米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。 しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。 20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか? ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。 911それぞれの記憶 「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加 曽野正之さん(50歳、建築家) 私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。 アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。 73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。 刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。 私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。 ニューヨークに移住して3年目、2001å¹´9月11日。 私にとってはいつもの朝だった。 出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。 オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。 ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。 それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。 北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。 そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。 ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった) しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。 地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。 アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。 自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。 確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。 クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が​​95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。 この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。 911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。 アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。 事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。 毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。 2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。 関連記事 NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い 事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。 この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。 (後編につづく) 関連記事 2021年(テロから20年) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview,…

NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い

911テロがアメリカで発生して今年で20年。 亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐため、ニューヨークにはいくつか911慰霊碑が建てられている。前回紹介したマンハッタンのグラウンドゼロがあまりにも有名だが、市内にはほかにもあるのはご存知だろうか? 関連記事: 911から20周年(1) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま マンハッタン南端からフェリーで25分、スタテンアイランド(以下スタテン島)の北端にある慰霊碑、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)。ここには、スタテン島に住みこのテロで犠牲となった人々が弔われている。 日本人の建築家、曽野正之さんによる作品で、2004年に完成した。 ポストカードの両側を折ってひし形にし、羽のように見立てたもので、真っ白で曲線を帯びたシンメトリーが力強くも美しい。 羽の間から見える視界は、ニューヨーク湾を越え、ツインタワーがかつてあったグラウンドゼロへと続く。 曽野さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加することになったのか、またどんな思いで完成させたのだろうか。曽野さんに話を聞いた。 2001年の同時多発テロとその後のアフガニスタン紛争の開始を経て、アメリカがイラク戦争へ向かっていたころ、ニューヨークの設計事務所でアソシエイトとして働いていた曽野さんもデモに参加し、反戦を訴えた。しかしその甲斐もなく、アメリカはイラクでの空爆を開始した。 「911の出来事で吐き気がするほどショックを受け、無力感に襲われて創作意欲を失った」。曽野さんは自身の作品、ポストカーズを見つめながら、当時の記憶を手繰り寄せる。 曽野さんは気分が塞ぎがちになりながらも、倒壊跡地で同僚らと復旧作業に参加した。そんな中、スタテン島の犠牲者のために慰霊碑を作ろうという区のプロジェクトが持ち上がり、曽野さんの仲間内でも話題になった。03年の初めのことだ。 グラウンドゼロなど911の復興計画は通常、指名コンペとなっており、世界的な超大御所建築家しか応募ができない。しかしスタテン島慰霊碑は、初めて一般公募から広く作品を募った。曽野さんも迷わず応募した。 昼間は設計事務所で働き、夜間自宅に戻り寝る間も惜しんで制作に取り組んだ。 まずは重要なコンセプトについて考えあぐねる中、このように想像してみた。 「もし自分が亡くなった方の家族や友人だったら…」 曽野さんは、暗い部屋の中で延々に問い続けた。「これはとても恐ろしく辛いプロセスだった」。しかし、そこから「犠牲者への手紙」「ポストカードの羽」というコンセプトが湧いてきた。 次の課題は「一番大切な犠牲者、個人個人をどう表現するか」ということだ。犠牲者が実際に存在していた人として、慰霊碑を訪れた人が一人一人を感じられるようにするには…? 締め切り間際のある日、曽野さんは友人の家に寄ることがあった。そこで、横顔の構図が元々好きな曽野さんが以前撮影したある写真の話になった。それを改めて見て「真正面の写真は辛いから横顔くらいがちょうどいい」と思い、犠牲者の横顔のシルエットの彫刻を思いついたという。そうして設計案がついに完成した。 コンペには多数の国から総数200案ほどの応募があったが、曽野さん案は見事にその中から選ばれたのだった。 プロジェクトがスタートし、曽野さんは遺族とコミュニケーションを取り、犠牲者の写真を見せてもらいながら、遺族と共に横顔を一つ一つ作り上げていった。 「横顔の写真って普段撮らないから、どうしても結婚式での誓いのキスの写真などになる。遺族の方々に人生でもっとも幸せだった瞬間を思い出させることになりとても辛かった。ただそうして一緒に作ることで意味のあるプロセスとなり、慰霊碑が遺族の方々にとっても彼らの一部になってほしいと思いました」と曽野さんは振り返る。 羽の内側に刻まれた263人の中で、1つだけ何も掘られていないものがある。「アルバムを開いて写真を選ぶのが辛い」と断られたからだ。作る過程で泣き出す人もいた。それだけ残された家族には、悲痛な事件だった。 完成以来、多くの人々がこの慰霊碑を訪れている。毎年9月11日には区主催の記念式典がここで行われており、曽野さんも欠かさず参加し犠牲者を弔っている。 911はまだ続いている ポストカーズのすぐ近くの湾沿いには、別の911慰霊碑、The Staten Island September 11 First Responders Memorial(911緊急救助隊慰霊碑)も14年から設置されている。 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員が、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっており、石板には同区の被害者107人の名が刻まれている。こちらの設計も曽野さんによるものだ。 その石板は「大きな見えないリングの一部」なのだと曽野さんは説明する。 復興現場から出た瓦礫の総量180万トンを集めると、直径150メートルほどの球体になるそうだ。それをイメージし、一部が湾沿いの柵に設置された石板として現れ、見えるようにした。同区の処理場に埋め立てられた瓦礫や、消防士や作業員が粉骨砕身で立ち向かった壮絶な救出・復興作業など、「もはや見えなくなってしまったものが見えるように」という思いを込めた。 17年よりここに名前が刻まれ始めて4年経つが、今も毎年十数人ずつ名前が足されている。 「あのテロから20年が経ち、完全に過去のものとされていますが、今でもまだ終わっていないんです。この悲劇から学んだことを平和な未来への教訓にするため、何が起こったのかを特に若い世代に伝えることは、当地であの日を目撃した我々の責任だと思っています」 曽野正之(Masayuki Sono) 建築家 / ã‚¯ãƒ©ã‚¦ã‚ºãƒ»ã‚¢ã‚ªå…±åŒå‰µæ¥­è€… 幼少期を米ニュージャージーで過ごす。神戸大学と交換留学先のワシントン大学で建築学を学び、1998年ニューヨークに移住。2004年自身の作品、The Staten Island September 11 Memorialが完成。10年に設計事務所、Clouds…

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Interviewed by Kasumi Abe w. Masayo Ishigure, Koto player who is know in the movie of ”Memoirs of a Geisha” NY在住琴奏者 石榑雅代 w. Kanji Yamanouchi, Ambassador and Consul General of Japan in NY 在NY総領事館 山野内勘二大使 English French

「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の911【米同時多発テロから19年】

2001年の米同時多発テロから19年を迎えたニューヨークでは現地時間の今朝、世界貿易センタービル跡地のグラウンド・ゼロで、追悼式典がしめやかに行われた。 式典では毎年、犠牲者の遺族が交代で壇上に上がり、亡くなった1人ひとりの名前を読み上げ、旅客機がビルに突入および倒壊した同時刻に、鐘を鳴らし黙祷を捧げる。しかし今年は新型コロナウイルス対策で人の密度をできるだけ少なくするため、グラウンド・ゼロには関係者および遺族のみが参加できる形式となった。故人の名前の読み上げは、事前に家族が録音したものを会場で流す方法が取られた。 会場には、ニューヨークのアンドリュー・クオモ州知事やビル・デブラシオ市長をはじめ、マイク・ペンス副大統領、民主党大統領候補のジョー・バイデン氏ら要人の姿もあり、両者が11月の選挙戦を前に腕で挨拶を交わすシーンも見られた。 911それぞれの記憶 この日の追悼式典には、遺族が遺影を抱えて訪れていた。ある人は花束を抱え、ある人は故人の写真をあしらったTシャツを着て。 「息子、夫、父」を亡くした3家族、それぞれのあの日とは・・・。 「『また後でね』が息子との最後の会話に」 ニュージャージーに住むアーリーン・ルッソ(Arlene Russo)さんは、息子のウェイン(Wayne Russo)さん(当時37歳)を911で失った。ウェインさんは、北棟(1ワールドトレードセンター)98階にある大手保険会社マーシュ・アンド・マクレナンで、会計の仕事をしていた。「息子はね会計という職業のわりに長髪にしてね、ロックがとても好きだったんですよ」。娘そして、息子の音楽仲間らと、この日現地を訪れたアーリーンさんは懐かしそうに、そして髪型の話をするときに少しだけ笑顔を見せた。 アーリーンさんの娘リン(Lynne)さんは、ウェインさんにとって1歳違いの妹にあたる。「テロの前日9月10日は、10年前に他界した父の誕生日だったので、パーティーをしたんです。それが兄との最後の別れになりました」とリンさん。 アーリーンさんは当日の朝、ラジオで事件を知った。「ツインタワーで事故と聞き、始めは小型の飛行機がビルにアクシデントでぶつかったくらいに思っていたのですが」。 旅客機が北棟に突入し爆発、炎上したのは93~99階の7フロアだった。「息子のフロアは北棟98階、ちょうど飛行機が突入した所でした」。 「実はあの朝、私と夫は飛行機に搭乗予定で、ニューアーク国際空港にいました。同居していた息子はあの日も午前6時半ごろ家を出て、7時半には出社していました。私が息子に『飛行機が到着したらまた電話するね。またあとでね』『オッケー』というのが最後の会話です」 テロが発生し、自身の飛行機は欠航となった。ウェインさんに電話をかけたが、電話は繋がらなかった。「汚い言葉を使うなんてことがない、心の綺麗な自慢の息子でした。今は(天国で)、夫といつも一緒にいると思います」。 「夫と一緒に朝食を取ったのが最後の思い出」 ジェニファー・ニルセン(Jennifer Nilsen)さんは夫、トロイ(Troy Nilsen)さん(当時33歳)をテロで失った。トロイさんはネットワーク・エンジニアとして、北棟103階にあった証券会社キャンター・フィッツジェラルドで働いていた。 「テロはニュースで知りました。すぐに夫に電話をしたけど、コール音しか聞こえなくて、電話は繋がりませんでした。あの朝、夫と朝食を一緒に取ったのが最後の思い出となりました。2人の子どもは成長し今年24歳と21歳だけど、当時は5歳、3歳で特に下の子は父のことをまったく覚えていないと言っています」。 「夫は魚釣りやバイクなど、アウトドアが大好きな人でした。この写真は私のお気に入りなんですよ」(と言いながら、携帯電話の待ち受け画面にも使っている魚釣りの写真と同じ遺影を見せてくれた)。「とにかく素晴らしい人で、息子たちにとっては最高の父親、そして私にとっては最高の夫でした」。 「父は最上階レストランでシェフとして働いていた」 2001年、8歳だったヤリッザ・メレンデス(Yaritza Melendez)さんは父、アントニオ(Antonio Melendez)さん(当時30歳)を911で失った。アントニオさんは世界貿易センターのレストラン、ウインドウズ・オン・ザ・ワールド(Windows on the World)のシェフとして働き、テロに巻き込まれた。 このレストランは北棟の107階に位置していた。そこからの眺望が素晴しく、客にはドレスコードを設けるなどハイエンドな雰囲気の人気店だった。 「あの朝、母親がナーバスな様子で血相を変えて私を学校まで迎えに来たので、子どもながらにただ事ではないというのがわかりました。ニュースで事件を知った母はすぐに父に電話をかけたそうです。そうしたら父は『階下で事故が起こったけど、私は無事だ。心配ない』と伝えたそうです。その言葉を最後に、その後何度電話をかけても繋がらなくなりました」 ヤリッザさんはまだ幼かったが、父親のことを鮮明に覚えていると言う。「家族思いの父でした。私たち子どものことをいつも気にかけてくれていた」。今日のことも見てくれていると思うかと聞いたら、空を見上げながら「ええ、そう思います」と答えた。 911同時多発テロ、当日の時系列 8:46am  アメリカン航空11便、世界貿易センター北棟(1ワールドトレードセンター)に激突 9:03am  ユナイテッド航空175便、世界貿易センター南棟 (2ワールドトレードセンター)に激突 9:37am  ワシントンD.C.のペンタゴン:アメリカン航空77便墜落 9:59am  世界貿易センター南棟倒壊 10:03am  PA州サマセット郡:ユナイテッド航空93便墜落 10:28am  世界貿易センター北棟倒壊 911同時多発テロによる死者数:2977人(日本人24人) 世界貿易センター2753人(救出に向かった消防士343人含む) ペンタゴン184人 PA州飛行機墜落40人 関連記事 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) Interview, text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

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Interviewed by Kasumi Abe Future is Now: Naren Barfield, the Deputy Vice-Chancellor at Royal College of Art in London (06.30 2020) … Read article  英国RCA、ナレンバーフィールド副学長、高位責任者 ISSUE 04 : CEOs of AWAY & Partners & Spade (04.04 2019) NY2大新興CEO(アウェイ、パートナーズ&スペード) Read Info

「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。© Kasumi Abe 水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。 私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。 ブルックリンブルワリー(Brooklyn Brewery)とは? 全米はもとより、日本や北欧でも流通するニューヨーク発の地ビール。創業は1987年。戦場ジャーナリストだったスティーブ・ヒンディ(Steve Hindy)が、中東特派員を終え帰国後、自宅キッチンで趣味のビール作りをしたことが始まり。クラフトビールという概念はここから始まったと言っても過言ではない。 (以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容) 80年代、戦場を駆け抜けた 私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。 それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。 妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。 最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。 そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。 翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。 振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。 ビール作りは自宅キッチンから そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。 当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。 それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。 治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業 ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。 その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。 しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。 ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。 今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今では60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう? 世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話 ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。 だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。 私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムを手がけたミルトン・グレイザーでした。 早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。 ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです! ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。 《誕生》「クラフトビール?何それ?」 ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。 クラフトビールとは? 当初、小規模のビール会社はマイクロブルワリーと呼ばれていた。American Homebrewers Associationが発行する雑誌で、コロラド在住のITライターが「ブルワリーはまるでマイクロプロセッサーのようだ」と表現したのがきっかけ。その後、スティーブが06年より会長を務め、現在は取締役会のメンバー、Brewers Associationでクラフトビールという言葉を使うようになった。 「我々が『クラフトビール』と名付け定義化することで、小規模のブルワリーの販売を促進しようとしたのです。生産量が年間600万バレル以下で、独立企業でかつ大手により25%以上の株シェアを持たせない、そして醸造免許を保持している──これらを満たせばクラフトビールと呼んでいいのです」 日本でクラフトビール、いつから聞くように? 過去30年以上の日本全国の新聞記事(約150紙)を一括検索できる「G-Searchデータベース」によると、クラフトビールという言葉の新聞掲載数は、2000年代初頭には年間15件、10年には35件、11年には99件。12年に入って3桁台の260件、13年には502件。14年に入って4桁台の1198件で昨年1年間では2167件。 《衰退から復活まで》資金が底尽き、二足の草鞋 91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。 事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。 ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。 ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。 ビジネスを成功させる秘訣とは?…

豪邸を丸ごと「和」にしたニューヨーカー NY中心地に茶室、その理由は【お宅訪問】

豪邸を丸ごと「和」にしたニューヨーカー NY中心地に茶室、その理由は【お宅訪問】 「NYの自宅を丸ごと和の空間に全改築しました」。(c) Kasumi Abe 人はここを「ニューヨークのオアシス」と呼ぶ。私が初めてその存在を知ったのは、かれこれ10年ほど前のこと。今回ご縁があって、そこを訪れた。 場所は、映画などによく登場する、マンハッタンのフラットアイアンビル近く。レンガ造りの瀟洒な建物に到着し、入り口ベルを鳴らす。ドアが開き、オールドスクールなエレベーターでペントハウス(最上階)へ。 廊下奥のドアを開けた瞬間、驚いた。外界 ── クラクションが無造作に鳴り響く都会の喧噪、がいっさい遮断されたその空間に、落ち着きある「和の佇まい」が広がっている。 3フロアの豪邸を丸ごと大改築した家主、スティーブン・グローバス(Stephen Globus)さんとは何者ぞ? 彼の自宅で話を聞いた。 (以下スティーブンさんのインタビュー内容) 3フロアの自宅が丸ごと和の空間に Globus Washitsu まずこの階(ペントハウス)は、2間の茶室に縁側、日本庭園、和風の台所や風呂場があり、階段を上がった最上階にもギャラリースペースを兼ねた和室2間、屋外ルーフトップがあります。丸ごと和の空間に改築したのは2012年のこと。2フロア全体をGlobus Washitsu(グローバス和室)と名付け、茶室の庵号をマンハッタンのオアシスという意のKeisuian(憩翠庵)としました。 もちろん自分が住む家として改築したのですが、今では日本から来たアーティストが展示やパフォーマンスを行う場、そしてニューヨーカーにとって本物の日本文化に触れ合える機会の場としても使ってもらっています。例えば、ティーマスター(茶道家)による茶会や、画家によるペインティング・パフォーマンスなど、才能あるアーティストが自分たちの芸術を発表する場になっています。 Globus Ryokan 実は、下の7階も私の自宅で、そこも和室2間に床の間、水屋などを設けて丸ごと和の空間に改築しました。完成したのは2004年なので、この7階の方が先です。 こちらはGlobus Ryokan(グローバス旅館)という名のゲストハウスにし、ニューヨークを訪れたアーティストにパフォーマンスを披露してもらう代わりに、滞在スペースとして無料で提供しています。ここに寝泊まりした人は、かれこれ100人以上になります。 私は自分の活動を、カルチュラル・グッドウィル(文化に絡んだ親善活動)と呼んでいます。日本を訪れるときも、アーティストや茶道の家元、着物メーカーの人々に積極的に会い、文化啓蒙活動のニューヨークへの招聘をしています。 なぜ日本なのか? 我が家を訪れた人は、だいたいこのように聞いてきます。「なぜこのようにしたの?」「どうして日本?」ってね。 私の仕事の話から説明しますね。仕事は主に2つあって、兄弟で撮影スタジオを共同経営しているのと、ほかにはベンチャー・キャピタリストという顔も持っています。 ベンチャー・キャピタリストとして私はPlasmaCoという会社を興し、松下電器産業(現パナソニック)と、フラットパネル・スクリーンの開発に携わりました。今から24年前、1996年のことです。それで、縁も所縁もなかった日本を初めて訪れることになりました。 私はここで生まれ育った生粋のニューヨーカーです。それまでヨーロッパに行くことはよくあっても、日本はおろかアジアについての知識はありませんでした。 大阪の空港に降り立つと、私の目の前にはそれまでの人生で見たことがない世界が広がっていました。想像できますか? 西洋文化しか知らないニューヨーカーが、初めて見た「別世界」を。 特に、仕事の関係者に連れて行ってもらった、京都・龍安寺の冬景色は、今でも脳裏に焼き付いています。それは15世紀の日本そのもので、美しい庭園には雪が舞っていて、私は思わず息を呑みました。しかもその後、仕事の件で、携帯でニューヨークまで国際電話をかけなければならず、歴史とテクノロジーのコントラディクションも興味深い思い出です! とにかくそんなわけで、3ヵ月ごとに東京&大阪とニューヨークを行き来する生活が始まったんです。日本に行くたびに、新たな発見がありました。この「新世界」にはまったく違う物の見方、考え方が存在していました。人も言葉も食べ物も、何から何まですべてが違う。自分にとっては完全に「新ルネサンス」ともいえる体験で、すっかりのめり込みました。 特にハマったのが、文化と芸術面です。日本の文化はとても深く、知れば知るほど自分の知識が微々たるものであることを思い知らされます。そして一度ハマると、もっと知りたい欲求に駆られます。そんな深みとパワーが日本文化には秘められていますね。 畳の間が恋しくて… そのうち親友ができ、彼の自宅によく泊めてもらうようになりました。東京・新宿にある伝統的な日本家屋で、とてもピースフルでメディテーションにも最高の空間でした。さすがに新婚さんの邪魔はできないので、宿泊は彼が結婚するまでですが。そしてニューヨークに戻って来ると、次第にこんな気持ちを持つようになりました。「あぁ、畳の間が恋しい!」 ニューヨークでも畳の間を作れないか探してみたところ、宮障子(ミヤショウジ)という日本人経営の和専門インテリア&施工会社がマンハッタンにあり、すぐに依頼しました。と言っても、最初から3フロアを丸ごとリノベーションしたわけではなく、少しずつ。まず着手したのが7階です。 コンセプトにしても初めから旅館にしようと思っていたわけではなく、ただ自分のために和室を作りたかったのです。そうしたら噂が瞬く間に広がっていき、「茶会をできないか?」「陶器の展示会をしたい」と相談がくるように。特に茶会は、すぐさま人気を博すイベントになりました。でも7階の和室は茶会用に作ったわけではなかったから、茶道口(亭主用の出入り口)や炉(ろ)がない状態です。それで本格的な茶会を開くために、8階のペントハウスを今度は大改築することになったのです。 そうして、このような本格的な茶室の完成となりました。これも、宮障子なしでは成し得なかったでしょう。運命とも言える出会いで知り合った、ティーマスターの長野佳嗣さん(上田宗箇流)と北澤恵子さん(表千家流)に、一般向けに茶会を開いてもらっています。ここはニューヨークだから、うちはどの流派もウェルカムなのです。 普段はほかにも、アートパフォーマンス、着物の着付けクラス、古楽器の演奏会など、さまざまな文化交流イベントを開いています。 改築費用について知りたいって?ええっと…そうですね(記憶を辿る)、だいたい25万ドル(約2,500万円)以上はかかりましたかね。 異文化の啓蒙には苦労がつきもの 今後も私はスポンサーとして、日本文化の体験の場、継承の場を提供し続けていきたいです。 2016年には、日本人カップルの結婚式を本格的な神前スタイルで行ないました。世界のさまざまな宗教がこの街にはあるけど神社だけはないんです。そこで、福岡の宮地嶽(みやじだけ)神社の神主を招聘しました。ニューヨークの人々にとっても神道にとっても、よいイントロダクションになったんじゃないかな。 また、茶会イベントを始めてかれこれ15年が経ちますが、やっとここ数年で時代が追いついてきた感があります。今抹茶ブームで、どんなカフェでも抹茶ドリンクがあります。でもティースプーンや砂糖がセットで付いてきたりして、まるでカプチーノみたいに出されている。要はカフェで働いている人たちが、本物の抹茶の味も作り方も知らないからなんですが。 それで私はスポンサーとして京都の丸久小山園と提携し、茶道の講師を招聘し、正しい抹茶の点て方のトレーニングをカフェでしてもらったこともあります。 何でも初めのころは大変なんです。でも致し方ないことですね。寿司にしたって、今ではアメリカ人でも何人でも器用に握る時代になりましたが、初めのころは魚の切り身とライスをただ適当に掴んで出す、みたいなことがなされていました(!) 異文化が浸透していくプロセスは、たいてい苦労や努力がつきものです。 でも私たちの活動が少しでも抹茶ブームの火付け役となっているのだったら嬉しいです。また、素晴らしい日本の文化や芸術をもっと多くの人に体験してもらえるのであれば、それ以上の喜びはありません。 インタビュー後記 日本でもなかなかお目にかかれないような想像以上の和のお宅で驚きの連続でした。長野さんによる美味しいお抹茶をいただいたり、畳や障子に触れたりと、外国にいながら古き良き日本を満喫しました。 茶会は特に若者が多いのも印象的です。45ドルの参加費でも体験したい、そんな魅力があるのがニューヨークの茶の世界です。 海外で日本の魅力をこのような形で伝えてくださっている人々には、ただただ感謝と尊敬の念を禁じえません。 本稿は「Yahoo!ニュース個人」の記事 ã‹ã‚‰ã®è»¢è¼‰ã€‚無断転載禁止

【こんまりさんインタビュー】「本当に大切なモノを大切にする価値観を伝えたい」

アメリカで世界で、お片づけを指南し話題になっているこんまりこと近藤麻理恵さん。2016年よりアメリカに住んでいるこんまりさんにインタビューを行い、今の心境や騒動の胸の内を聞いた。