RCA、ナレンバーフィールド副学長、高位責任者 ISSUE 04 : CEOs of AWAY & Partners & Spade (04.04 2019) NY2大新興CEO(アウェイ、パートナーズ&スペード) Read Info

「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。© Kasumi Abe 水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。 私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。 ブルックリンブルワリー(Brooklyn Brewery)とは? 全米はもとより、日本や北欧でも流通するニューヨーク発の地ビール。創業は1987年。戦場ジャーナリストだったスティーブ・ヒンディ(Steve Hindy)が、中東特派員を終え帰国後、自宅キッチンで趣味のビール作りをしたことが始まり。クラフトビールという概念はここから始まったと言っても過言ではない。 (以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容) 80年代、戦場を駆け抜けた 私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。 それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。 妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。 最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。 そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。 翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。 振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。 ビール作りは自宅キッチンから そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。 当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。 それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。 治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業 ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。 その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。 しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。 ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。 今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今では60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう? 世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話 ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。 だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。 私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムを手がけたミルトン・グレイザーでした。 早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。 ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです! ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。 《誕生》「クラフトビール?何それ?」 ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。 クラフトビールとは? 当初、小規模のビール会社はマイクロブルワリーと呼ばれていた。American Homebrewers Associationが発行する雑誌で、コロラド在住のITライターが「ブルワリーはまるでマイクロプロセッサーのようだ」と表現したのがきっかけ。その後、スティーブが06年より会長を務め、現在は取締役会のメンバー、Brewers Associationでクラフトビールという言葉を使うようになった。 「我々が『クラフトビール』と名付け定義化することで、小規模のブルワリーの販売を促進しようとしたのです。生産量が年間600万バレル以下で、独立企業でかつ大手により25%以上の株シェアを持たせない、そして醸造免許を保持している──これらを満たせばクラフトビールと呼んでいいのです」 日本でクラフトビール、いつから聞くように? 過去30年以上の日本全国の新聞記事(約150紙)を一括検索できる「G-Searchデータベース」によると、クラフトビールという言葉の新聞掲載数は、2000年代初頭には年間15件、10年には35件、11年には99件。12年に入って3桁台の260件、13年には502件。14年に入って4桁台の1198件で昨年1年間では2167件。 《衰退から復活まで》資金が底尽き、二足の草鞋 91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。 事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。 ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。 ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。 ビジネスを成功させる秘訣とは?…