強制収容所生まれ、広島育ち。3つのアジア系差別を経験 ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(後編)

【日系人強制収容から80年】 (前編からの続き) 以下、古本武司氏のインタビュー内容 ベトナム戦争で最前線送り、PTSDを患う 1955年、ベトナム戦争が始まりました。第二次世界大戦下でもベトナム戦争下でも当初、兵士は志願でなく招集されていました。私が入隊したのは68å¹´2月、ちょうどカリフォルニアの大学を卒業した23歳のときです。 私は広島からカリフォルニアに戻って来た後、“Jap”(ジャップ)と蔑称で呼ばれたり、毎年12月になると真珠湾攻撃のことを持ち出されたりと、謂れの無いことでよくいじめられました。「日系人というだけでどうしてこんな目に合わないといけないのか」と思うこともしばしばでした。「私はアメリカ人だ」と訴えても全然相手にされません。だから「米軍兵士として国のために戦えば、バカにされなくなるだろう」と思いました。入隊は私にとってアメリカ人として認められ、人々とイコールになれる方法でした。 将来を見据えて志願した士官学校で半年学んだ末、私はインテリジェンス・オフィサーとして情報部管轄の配属となりました。任務は3年間。情報部ということで、最前線ではなくエアコンが効いたオフィスでの任務になりそうだと内心ホッとしたのも束の間、70年から1年間飛ばされたのは、カンボジアとの国境近く、南ベトナム軍と共に戦う最前線の危険地帯だったのです。 そこにはトンネルがたくさんあって、無数に地雷が埋め込まれていました。夜間に敵軍を待ち伏せし、撃ち合います。仲間が撃たれたり地雷を踏んで負傷したら、救助用ヘリを呼びます。その役目を情報部が請け負っていたのですが、敵がどんどん撃ち込んできて、目の前で仲間が次々と倒れていきました。 戦争というのは実際に経験しないとなかなか想像がつかないでしょうが、そんな状況がずっと続くと頭が狂ってきます。最初は歩くのも怖かったけど、そのうち恐ろしいけど恐ろしくないという風に感覚が麻痺してきます。逃げるところはどこにもないし、追い詰められて精神的におかしな状態になっていくのです。 また、ジャングルが生い茂っている状態では敵軍の動きを把握できないので、上空から地上に大量のケミカル、エージェントオレンジ(枯葉剤)が散布されていました。そういうところで撃ち合っていたので、私の体、心臓や骨、血糖値などは今でも枯葉剤による後遺症に悩まされ続けています。アメリカ政府には今でも弁償をしてもらっています。 生き抜いて帰還、そしてNYへ 私はベトナム戦争を生き残り、71年に無事に帰還しましたが、長い間、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けました。 戦争に行くと本当に大変ですよ。第二次世界大戦を戦った兵士もそうだったでしょうが、どういう戦争でも戦い抜くのは大変だし、生き残っても大変です。辛い記憶が蘇り、やりきれない思いをヒロポンなどドラッグに癒してもらっている帰還兵は多かったです。私も本当は体のために飲んだらいけないけど、今でもお酒が好きなのはそういうわけです。 とにかく当時の精神状態は、子犬が人間にいじめられて萎縮してしまう、そんな感じでした。もちろん心の内は見せないけど孤独で、誰とも会いたくなかった。家族や友人から離れて1人でアイソレーション(隔離)したい一心で、数ヵ月後にニューヨークにやって来ました。 親戚が経営する飲食店やコネで就職した陶器会社でも働きましたが、PTSDで精神的に辛く、同僚とも気が合わないし、仕事に集中できずミスも多く、半年もしないうちにクビになりました。 当時、家賃140ドルの床が傾いたおんぼろアパートに住んでいました。72年にキャロルと結婚したのですが、PTSDで仕事が全然続かない私の代わりに、家内が働いて支えてくれました。 74年には家内と一緒に会社を立ち上げました。アルバイトでも2年ほどの経験があれば不動産業で独立できたのです。「古本不動産」の誕生です。賃料100ドルちょっとの窓もない地下オフィスからスタートしました。 80年代にかけて日本企業がどんどんアメリカに進出し、仕事は次第に忙しくなりました。私は中途半端な日本語ながらも大企業に営業に行っていました。気が短いから客ともよく喧嘩したけど、自分の商売だからクビにならなかったのがラッキーでした。「先見の明があったね」とよく言われますが、たまたま時代とタイミングが合っただけです。当時はとにかく「飯を食うため、生きるため」に始めた会社でした。 3つのアジア系差別を体験 私はこれまで大きく分けて、3つのアジア系差別を受けてきました。 (1)戦前〜戦後のアジア系に対する排斥や日系人の強制収容(2)80年代の対日貿易赤字急増を機にした反日運動のジャパンバッシング、そして(3)新型コロナウイルスに端を発したヘイトクライム、アジアバッシングです。 パンデミック以降、日系人も差別や暴力の対象として犠牲になっているけど、昔はジャパンバッシングの影響で中国系や韓国系の人たちも大変な目に遭ってきました。 関連記事 多発するアジア人差別(3)日系三世女性の見た、故郷「アメリカ」 日本人に間違われ「動物以下の扱いで」殺されたヴィンセント・チン事件(’82)── 全米アジア人差別 ルーズベルト政権は、どのように12万人の無辜の日系人を強制収容したのか?自由と人権を奪う大義名分として掲げられたのは、「安全保障への懸念」というものでした。強制収容を実行するための「根拠」が必要だったので、諜報部は「西海岸の日本人は日本政府をバックアップしながら諜報(スパイ)活動をしている。危険な民族だから、収容所にぶち込まないと我々の安全を脅かし大変なことになる」といった内容の報告書を作って最高裁判所に送り、強制収容が正当化されました。 実際のところそのような危険はなく、まったくの事実無根でした。78年にリドレス(戦後の救済補償)運動の一環としてワシントンD.C.のアクティビスト、アイコ・ハージグ-ヨシナガ(Aiko Herzig-Yoshinaga)が調査を開始し、数年かけて証拠書類を集め、報告書の内容がでっち上げであり、強制収容が憲法違反だったことを証明しました。私とキャロルは、アイコ氏が亡くなる1ヵ月前、彼女と昼ご飯を食べながら語り合いました。 彼女の私たちへの最後の言葉は「(強制収容は)私たちの政府が私たち(日系人)に犯した罪だった」でした。 アイコ氏が違憲を証明したことが基となり、88年レーガン大統領が人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名しました。そして、大統領からの謝罪の手紙と補償金2万ドルが、生存者および遺族全員に贈られました。私たちも、5年後の93å¹´10月までに、きょうだい5人全員が受け取りました。 ただしこの公式謝罪は、強制収容が始まってから51年後のことで、両親もすでに亡くなった後でした。家内のキャロルの祖父は収容所内で亡くなりました。中には「自分たち日系人が悪いことをしたから収容所に入れられた」と思いこんだまま死んでいった人もいます。一番苦労したのは全財産を没収され強制的に入れられた人たちですから、本当はそのような人たちがもらうべきものでした。 77歳の今、伝えておきたい「ダイバーシティ」と「平和」について 私の人生は「収容所、原爆投下の広島、ベトナム戦」と全部戦争が絡んでおり、戦争なんてもうこりごりです。二度と体験したくないし、ほかの人も同じような運命に苦しんでほしくない。けれども相変わらず戦争は続いています。 以前読んだアメリカの歴史教科書には、日系収容所に関する記述はたった1文だけでした。経験者はびっくりするほど少なくなっています。私の姉も80代後半になって記憶がだんだんと薄らいでいっています。 私は77歳の今、元気なうちに経験をできるだけ後世に伝え、平和を望む機会を作らなければならないという使命を感じているところです。史実を伝え歴史の本に残し、あらゆる問題を乗り越え、法制化していかなければなりません。 世界中ではダイバーシティ化の取り組みが進められ、アメリカも憲法であらゆる人権を守ろうとしていますが、いまだ黒人の差別問題などなかなか根強く残っています。私もこれまで受けてきた人種差別の経験を通じて問題解決に取り組んでいますが、ダイバーシティの問題はなかなか難しいと感じています。 やはりこの問題も、解決のためには「伝えていくこと」が必要です。私がこうやって話すのは、アメリカを恨んでいるとかそういうことではないです。私が住むところはここなんです。ここが私の国ですから、良くしていかないといけない。「難しいからまぁいいや」と言っていたらだめ。難しいけどそのハードルを超えて「平等」にしていかないといけません。問題解決のために闘い続ける、それが私の生き方です。 私にできることと言えば、メディアで話したり、大学や教育現場で演説をしたりして伝えることです。ニューヨークの寺の住職さんと被爆者の声や平和のメッセージを伝える活動をしたり、最近はH.R.40(黒人の弁償問題)についてもテスティモニアル(経験者の証言)をしました。また、異人種間の団結のシンボルとなる桜の木をニュージャージーに植えるプロジェクトにも取り組んでいます。 平和の尊さを伝える一環として、私は日系人のフレッド・コレマツ(Fred Korematsu)氏の人生を讃える活動もしており、5年前にコレマツさんのテスティモニアルをしました。収容所送りが始まった当初、大学生だったコレマツさんは強制収容について「不当だ」「間違っている」「入らない」と言い続けて国を提訴したのですが、有罪判決を受け、収容所ではなく刑務所に収監されました。しかし彼は最後まで諦めなかった(コレマツ対アメリカ合衆国事件 Korematsu v. United States)。ゴードン・ヒラバヤシ(Gordon Hirabayashi)氏、ミノル・ヤスイ(Minoru Yasui)氏らと共に、88年の人権擁護法の立案の礎を築いた人物です。 カリフォルニア州は彼の生誕日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」(Fred Korematsu Day)と制定しており、私が住むニュージャージー・フォートリーでも働きかけ、制定化できました。ニューヨークの行政にも同様に働きかけているところです。 お伝えしたように私の国はアメリカですが、同時に私は日本のルーツを誇りに思っています。しかし日本人の中には戦争の歴史をあまり知らない人が結構います。アメリカ人にもベトナム戦争のことをあまり知らない人がいます。…

強制収容所生まれ、被爆後の広島育ち、ベトナム戦でPTSD ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(前編)

【日系人強制収容から80年】 アメリカでは80年前の1942å¹´2月19日、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領によって「大統領令9066号」(Executive Order 9066)が発令された。 旧日本海軍による真珠湾攻撃から約2ヵ月というタイミングでの発令で、主に西海岸に住むすべての日系アメリカ人の強制収容所送りを意味した。 現在、ニュージャージー州で不動産会社「古本不動産」を営んで半世紀になる古本武司(Takeshi TAK Furumoto)さん(77)は、日系人の強制収容が始まった2年後の44年、カリフォルニア州の収容所内で誕生した。 その翌年に終戦を迎えて一家は日本に渡り、古本さんは原爆投下後の復興真っ只中にあった広島で育った。またアメリカ帰国後はベトナム戦争に出兵し最前線で戦うなど、彼の人生は常に戦争と共にあった。 日系人の強制収容が始まって80年となるこの節目に、古本さんが伝えておきたいこととは? 以下、古本武司氏のインタビュー内容 家族は10日猶予で収容所に入れられ、そこで私は生まれた 私は1944å¹´10月、カリフォルニア州トゥリーレイク強制収容所(Tule Lake internment camp)で生まれました。 2019年から翌年にかけて、日系人の妻と共にマンザナー強制収容所(Manzanar War Relocation Center)跡地や、トゥリーレイク収容所の歴史を伝える施設などを巡礼しました。家族が入れられたのは個室などがないバラック(小屋)で、プライベートを確保するには布をかけて仕切りを作らなければならず、共同便所も動物が入れられるケージのような狭さ。そのような劣悪な環境を目の当たりにしてきました。私はそんな中で誕生したのです。 もともと古本家とアメリカとの関係は、20世紀初頭に遡ります。父、清人(キヨト)の両親(私にとっての祖父母)が1911年、カリフォルニア州サクラメントのいちご畑で働くために渡米したことから始まります。 父は4人きょうだいの長男でした。父の両親は当時まだ小さかった父を地元・広島に残し、先に渡米しました。そして生活の基盤が整い、父も1921年に1人で渡米し、家族と合流しました。 しかしスペイン風邪(1世紀前のパンデミック)が終息したタイミングでしたから景気が悪く、父は長男として相当苦労してきました。当時彼はまだ13歳で、農作業に加え、ブランケットを担いで行商をしながら生計を支えていたようです。 その甲斐あって父は成功し、オカ・プロデュース(OKA Produce)という野菜の卸し会社を共同創業するまでになり、26人を雇うほどの事業に育て上げています。 しかし41å¹´12月の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まり、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナなど西海岸および一部ハワイに住んでいた12万人の無実の日系アメリカ人は全財産を没収され、適正手続きもなく10日間のノーティス(猶予)で、強制的に収容所送りとなりました。 想像してみてほしい。 あなたが「日本人」というだけで、今ある自宅や事業、全財産を突然没収され、収容所に強制的に送られたら? いつ解放されるかもわからないまま、塀の中での生活を強いられ続けたら? 大統領令9066号の発令に収容所施設の建設は追いつかず、はじめは臨時の収容所としてカリフォルニア州の競馬場に半年間入れられました。そして42年秋にアーカンソー州の収容所が完成し、そこに移されました。 翌43年、収容者たちはアメリカに対してどれほど忠誠心を持っているかの質問、ロイヤリティクエスチョンを受けます。その中にはこのような質問もありました。 「米兵に志願するか?」 「天皇への忠誠心を捨てるか?」 大多数の人は嘘をついてでも「Yes, Yes」と答えたが、4人の子の父だった親父は、「米軍には入らない」、「天皇陛下への忠誠心を捨てることはできない」と返答。このように「No, No」と返事したのは収容者12万人中の1割だったそうです。そして私の家族を含むその1割の人が、過酷な環境のトゥリーレイク収容所に入れられました。私が生まれたのはその翌年です。 戦後、私の両親など収容所生活を経験した1世や2世の人たちは、当時の話を子どもにしませんでした。辛い時代のことをわざわざ思い出したくないですから。4人の姉は子ども時代の収容所の記憶を、大人になって私にちょこちょこ話してくれました。 私がこの歴史にもっと関与し始めたのは、5年前トランプ政権が誕生する少し前からです。トランプ氏はムスリム系アメリカ人に対して入国禁止令を発令するなど、当時の日系人に対して行ったことと同じことを政策に掲げました。これがきっかけになり、私は跡地を訪問して自分でも本格的に調べ、語り部として伝えていく活動を始めました。 原爆投下後の広島で過ごした幼少期 1945å¹´8月、広島と長崎に原爆が投下され日本が降伏し、太平洋戦争が終わりました。 収容所から出て自由の身となった私の一家はポートランドから横須賀まで、最大5000人収容の大型船(USS General Gordon)で、同年12月から1ヵ月かけて渡航し、両親の地元・広島に戻りました。私が1æ­³2ヵ月の時です。 お袋の実家があるのは、爆心地から1.5マイル(2.5km)弱の所でしたから「今帰ってくると大変だ」と反対されたようですが、両親の帰国の意思は固かったようです。長男だった親父には「復興で大変な親の面倒を自分が看なければ」という強い責任感があったのでしょう。4人の姉も収容所で日本語、日本史、日本の歌まで学んでいたので、日本に帰りたいという気持ちが増したようです。 ただし、焼け野原となった広島での生活は、家族にとって苦労の連続でした。 私は、親父の実家がある広島の西原(安佐南区西原)で、11歳半(1956年)まで育ちました。 祖父母や叔父・叔母は、被爆者として健康手帳をもらっています。特にお袋側の叔父の火傷が酷くて、当時12歳の叔父は体の半分ほど大火傷を負いました。お袋から「絶対に火傷について触れないように」と口を酸っぱくして言われていたので、怪我や当時の状況について聞いたことはありません。 叔父のような人は広島にたくさんいました。お金がないからバレーボールの試合もユニフォームを作る代わりに、1つのチームはシャツを着て別のチームはシャツなしでやります。すると上半身に火傷の跡がある人や、指がない人などもよく見かけました。でも私は子どもだったし、あんまり気にしませんでした。社会科の授業で原爆ドームに行った時も、当時の私は興味深く学ぼうとも思わなかったです。 当時少年だった私に、復興の街・広島はどう映っていたか?ベトナムの路上とかで今でもよく見るような、品物を売るスタンドがたくさん出ていたのを覚えています。活気というよりサバイブな感じでしたね。生き残った者は皆、これからも生き続けないといけないわけだから、どんな状況でも頑張るしかなかったのです。 親父は実家の百姓(原文ママ)の仕事を手伝いながら、英語力を生かしてPX(進駐軍の基地内の売店)でシェフや運転手をしていました。食べるものがない時代でしたが、よくパンの売れ残りを持って帰ってくれました。家族や両親に苦労をかけたくないと、休みなく働いて苦労に苦労を重ね、私たちを育て上げてくれました。 10年ほどして広島での生活の基盤が整ったので、もう一度アメリカに戻ろうということになりました。親父は卸会社で一度成功しており、アメリカという国は一生懸命に頑張ればチャンスがあると知っていました。それで「家族全員で裸一貫でまた一から出直そう」となったのです。 ただし当時、日本に戻った大人はアメリカ市民権を自動的に剥奪されました。母方の祖父母はカリフォルニア州でメロン畑を営み、そこで生まれた日系2世のお袋までもが、市民権を非合法的に剥奪されたのです。 戦前〜戦後とはそういう時代です。アメリカで日本人は平気で差別され、非常に住みにくかったです。それ以前はセグリゲーション(分離)政策で有色人種の扱いはもっと酷く、白人と住む場所も学校も別で、土地も不動産も所有できず、インターナショナルマレッジ(異人種間結婚)も認められませんでした。ジョンソン政権下で人種差別に大分シビアになりましたが、そのような排斥の名残は、マーティン・ルーサー・キング牧師が68年に亡くなり、公民権運動が活発化するまで根強くありました。 それでも日本人は頑張って働いて、アメリカで一旗上げて儲けて日本に凱旋帰国する例がたくさんあり、父もアメリカンドリームをもう一度追い求めたいと思ったのです。 失った市民権をどうしたか?子どもは市民権を剥奪されなかったので、19歳の姉が1952年にまずアメリカに戻り、スポンサーになれる21歳、54年から家族を1人ずつ連れ戻し、その2年後にやっと全員がアメリカに揃いました。…

北米の先住民族 … 意外と知られていないNYとの繋がり。ネイティブアメリカンの足跡を辿る

先住民族を傷つける心ない言動や差別は、21世紀となった今も世界各地で起こっている。 日本では少し前、テレビの情報番組でお笑い芸人が先住民族のアイヌを茶化す表現をし、大問題になった。問題の表現は、先住民族の名前を動物に例えるというもので、以前からたびたびアイヌ民族に向けられてきた差別的なものだった。テレビ局は再発防止に向け、問題が起こった背景を検証しアイヌ民族や視聴者に対して謝罪した。 アメリカでも先ごろ、カリフォルニア州の高校で、教師が授業中にネイティブアメリカンの格好をし、トマホーク(斧)を振りかざすポーズをした動画が拡散され炎上した。問題の動画は、ネイティブアメリカンの生徒が撮影したものだった。生徒にとって教師の言動はネイティブアメリカンの文化に対しての攻撃的な描写として映ったという。教師はその後、休職処分となっている。 これらはほんの一例だが、いずれのケースも先住民族への配慮が足りず、知識や理解の欠如から起きたことだろう。 ネイティブアメリカン文化遺産月間を間近に控えた25日、先住民族の理解を深めるため、ニューヨークにあるスミソニアン協会の一つ、国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)では、企画展「ネイティブニューヨーク」が新設された。マンハッタンからナイアガラの滝まで12箇所において、テリトリーとして何らかのゆかりがあった秘話や、知られざる暮らしぶりなど、先住民族の歴史の足跡が展示されている。 例えば、今では高層ビルが立ち並ぶマンハッタン島も昔は緑が生い茂り、ネイティブアメリカンの人々の暮らしがあった。 17世紀になり、オランダの入植者が土地の所有や譲渡についての知識がなかった先住民族と、60ギルダー(24ドル相当)の価値の物品(ビーズや衣類など)で取引したのがマンハッタンだ(入植者側の解釈は「購入した」、先住民族側は今後もさらなるギフトがあると勘違いし、誤解が発生)。 オランダの植民地となってから、ここは新たなアムステルダム=ニューアムステルダムと呼ばれ、その後イギリス人の手に渡ることになり、新ヨーク=ニューヨークに改名された。 現在全米で、連邦政府が認めたネイティブアメリカンの部族の数は574とされている。そして多くの部族は、もともとの土地(ネイティブニューヨーク)から他の土地に強制的に追いやられた。 同博物館の学芸員で歴史家のガブリエル・タヤック(Gabrielle Tayac)氏によると、ニューヨーク州に現存するネイティブアメリカンは約10部族で、ニュージャージーエリアも含めるとそれ以上になると言う。 タヤック氏はこれまで、現存するすべての居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの理解を深め、人々に啓蒙し、差別などの問題に積極的に取り組んできた。「正しい知識や理解をすることが、問題の解決に繋がる」と語る。 同博物館のアソシエイトディレクター、デビッド・ペニー(David Penney)氏も、「ネイティブアメリカンの歴史と文化は依然として不正確な情報とステレオタイプなイメージの影響を受け続けている」と言う。それでこの特別展では、単なる歴史紹介だけでなく、先住民族の歴史が現代生活や人々とどのようにリンクし影響をもたらしているか、身近なテーマと共に示すことにした。 展示を見て周ると、例えば現在のブロンクスやマンハッタン北部周辺でもともと暮らしていたレナペ(デラウェア)族は、オランダやイギリスからの入植者、後にアメリカ政府から次々に土地を収用され、ニュージャージーやペンシルベニア、北はカナダ、西はカンザス、オハイオ、オクラホマなど遠くへと追いやられたことがわかる。 展示品の一つに、西へ西へと追いやられ1850年代にはカンザスに居留していた時のショルダーポーチがある。自然を模した柄でカラフルな色合いが特徴だ。当時、その周辺で大陸横断鉄道の建設が予定されると、居留地を売り渡すように再び強要され、今度はオクラホマに移動を強いられた。ポーチに埋め込まれたビーズの葉っぱのデザインは、タヤックさんによると「もともとそれらの土地では見られないような植物の柄なんですよ」と言う。もちろんカメラも辞書もない時代のこと。 代々にわたって自分たちの意志に反して幾度となく移動を迫られ、未開の居留地に押し込まれる中、これまで自分たちのいたネイティブの土地や自然の記憶をいつまでも失わないようにと、子や孫の世代に語り継いでいったのだ。この柄1つにも、そんな琴線に触れるエピソードが秘められているのだった。 また、先住民族の人々は現代、強制移住を強いられた先の土地で、差別とはまた別の問題にも晒されている。 28日付のニューヨークタイムズによると、テリトリーの98.9%を奪われたネイティブアメリカンは移住した先々(例えばアリゾナ州など)で、気候変動の脅威に晒されているという。(近年、異常気象による熱波、干ばつ、大規模な山火事などは、アメリカで深刻化) イェール大学の博士課程に在籍するポール・バーン・ブロウ氏は記事の中で、解決するための最善の方法として、「奪った土地を返還すること」と述べている。 いつの時代も、被害を受けやすいのは、社会的に脆弱な立場に置かれている人々だ。今すぐに大きな援助ができなくても、正しい歴史を一人一人が学んでいくことで、いずれ大きな前進に繋がっていくことになるかもしれない。 企画展「ネイティブニューヨーク」は、この先10年単位で続いていく。いつかニューヨークを訪れることがあれば、この展示に足を運んでニューヨークとネイティブアメリカンの繋がりについても考えてみてはどうだろうか。 「展示では、コミックの技法やインタラクティブな方法で、大人から子どもまで楽しく学べるように工夫しました。日本ならアイヌ民族と言うように、それぞれの国の先住民族についても考え、思いを馳せるきっかけになれば嬉しいです」(タヤック氏) 毎年11月はネイティブアメリカン文化遺産月間(National Native American Heritage Month)です。 参考資料 An ‘offensive’ high school teacher caught on video wearing a fake Native American headdress and waving air tomahawks has gone on…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

911それぞれの記憶2 「毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私はそれを聞き、涙が溢れ出た」 エリサさん(72歳、俳優・アーティスト) 事故から20年。グラウンドゼロには、ビルから避難できず亡くなった友人の名前も刻まれている。 今年25になった娘にはいつも言っている。あの辺に行くことがあるときは、決して歩き去ることのないようにと。必ず立ち寄って、きちんと犠牲者に敬意を表しなさいと。あそこは通り過ぎる場所ではない。 2001å¹´9月11日。今でも私はあの日のことを、ほとんどすべてのことを思い出すことができる。​ 私の自宅は、世界貿易センタービル(ツインタワー)から大通りを挟んだはす向かいにあった。1993年の爆発事故の時もここに住んでいたが、私のアパートまで揺れるほどの衝撃だった。 あの日の朝は快晴だった。当時5歳の娘をすぐ近くの幼稚園に送り届け、その足でプールに泳ぎに行ってすぐに戻って来る予定でいた。 幼稚園もプールも自宅から目と鼻の先だ。水着の上に軽く羽織っただけのような軽装で、持って出たのは鍵だけ。財布、携帯電話、IDなどすべて自宅に置いたまま、娘を自転車のチャイルドシートに乗せて、幼稚園に向かった。 とても美しい青空が広がっていたが、それとは対極的に、実は私も娘もその日は少しナーバスでそわそわしていた。なぜならその日は幼稚園の初日で、丸1日娘が園の生活に溶け込めるだろうかと少し心配していたから(注:アメリカは9月が新学期)。また私はほんの数週間前に最愛の母を亡くしたばかりで、まだ悲しみの中にいた。 私は娘の様子を確認するために、しばらく教室の外から見守っていた。教室の窓からは、すぐ近くに世界貿易センタービルが見えた。 ちょうどそのころ、1機目がビルに追突した時間だが、私がいる場所からは何も見えず音も聞こえなかったので、しばらく誰も気づかなかった。娘が大丈夫そうなのを確認し、私は階段に向かった。ちょうど真ん中あたりにさしかかると、下から人々の叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、その人たちの動揺ぶりからこれはただ事ではないと察した。発砲事件か何か大変なことが起きたと思った。私も怖くなり娘のいる教室に引き返した。 窓の向こうに見えたビルには大きな穴ができ、そこから黒煙が上がっていた。飛行機が突っ込んだ穴だ。私はとにかくびっくりした。まるで世界の終わりとでも言うようなとてつもなく恐ろしい光景が広がっていた。人々の泣き叫ぶ声は聞こえたものの、激突音などはまったく聞こえなかった。園内は先生が行ったり来たり騒然とし始めた。子どもに見せまいと先生はブラインドを下ろした。皆その時はまだ事故だとばかりに思っていた。 私はそのビルがこちらに向かって崩れ落ちてくるのではないかと、恐怖心でいっぱいになった。そのころの私の心境として「母も死んだ、私も死ぬんだ」といったような(絶望的な)思考回路だった。 逃げようにも、保護者がいない子どももいる。場所柄、ビルで働いていた親も多かった。警察の指示があるまで動かない方がいいと、園長先生が全児童を1箇所に集めアニメ上映をし始めた。娘は今でもそのアニメを覚えている。しばらくすると屋外に避難し、PS3(公立小学校)に北上するよう指示があった。大人は全員、両手に子ども4人ずつ手を引き外に出た。 大通りはビルの方から逃げ惑う人々で溢れていた。周り一面は砂嵐だ。あれほどの砂嵐はビーチ以外で見たことがなかった。この時も音は聞こえなかった。とにかく私が覚えているのはこうやって(高層ビルを見上げるように)振り返ったことだけ。 無音の世界だった。想像してみて、このような状況ではものすごい騒音がする時でさえ、音は一切聞こえなくなる。 砂嵐が吹き荒れる中、ビルは一瞬にして崩れ落ちた。私も子どもたちも泣き叫んだ。もうもうたる黒煙が広がり、空一面が真っ暗になった。車の走っていないハイウェイを子どもたちの手を引いて、ひたすら走った…。そのうち人々は疲れてデモ行進のように歩き始め、トボトボ歩いて歩いて歩いて…。やっとPS3に到着し、そこで保護者のいない子どもを警察に託し、まずは一安心となった。 私の成人した2人の息子は、それぞれ自立しブルックリンに住んでいた。さぞや心配しているだろうと思ったが、私は携帯も財布も持ち合わせていなかった。 しかし、途中から一緒に歩いた見ず知らずの女性がいて、私に「これから仏教寺院に祈りに行く。そこに電話があるから一緒に行きますか?」と提案してくれた。そうしてやっと電話にたどり着けたのだが、私は一連の出来事で記憶喪失のようになっていて、誰一人番号を思い出すことができなかった。昔は電話番号案内サービスというものがあり、それを利用してやっと息子と話すことができた。その優しい女性は別れ際、私に5ドル(約500円)をくれた。私たちはそれでヨーグルトと牛乳とチェリオス (コーンフレーク)を買うことができた。 腹ごしらえをし、娘を背負って再び徒歩で息子の家を目指した。とにかく暑かったが、ウイリアムズバーグ橋の麓では水の配給が行われていた。橋を渡りながら振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。娘は「火事だ!火事だ!」と泣き叫んだ。娘は今でも、この光景をしっかり覚えている。 ブルックリンに入ると、その日はバスが無料になっていた。しかし大勢の人がマンハッタンから避難してきたので、バスに乗るのにも一苦労だった。乗るのに1時間半ほどかかった上、バスは人々を乗せて周回し(それほど遠くない)息子のアパートにたどり着けたのは夕方5時だった。もう1人の息子とも会え、私たちは無事の再会を喜び合った。 一方でその日から、私は事故により受けた精神的なショックが長引き、テレビニュースで惨事を目の当たりにするたびに、涙がとめどなく溢れるようになった。死者数が1人増え、また1人増え。友人、誰かの友人と訃報が次々に入ってきた。 自宅には数日間、戻ることができなかった。私も娘も着替えも何もない状態で、友人が洋服を貸してくれたりもした。学校もオフィスもしばらく閉鎖となった。 やっと自宅に戻ることができたのは、テロから1週間後のこと。IDがないということはここに住んでいる証拠もないため、自宅に戻るのも一苦労だった。警察に敷地内に入れてもらえずにいたが、近所の人が私がここの住人だと証言してくれ、やっと我が家に戻ることができた。 アパートとその一帯はクライムシーン(凄惨な事件現場)の中心だった。近所の家には機体の一部が窓を割って部屋の中まで突っ込んできている惨状だった。そして建物、プール、屋根…あらゆる場所に亡くなった方の遺体の一部が散乱している状態だった。私は見ていないが、ビルのコンシェルジュが私に教えてくれた。彼は事件後も避難できずにいた。なぜなら2階で1人暮らしをしている老人が事故後どこにも避難できなかったから。あのような状況の中、彼はこの老人と一緒にいてあげたのだった。 私の自宅も大変なことになっていた。あの朝すぐに戻る予定だったので、窓を開けたまま外出していた。自宅の部屋という部屋、そして物という物はすべて、数センチほどの分厚いダスト(埃、ごみ、残骸)で覆われていた。携帯を取り上げると、その跡がくっきりとわかるほどだった。 自宅にはしばらく住めず、滞在先の息子宅からちょくちょく戻っては清掃や修理をするような生活が続いた。そのうちエアーフィルターを手に入れることができたが、マットレスやおもちゃやそのほかいろいろなものはもはや洗えば使えるという状態ではなく、たくさん処分した。 私の自宅窓からは、世界貿易センターが見えた。テロから4、5ヵ月経っても、キャンプファイアーの後のように燻った火はなかなか鎮火していなかった。 そこから毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私の耳にも届いた。 その音色が聞こえるたびに、今日も新たに遺体(の一部)が見つかったことを知る。私はワインを飲みながら、悲しい知らせを告げる音楽を聞く。涙がとめどなく溢れ出る。 今夜も次の夜も、またその次の夜も・・・。 自宅が住める状態になるまで数ヵ月間かかった。その年の感謝祭(11月末)はなんとか自宅で祝うことができた。幼稚園は4ヵ月後の翌年1月に再開したが、園に行っても私はあの時受けたショックから、娘の教室がどこにあるのかわからなかった。 この事件は私のその後の人生にも影響を及ぼした。 私は2015年に膀胱がんと診断され、臓器の摘出手術と化学療法を受けた。髪が抜け落ち、痩せてしまった。その3年後に孫娘も事故で亡くした。これらの体験は911の体験をはるかに凌駕するほど辛いものだった。 さまざまな問題が起こった私を誰も助けてはくれなかった。いや、私はできるだけ周囲の人を助けようとし、また人々も私に手を差し伸べようとしてくれたが、何の助けにもならず、そこから私が救われることはなかった。私が体験したことはすべて(他人が援助できるレベル)を超越していた。 私は時々、何も感じられなくなってしまっていた。一方で、映画を観に行き暴力的なものや虐待など過激なシーンが流れると涙が止まらなくなり、その場にいられなくなることもあった。いわゆるPTSDと言われるものだ。アートや音楽などさまざまなセラピー、メディテーション、そのほか良さそうな治療という治療を受けて今に至る。 私が当時、自宅での清掃時にマスクを着けていたかどうかは…思い出せない。ただ言えるのは、テロから14年後にがんになったということだ。私はこれまで一度もタバコを吸ったことはない。救助や復興活動をした多くのファーストレスポンダーがその後病気で亡くなっている。また、我が家は利用しなかったが、ほかの部屋で雇った清掃業者の中には、(違法滞在のため書類が必要な)仕事に就くことができず、この清掃作業に臨時で雇われた人もいたようだ。彼らのその後を思うと本当に気の毒だ。 今でも涙がこみ上げてくる、これだけのトラウマを抱えた状態でなぜ私がこの体験を話そうとしたか。それは私が死んだらこの話は誰も知らなくなるから。生きているうちに体験談を伝えていくことは大切だと思った。私たちは歴史を知る必要がある。 広島の原爆の被爆者でもあった私の78歳の友人はCOVID-19で亡くなった。彼は生前、子ども時代の戦争体験を私に話してくれた。一方、私は両親や祖父母の昔話を知らない。彼らは思い出したくないと、自分たちの過去を語ろうとはしなかった。ホロコーストや原爆投下など歴史上ではひどいことがたくさん起こってきたが、人は時々、自分で見たもの以外を信じようとしない。しかしそれは起こった、見た、体験した。ならばそれを伝えることが大切だ。いつまでも人々がその悲劇を忘れないように。 9月は娘と息子の誕生月であり、孫娘が亡くなった命日もある。そして911。大変な思い出が詰まっているが、センチメンタルになりすぎないようにしている。だって私の記憶には辛いことだけではなく、いい日もたくさんあったから。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview, text…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。 しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。 20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか? ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。 911それぞれの記憶 「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加 曽野正之さん(50歳、建築家) 私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。 アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。 73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。 刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。 私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。 ニューヨークに移住して3年目、2001å¹´9月11日。 私にとってはいつもの朝だった。 出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。 オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。 ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。 それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。 北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。 そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。 ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった) しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。 地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。 アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。 自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。 確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。 クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が​​95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。 この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。 911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。 アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。 事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。 毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。 2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。 関連記事 NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い 事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。 この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。 (後編につづく) 関連記事 2021年(テロから20年) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview,…

NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い

911テロがアメリカで発生して今年で20年。 亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐため、ニューヨークにはいくつか911慰霊碑が建てられている。前回紹介したマンハッタンのグラウンドゼロがあまりにも有名だが、市内にはほかにもあるのはご存知だろうか? 関連記事: 911から20周年(1) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま マンハッタン南端からフェリーで25分、スタテンアイランド(以下スタテン島)の北端にある慰霊碑、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)。ここには、スタテン島に住みこのテロで犠牲となった人々が弔われている。 日本人の建築家、曽野正之さんによる作品で、2004年に完成した。 ポストカードの両側を折ってひし形にし、羽のように見立てたもので、真っ白で曲線を帯びたシンメトリーが力強くも美しい。 羽の間から見える視界は、ニューヨーク湾を越え、ツインタワーがかつてあったグラウンドゼロへと続く。 曽野さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加することになったのか、またどんな思いで完成させたのだろうか。曽野さんに話を聞いた。 2001年の同時多発テロとその後のアフガニスタン紛争の開始を経て、アメリカがイラク戦争へ向かっていたころ、ニューヨークの設計事務所でアソシエイトとして働いていた曽野さんもデモに参加し、反戦を訴えた。しかしその甲斐もなく、アメリカはイラクでの空爆を開始した。 「911の出来事で吐き気がするほどショックを受け、無力感に襲われて創作意欲を失った」。曽野さんは自身の作品、ポストカーズを見つめながら、当時の記憶を手繰り寄せる。 曽野さんは気分が塞ぎがちになりながらも、倒壊跡地で同僚らと復旧作業に参加した。そんな中、スタテン島の犠牲者のために慰霊碑を作ろうという区のプロジェクトが持ち上がり、曽野さんの仲間内でも話題になった。03年の初めのことだ。 グラウンドゼロなど911の復興計画は通常、指名コンペとなっており、世界的な超大御所建築家しか応募ができない。しかしスタテン島慰霊碑は、初めて一般公募から広く作品を募った。曽野さんも迷わず応募した。 昼間は設計事務所で働き、夜間自宅に戻り寝る間も惜しんで制作に取り組んだ。 まずは重要なコンセプトについて考えあぐねる中、このように想像してみた。 「もし自分が亡くなった方の家族や友人だったら…」 曽野さんは、暗い部屋の中で延々に問い続けた。「これはとても恐ろしく辛いプロセスだった」。しかし、そこから「犠牲者への手紙」「ポストカードの羽」というコンセプトが湧いてきた。 次の課題は「一番大切な犠牲者、個人個人をどう表現するか」ということだ。犠牲者が実際に存在していた人として、慰霊碑を訪れた人が一人一人を感じられるようにするには…? 締め切り間際のある日、曽野さんは友人の家に寄ることがあった。そこで、横顔の構図が元々好きな曽野さんが以前撮影したある写真の話になった。それを改めて見て「真正面の写真は辛いから横顔くらいがちょうどいい」と思い、犠牲者の横顔のシルエットの彫刻を思いついたという。そうして設計案がついに完成した。 コンペには多数の国から総数200案ほどの応募があったが、曽野さん案は見事にその中から選ばれたのだった。 プロジェクトがスタートし、曽野さんは遺族とコミュニケーションを取り、犠牲者の写真を見せてもらいながら、遺族と共に横顔を一つ一つ作り上げていった。 「横顔の写真って普段撮らないから、どうしても結婚式での誓いのキスの写真などになる。遺族の方々に人生でもっとも幸せだった瞬間を思い出させることになりとても辛かった。ただそうして一緒に作ることで意味のあるプロセスとなり、慰霊碑が遺族の方々にとっても彼らの一部になってほしいと思いました」と曽野さんは振り返る。 羽の内側に刻まれた263人の中で、1つだけ何も掘られていないものがある。「アルバムを開いて写真を選ぶのが辛い」と断られたからだ。作る過程で泣き出す人もいた。それだけ残された家族には、悲痛な事件だった。 完成以来、多くの人々がこの慰霊碑を訪れている。毎年9月11日には区主催の記念式典がここで行われており、曽野さんも欠かさず参加し犠牲者を弔っている。 911はまだ続いている ポストカーズのすぐ近くの湾沿いには、別の911慰霊碑、The Staten Island September 11 First Responders Memorial(911緊急救助隊慰霊碑)も14年から設置されている。 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員が、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっており、石板には同区の被害者107人の名が刻まれている。こちらの設計も曽野さんによるものだ。 その石板は「大きな見えないリングの一部」なのだと曽野さんは説明する。 復興現場から出た瓦礫の総量180万トンを集めると、直径150メートルほどの球体になるそうだ。それをイメージし、一部が湾沿いの柵に設置された石板として現れ、見えるようにした。同区の処理場に埋め立てられた瓦礫や、消防士や作業員が粉骨砕身で立ち向かった壮絶な救出・復興作業など、「もはや見えなくなってしまったものが見えるように」という思いを込めた。 17年よりここに名前が刻まれ始めて4年経つが、今も毎年十数人ずつ名前が足されている。 「あのテロから20年が経ち、完全に過去のものとされていますが、今でもまだ終わっていないんです。この悲劇から学んだことを平和な未来への教訓にするため、何が起こったのかを特に若い世代に伝えることは、当地であの日を目撃した我々の責任だと思っています」 曽野正之(Masayuki Sono) 建築家 / ã‚¯ãƒ©ã‚¦ã‚ºãƒ»ã‚¢ã‚ªå…±åŒå‰µæ¥­è€… 幼少期を米ニュージャージーで過ごす。神戸大学と交換留学先のワシントン大学で建築学を学び、1998年ニューヨークに移住。2004年自身の作品、The Staten Island September 11 Memorialが完成。10年に設計事務所、Clouds…

Business person and artists for nippon.com

Interviewed by Kasumi Abe w. Masayo Ishigure, Koto player who is know in the movie of ”Memoirs of a Geisha” NY在住琴奏者 石榑雅代 w. Kanji Yamanouchi, Ambassador and Consul General of Japan in NY 在NY総領事館 山野内勘二大使 English French

Business person for Work Mill with Forbes JAPAN

Interviewed by Kasumi Abe Future is Now: Naren Barfield, the Deputy Vice-Chancellor at Royal College of Art in London (06.30 2020) … Read article  英国RCA、ナレンバーフィールド副学長、高位責任者 ISSUE 04 : CEOs of AWAY & Partners & Spade (04.04 2019) NY2大新興CEO(アウェイ、パートナーズ&スペード) Read Info