「日本のパレード」はNYの人の目にどう映ったか?岩倉使節団と野球伝来、日米友好150周年

ニューヨークで14日、日本の伝統や文化を祝う「ジャパンパレード(Japan Parade)」が開催された。 毎年この時期に、日本をテーマにしたイベント「ジャパンデー(Japan Day)」がセントラルパークで行われており、コロナ禍で3年ぶりの開催となった今年は、パレードとストリートフェアの形式で行われた。 今年は、日本の近代化に貢献した岩倉具視率いる使節団が1872年にアメリカを訪問して150周年の節目にあたる。日米交流のさらなる促進と日系コミュニティの強化を図り、当地に感謝の意を表すためにパレードは企画された。 初の開催となった「ジャパンパレード」には、当地を拠点とした文化系サークル、芸術家、スポーツ愛好家、日系企業、アジア系差別撲滅のための活動家など約90団体、2400人が参加し、日本舞踊、空手、剣道、和太鼓、雅楽、神輿などを沿道に集まった人々に披露した。 公民権運動の活動家でもある日系の人気俳優、ジョージ・タケイさんもスペシャルゲストとして参加し、パレードを先導した。また『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル版の出演者によるライブパフォーマンスも行われ、沿道からは一際歓声が上がった。 花魁のグループ「Ayame」でパレードに参加した中澤利彦さんは、「着物を日本から取り寄せるなどし、本格的なものをニューヨーカーに見せることができて良かった。沿道から写真もたくさん撮られました」と語った。中澤さんはプロダンサーとしてアポロシアターやブロードウェイに出演した経験を持ち、この日もダンスを披露した。 「侍の所作、そして殺陣という日本の伝統芸術を学ぶ私にとって、フロート車に乗り通りを真っ直ぐ突き抜ける景色を見た瞬間、あたかも自分が150年前に船でここにやって来たかのような気になり、心底感慨深かった」と振り返ったのは、「TATE Hatoryu NY」で参加した三宅由利子さん。 ジェノさんとジャクさんは「New York Lolitas」というロリータファッションを楽しむ仲間31人と一緒にパレードを行進した。「これまで参加した桜祭りなどの日系イベントとはまた違った経験で、とても楽しかった」と語った。 日系の退役軍人の古本武司さんは、ベトナム戦争の出兵で着用した同じジャングルファティーグを着てパレードを歩き、沿道の人々からは拍手がわき起こった。 沿道に集まった人々の目にはどう映っただろうか?パレードを見に来た人にも話を聞いた。 近所に住むジャックさんは友人と息子と一緒にパレードを見に来た。一番印象に残ったものを聞くと「これ」と言って腕を上に伸ばし、手の先をひらひらさせて踊って見せた。 ラジ・ムラリさんは「どのパフォーマンスもすごく良かった。中でも女性5人の太鼓演奏がエネルギーに満ち溢れていて、非常によくコーディネートされていた」と感想を述べた。 日本を訪れたことがあるエンジェルさんも、和太鼓演奏が特に印象深かったようだ。「あとは日本舞踊もね」。 大学生の男性は「小さい時から観ていたから懐かしい」と言い『セーラームーン』のパフォーマンスを印象的なものとして挙げた。 趣味で歌をうたう日系人のサンディ・ダンさんは「ハーレムのゴスペル隊が、黒人歌手のソウルフルなリードボーカルと日本人の美しい歌声で構成されていて、聞くだけでインスピレーションと喜びに満ち溢れた」と語った。 中には、「出発地点で見ていたら、どのグループもなかなか出発せず、動きが停滞していた。ニューヨークはパレード開催に慣れているはずなんだけどね」という意見や、「日本の軽食を食べようとストリートフェアにも寄ってみたら、長蛇の列ですぐに売り切れとなり、何も食べられず残念」という声も一部からは聞こえてきた。 また今年はアメリカから日本に野球が伝来して150年の記念の年でもあり、前日の13日にはメジャーリーグのニューヨークメッツとシアトルマリナーズとの対戦試合が行われたシティフィールドで、日本のヘリテージナイトが行われた。 在ニューヨーク日本国総領事館の森美樹夫大使が始球式を行う予定でマウンドに向かったが、メッツのピッチャー、マックス・シャーザー選手は大使に気づくことなくウォーミングアップの投球をはじめて始球式は行われず、こちらもSNS上で話題となった。地元紙は、同選手が始球式について知っていたか否かは不明としている。 さまざまな声や反響があったが、初の「ジャパンパレード」はニューヨークの人々に日本の文化の素晴らしさを印象付けた。パレードを見た筆者も、強く結ばれた日米関係が揺るぎないもので今後も築かれていくことを感じた。 Text and some photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

日本人が海外旅行を躊躇する一因?思わず発狂するほど「厄介」な日本帰国に必要なもの(コロナ禍の体験記)

前回「海外旅行はもう行ける!アメリカには「これ」さえあれば…(日米渡航体験記、日本→アメリカ編)」からの続き 今年の3〜4月にかけてコロナ禍初となる日米渡航をした筆者。国境を跨ぎ、この2年で落ち込んでいた渡航者数が徐々に復活していることを肌で感じた。 出発地のロサンゼルス国際空港で出発3時間前の夜10時、すでにチェックインカウンターには長蛇の列ができていた。コロナ禍では必要書類が何せ多いため、皆早めに来たようだ。搭乗するのは日本の航空会社だったので、日本人らしき人も見かけた。東南アジアの人も経由のために日本に渡航するようだった。搭乗すると座席は隣が1人開いた状態でゆったりしていた。同列の日本人女性は駐在員の娘夫妻の産後ケアで3ヵ月間西海岸に滞在し、その帰りだという。 外国人に対して観光目的の入国を認めていない日本は鎖国状態と聞いていたが、到着した羽田空港には意外と外国人がいる印象だった。 コロナ禍3年目、日本も含め世界は着実に前進しているようだ。 ただ国内では、多くの日本人が今もなお海外旅行に躊躇していると聞く。理由として、新型コロナの感染を心配してというのはあるだろう。しかし80%以上の人がワクチン接種を済ませた今、理由はそれだけではなさそうだ。 コロナ禍の渡航は、以前はなかった手間と時間とお金がかかる。一言で言えば、厄介な作業が増えた。海外に行く!という熱量が必要で、リスクも孕んでいる。これらも一般の人々が渡航へ二の足を踏む一因になっているかもしれない。 本稿では、筆者が準備段階や入国時に思わず発狂しそうになった面倒な渡航書類などを備忘録として記しておく。数年後に「そんなこともあったな」と笑って読み返す日を願って…。 日本帰国に必要なもの(渡航条件) コロナ禍の渡航にかかるのは膨大な「手間」と「時間」 前回の記事で、日→米への渡航は、ワクチン接種などの「条件」をクリアすれば、実にシンプルで簡単だと説明した。 それでは楽しいアメリカ旅行が終わり、今度は日本へ帰国するときの話をしよう。 コロナ禍の日本への入国は(たとえ日本人であっても)準備と入国時の手続きが煩雑だと感じた。昨年欧米を渡航した経験からも、日本だけが特別に込み入った条件を設けている印象だ。 近い将来、外国人に観光目的の入国を認めても、このような複雑なプロセスが継続されていく限り、外国人は尻込みし日本旅行に二の足を踏むだろう。 コロナ禍において、日本政府が日本人を含む帰国者・入国者に対して、入国時の条件として求めているものは主に以下の通り。(パスポートなどはコロナ前と同様なので割愛) 健康居所確認アプリ(My SOS)のインストール、アカウント登録、情報入力 接触確認アプリ(COCOA)のインストール、アカウント登録、情報入力 スマートフォン位置情報の設定 新型コロナの陰性証明書(出発前と到着後の2回) 誓約書 健康居所確認アプリ(My SOS) 入国者の居所を確認するためのアプリ。 厳しい水際対策の一環として日本は引き続き入国後の待機期間を設けており、どの地域から入国するか、またワクチン接種が完了か否かで待機期間が異なる。 アメリカからの入国は、ワクチンのブースター(3回目)接種が完了していれば、3月1日より待機日数がゼロになり、筆者もその恩恵を受けた。よって日本滞在中に筆者のMy SOSにビデオ通話がかかってきたことはなかった。 一方、ブースターを含むワクチン未接種者や感染拡大の地域からの入国者は、入国後に一定の待機が求められている。参照 接触確認アプリ(COCOA) 陽性者と接触した可能性について通知を受け取ることができるアプリ。 このようなアプリのインストールは欧米への入国には一切求められないものだ。「アプリか〜。しかも2個も…。日本は手強いな」というのが正直な気持ち。しかし日本入国にはマストだ。やらねば!と奮起。 筆者の旅程は、羽田到着の1時間半後に国内線搭乗だ。しかし入国時、空港検疫で待っているのは、実に長い作業だった。飛行機が羽田に到着しても、国際線トランジット客の優先降機のため、私のような国内線客は座席での待機が続き、ヤキモキした。我先に降りようと試みた乗客もいたが、客室乗務員にぴしゃりと阻止されていた。 20分ほど待っただろうか、筆者もやっと飛行機を降りることができ、到着ゲートには国内線乗り継ぎ客の1人として名前が張り出されていた。 兎にも角にも国内線の乗り継ぎまで時間がない。だから空港検疫〜入国審査をスムーズにするため、ファストトラックで事前に必要事項(ワクチン証明書など)を入力し、写真データを送り、事前審査も完了していた。すべては「完璧」なはずだった。 なのに、第一関門でつまづいた。 筆者のスマホだけがなぜか空港のWi-Fiに接続できず、アプリの登録情報が見られないトラブル….。係員は「この問題は初めて見ます」と言いながらタブレットがあるテーブルに誘導し、再び一からの入力を求めてきた。Wi-Fiのせいで事前入力しておいた時間と労力が台無しだ。無機質な作業台で途方に暮れた。しかし私だけではない。左右にも仲間がいた。同様につまづいた外国人集団(&一部日本人)が頭を抱えながら入力している。時折舌打ちが聞こえてきた。この作業(ロスタイム)に2、30分ほどかかった。(結局のところ、My SOSの登録済みQRコードが必要だったわけで、筆者のようにならないためにスクリーンショットを取っておくことを勧める) しかし、これはその後永遠とも言えるほど長〜く続く、ベルトコンベア式の検疫関門の始まりに過ぎなかった。それぞれの関所(チェックポイント)で多くのスタッフが我々入国者を待ち受け、次々に書類を提出したり、新たな書類を手渡されたり・・・。(コロナ禍で入国者のために働いてくださっているスタッフの方々に感謝しております!) スマートフォン位置情報の設定 2種類のアプリを使用するためには、スマートフォンの位置情報(グーグルマップなど)の設定・保存が求められた。スマホ自体を持っていない人は空港で自費でレンタルしなければならないというルールもある。本当に厄介。これも日本だけ。 厄介と言えば、事前準備の問い合わせもそうだ。書類不備は入国拒否となり飛行機に搭乗できない可能性があるという情報を耳にしたので、事前に情報を入力する際、アプリ入力がうまくできない箇所がいくつかあり、問い合わせ先とされているところにメールを送信したら、返信で「質問はこちらへ」とまた別のメールアドレスに誘導された。質問を再送信したところ「当日現場で解決する」的な返答がきた。こんな不毛なやりとりにも辟易した。 新型コロナの陰性証明書 出国前72時間以内に検査し、結果が陽性であれば飛行機に搭乗できない。また日本入国時に再度検査がある(欧米入国時は再度の検査はない)。入国時の検査で陽性なら、当然だが隔離される。 検査方法も、日本はRT-PCR法などの核酸増幅検査(NAAT)などと「指定」している。 その上、検査証明書も「指定」している(欧米入国には指定フォーマットなどない)。厚生労働省の所定フォーマットに現地医療機関が記入し、署名または押印したものが有効ということだ。(任意フォーマットでも記載内容が適切であれば認められるようだ) ちなみに、筆者が日本への出発前に受けたPCR検査は、ニューヨークの路上に立っている簡易テントの検査場で受けた。料金は、日本の所定フォーマットの検査証明書の発行も含めて無料だった。 読者から「どこ?」という問い合わせがきているが、近所にある検査場を2、3箇所回って、対応してくれる所を見つけただけであり、別に筆者が受けた所のみならず、対応してくれるところはほかにもたくさんあるはず。滞在中に自分の近くの検査場(市内そこかしこにある)を回って、直接確認すると良いだろう。 ちなみに日本のみならず世界中どこでも、コロナ禍での渡航は、出発日の〜日前に受けるコロナ検査が求められ、日本行きの場合は結果が出た翌日に所定フォーマットの検査証明書の発行のために再度出向く必要がある。検査&証明書のための時間とお金と労力がかかることにも筆者は辟易している。 合格発表を待つかのような長い検査結果待ち 話を、筆者が到着した羽田空港の検疫に戻そう。 次々と関門(チェックポイント)を突破し、最後は新型コロナの抗原検査コーナーへ。この再度の検査で「陽性」にでもなったら日本で隔離されるから、これから搭乗する国内線の航空券も今後の予定もすべておじゃんだ。お金も時間も無駄になる。自分で行うように言われ説明を読みながら採取した唾液検査の試験管を、神に祈るような気持ちで係員に渡す。 結果が出るまで、大展示場のように広い待合室で時差ボケの中、ボ〜と待機。暇なので周りの人と会話。岩国の米軍基地の米兵や、ブラジルからやって来た女性英語講師と話したが、彼らも就労目的の来日のようだ。 筆者の乗るはずの国内線はすでに出発した。それでもここを通過しなければ日本には入れないわけだから、冷静さと辛抱強さが求められる。自分の番号がスクリーンに映し出されるのをじっと待つ。まるで受験の合格発表のような緊張が走る。1、2時間待っただろうか。ついに自分の番号が呼ばれた。 ドキドキしながら発表を聞きに行く。「陰性」の紙が手渡される。「やった!」。まるで受験に合格した時のように安堵した。 長旅で疲労困憊だが心はうきうき。長い長い廊下をさらに歩を進め、最後の関所、入国審査までやっと到達した。…

海外旅行はもう行ける!アメリカには「これ」さえあれば…(日米渡航体験記、日本→アメリカ編)

ゴールデンウィーク直前となり、コロナ禍3年目の今年は、メディアが「海外旅行」というキーワードで発信している記事が増えているようだ。 しかし、世界中で新型コロナが終息していない状況にあることは変わりなく、日本では引き続き海外旅行に躊躇している人が大半だろう。 今年3、4月にかけて日米を往復した筆者は、日本滞在中、周囲から「いつになったら行けるだろう?まだ海外に行く気にはならないけど」という声がチラホラ聞こえてくることがあり、人々が1日も早く安心して気軽に海外旅行ができる日を待ち望んでいることを実感した。 また、実際に日米をつなぐ日系航空会社の国際線に搭乗してみて、日米間を渡航する日本人や外国人、または経由地として日本でトランジットをする外国人が微増していることも肌で感じた。 人数はそれほど多いとは言えないかもしれないが、それでもこのゴールデンウィークにコロナ禍以降初めて日本を離れる人もいることだろう。筆者の経験を踏まえ、コロナ禍の日米渡航体験記と、それを通して知り得た情報を綴っておく。今すぐに海外に行く予定はなくても、今後計画を立てる際の参考になれば幸いだ。 どんな人がアメリカに渡航? あくまでも筆者が利用した便の話になるが、4月半ば、羽田空港からロサンゼルス国際空港へ、日本の大手航空会社の国際便を利用して飛んだ。夜10時半ごろの出発便だったが、ゲートは割と混み合い、機内もほぼ満席だった。 多くは外国人、それもフィリピンなどから日本を経由してアメリカに渡るアメリカ人や東南アジア系の人のようだった。(見た目で日本人か否かを判断し記事に書くのはよくないから一言断っておくが、筆者がどのように判断したかについては、聞こえてくる会話の内容と、あとは日本人であれば機内の各座席に簡易スリッパが用意されていると、長いフライト中に履き替えてリラックスするものだが、そうしているのは筆者だけで、周りの人は靴を脱いでいないなどの生活習慣から) 日本人らしき人も少数見かけたが、海外旅行をするファミリーや女子旅などではなく、多くはビジネスのための渡航のように見えた(あくまでも憶測)。ゴールデンウィーク期間中は、日本人の比率ももっと増えるのではないだろうか。 ロサンゼルスに着陸し、入国審査では外国人用の窓口に長蛇の列ができていた。アメリカに前回入国したのがちょうど1年前になるが、当時はヨーロッパからの渡航が禁じられていた時期で、外国人の列はガラガラだった。昨年11月よりヨーロッパからの入国を許可したのもあり、アメリカに入国する外国人が激増したことを感じた。 いつになったら海外旅行に行ける? 「いつになったら海外旅行に行けるか?」という質問がよく聞こえてくる。アメリカ旅行に関しては「行きたければ(今日コロナの検査をして)明日にでも行ける」というのが筆者の答えだ。しかしそれには、いくつかの条件と、手間を手間とも思えない熱量が必要で、ちょっとしたリスクと心理的な負担があることも忘れてはならない。(後編で詳しく説明) まずアメリカへの入国は、日本への入国に比べてかなりシンプルだ。日本人にとっても、アメリカから日本に戻るより、日本からアメリカに行く方がプロセス自体は簡単だということを明記しておく。 アメリカへの渡航に必要なもの(渡航条件) コロナ禍において、アメリカが日本人を含む外国人に対して、入国時の条件として求めているものは以下の通り。(渡航に必要なパスポート、ESTA、ビザなどはコロナ前と同様なのでここでは割愛する) 新型コロナのワクチン接種完了証明書 新型コロナの陰性証明書 CDC(疾病予防管理センター)への誓約書 1に関して。昨年11月以降、アメリカに入国できる外国人は、新型コロナのワクチン接種完了者のみとなっている。ワクチン未接種で、アメリカへの渡航のためにワクチン接種をする予定ならば、少なくとも出発の2週間前には接種を「完了」しておく必要がある。 日本語の接種証明書であれば、英語翻訳版も準備する。基本的に日本の空港で搭乗手続きをしてくれる地上係員は日本語や日本の事情を理解しているので、英語版は搭乗のためというより、アメリカに到着後のためだ。アメリカでは日本と違って今もなお、イベントなどでワクチン接種証明書の提示を求められることがままある。 また限られているが、この入国規制には例外も設けられている。例えば以下に該当する人々は、ワクチンを接種していなくても入国を認められることがある。 例外 18歳未満の子ども 医学的にワクチンの接種が不可能な人 緊急の渡航で、適時にワクチン接種ができない人 2に関しては、搭乗日の前日(出発の24時間前である必要はない)に検査(採取)し、結果が陰性である必要があり、陽性であれば飛行機に搭乗できない。(陽性や書類不備の場合は「強制送還」という情報が一部のメディアに載っているが、強制送還ではなく、そもそも飛行機に乗れない) 検査は一般的にRT-PCR法などの核酸増幅検査(NAAT)が多いが、日本への渡航と違ってアメリカへの渡航には、必ずしもPCR検査である必要はなく、抗原定量検査や抗原定性検査(Antigen)による結果でも問題ない。日本には、外国語の証明書も含めて高額のPCR検査を提供している検査機関もあるようだが、筆者が福岡空港で受けた抗原定性検査は、日本語と英語が両方併記されている証明書も含めて1900円(税込)だった。筆者が昨年6月にスイスで受けたPCR検査は、約160スイスフラン(約2万1000円)。それに比べると随分とリーズナブルな価格だと感じた。 陰性証明書のフォーマットについて、規定はない(日本は指定されたフォーマットを求めているが)。日本入国時に求められるようなアプリのインストールも、アメリカでは必要ない。 3に関しては、アメリカでの滞在先やサインなどをカウンターで渡される書類(紙)に手書きし、出発地の羽田空港でチェックインの際に提出した。 以上の必要書類は国際線の飛行機(国内を経由する場合は最初の便)のチェックイン時に必要とされるものだ。いったん飛行機に乗ってアメリカに到着すれば、後は入国審査で提示を求められることもなく、再度のコロナ検査もない。アメリカの入国プロセスは、コロナ前のようにシンプルかつスムーズだ。 アメリカでの待機や隔離期間は? アメリカに入国後、症状がない限りは日本にあるような厳重な隔離や待機などは求められていない。濃厚接触者の追跡もない。しかし、入国に必要な書類の「例外の人々」は到着後3〜5日以内に新型コロナの検査を受け、7日間自己検疫する必要があるようだ。 筆者が昨年、欧米を往復した際、アメリカは入国する外国人に対して、まだワクチン接種を求めていなかった。当時アメリカに入国して数日後、携帯電話に自動音声装置で留守電が残り、「体調を注視し、新型コロナの症状が見られる場合は、自宅待機や隔離せよ」という趣旨のメッセージが一度だけ入った。しかし、入国の条件にワクチン接種を設けている今、そのような通達はもうない。 本稿で伝えた以上の内容は、アメリカの水際対策に応じて今後変わる可能性がある。筆者が搭乗に先立って、福岡空港で日系航空会社の地上係員に直接問い合わせをした際、その係員も情報に変更がないかタブレットで「最新」情報を逐一確認していた。 出発の際には、直前に変更がないかを調べ、常に「最新情報」を入手しておく必要がある。 (次回、アメリカ→日本編に続く) 本稿の情報はすべて2022å¹´4月28日現在 参照 米国への渡航(在日米国大使館) アメリカ入国後の隔離や待機(CDC) 過去記事 米入国にワクチン接種義務化。健康上の理由で接種できない人は今後どうなる?… 専門家に聞いた(21年) 感染拡大に拍車。英国発の水際対策に再び出遅れるアメリカ(日本も)【ウイルス変異種】(20年) コロナ禍で気になるアメリカ入国のESTAやビザ滞在。在米弁護士に聞いた(20年) ゴールデンウィーク/海外旅行で犯罪やトラブルに巻き込まれないよう注意すべきこと(在住者の視点)(19年) Text and some photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

脱マスクが進む米国とその兆しがまったく見えない日本 ── 2国間を往復して感じたこと

筆者は4月半ば、全員が屋外でもきっちりマスクを着用している日本から、マスク離れが進むアメリカに1ヵ月ぶりに戻って来た。 LAX(ロサンゼルス国際空港)のゲートに到着し、約半数の人がマスクをしていない姿を目にした時、アメリカの脱マスク化を肌で感じた。 19日にはオハイオ州のクリーブランドから、国内線に再び搭乗したが、すでに機内では数名の乗客に加え、客室乗務員の何人かもマスクを着けていなかった。 この日はちょうど、アメリカン航空やユナイテッド航空など米主要航空各社が空港や国内線の機内で、客室乗務員と乗客に対し、新型コロナウイルス対策としてのマスク着用義務をなくすと発表した翌日のことだった。 この変更については飛行中も、客室乗務員から乗客に向け改めてアナウンスがあり「新型コロナの予防策として着用する必要がある人、または着用したい人は引き続き着用を勧める」という趣旨の内容と共に、「着用については自分で判断し決める」ことが周知された。 これらの発端は先週、米CDC(疾病予防管理センター)が発表した、空港や公共交通機関でのマスク着用義務の延長宣言だ。これに対し、フロリダ州連邦地裁のキャサリン・キンボール・ミゼル連邦地裁判事は、CDCが法的権限を逸脱してマスク着用義務を人々に押し付けているとし「着用義務の延長は無効」と判断を下した。これにより、米TSA(運輸保安局)がマスク着用義務を解除し、空港、鉄道、バス、タクシー、ウーバーなどの配車サービスなどで、着用義務は事実上撤廃された。 筆者は航空機内で、つい最近まで「(搭乗拒否など航空会社との)トラブルを回避するため、食事以外は鼻の上までカバーする徹底したマスク着用を求める」趣旨のアナウンスを、耳にたこができるほど何度も聞かされてきた。また昨年の話だが、欧米間を渡航した際に、着用していた布マスクは「機内では適さない」と不織布マスクを手渡され、着用し直しを指示されたこともある。コロナ禍以降「空港や機内での不織布マスクは当たり前」「欠かせないもの」と思っていたので、客室乗務員がマスクをせずにドリンクサービスなどをしている姿を約3年ぶりに見て、アメリカのさらなる「脱マスク」化を実感したのだった。 一方で、対応は州によって異なり、CDCは機内や公共交通機関でのマスク着用を引き続き推奨しているため、市民の間では「わかりにくい」との混乱もある。 例えばニューヨークでは今もなお、地下鉄の駅や車両内ではマスク着用義務があり、見渡す限りほぼすべての乗客がこのルールを守っている。 一方で、室内イベントに行くと、誰もマスクを着けていない状態だ。(このようなイベントの多くは、ワクチン接種証明書の提示を今も参加条件としている) 20日米司法省は、航空機内や公共交通機関でのマスク着用義務を違法とした連邦地裁の判決を不服として上訴した。 アメリカの人々はどう受け止めているか。 AP通信-NORC公共問題研究センターが行った最新の世論調査では、アメリカ人の半数以上が機内や公共交通機関でのマスク義務化に賛成していることがわかった。賛成派は56%、反対派は24%、どちらとも言えないと回答したのは20%だった。 またポリティコ/モーニング・コンサルタントによる最新の世論調査でも、59%のアメリカ人が機内や公共交通機関でのマスク義務化の延長を支持。政党別では、民主党の84%が支持しているのに対し、共和党はわずか35%だった。 新規感染者数がこれまでと比較して落ち着いているアメリカは、20日時点で7日間の平均の新規感染者数は約4万3,000人弱だ。日本も現在、同じような数字の推移だ。 そんな日本に先月、コロナ禍になって初となる一時帰国を果たし、約1ヵ月間滞在し、感じたことがいくつかある。 まず、日本はPCRの検査場もワクチン接種会場も、限られた場所にしかないということだ。検査は「県民のみ」というところもあり、多くは土日は開いていない。ワクチン接種には「券」が必要ということで、それらの場所へのアクセスのしにくさを感じた。参考までに、ニューヨークの検査場はテントがそこかしこに立っており、「州民か否か」で区切られておらず、週7日オープンし、無料で検査できるところも増えた。ワクチン接種も予約不要で、打ちたい時にすぐ打てる(外国からの旅行者でも)。博物館にも仮設接種会場が設けられているので、展示品の鑑賞前後に気軽に注射を打てたりもする。 そしてマスクに関して、着用率然りデザインや色の豊富さ然り、日本は大変優秀な印象だ。アメリカのようにマスク着用義務がないにも拘らず、ほぼ全員が(屋外においても)常に、そしてきちんと、鼻の上までマスクで覆っている。店に行けば検温設備や消毒液があり、徹底したコロナ対策に感心した。(アメリカでは消毒はこれほど徹底されていない。検温、ビュッフェのビニール手袋においてはほぼ皆無だ) 一方で少し面食らったのは、マスク着用の徹底ぶりだ。屋内や電車内は良いとして、人の少ない屋外でたとえ1人で歩いていたとしても、都市部でのマスク着用率はそう変わりはないようだ。筆者は日本上陸直後に息苦しさを感じたため、1人での散歩時はマスクを着けない時もあったが、結果的にそうしたのは、滞在中ほぼ数えるほどしかなかった。 現在、ニューヨークでマスクなしの生活に舞い戻った筆者が、なぜ日本では常にマスクを着けていたのかを改めて考えてみると、新型コロナの感染予防という理由は、密な状態になりがちな店内や地下鉄などに限られていた。そして多くの場合、日本社会で「目立つ存在になりたくない」「変わり者としてジロジロ見られたくない」という理由があったのは否めない。何人か友人に、いつまでマスクを着ける予定かと尋ねたら、「七難隠す」便利なツールとして「この先もずっと…」という返答もあった。確かにマスクをしていると入念にメイクをしなくても良い、というのはありがたい。 一方で筆者のように、ほぼ全員のマスク姿に多少なりとも閉塞感や息苦しさを感じている人も、中にはいるかもしれないとも思った。この先のコロナ禍の「出口」として「着用については自分で判断し決める」もの、つまり着用したい人は着用し、したくない人はしなくてもいい雰囲気作りなどが必要とされる日が、日本にもやって来るだろうか。そんなことをニューヨークのイベントで、久しぶりにマスクをせずに来場者らと談笑しながら、ふと考えたのだった。 米でのマスク着用義務化に関する過去記事 – 2022å¹´ 「マスク嫌い」のアメリカ人に起きた、コロナ3年目のある「心境」の変化(現代ビジネス) NY屋内マスク義務が今日から解除。人々はマスクを外した?街の様子は? – 2021å¹´ 1å¹´3ヵ月ぶり「非常事態」が解除 NYはいま【昨年との比較写真】 新型コロナに「打ち勝った」“先行事例”となるか?NYが復興へ前進、大規模再開へ 米「ワクチン接種でマスク不要」 NY中心地のマスク率は? 街の人の声は? – 2020å¹´ 結局アメリカでマスクはすんなり受け入れられたのか 外出の際、顔はカバーすべきですか?「はい」とNY市長 アメリカでマスク改革、はじまる NYでマスク姿を見かけるようになったのはいつ?最新現地事情とウイルス防止対策 (タビジン) Text and some photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

アメリカ人にとって「真珠湾攻撃」の記憶とは? ゼレンスキー大統領の演説引用の背景を探る

戦時下において、オンライン演説を主要各国で精力的に行っているウクライナのゼレンスキー大統領。日本での国会演説はフランスと同じ本日、日本時間23日に行われる。 同大統領が各国にさらなる支援を求めることについて、日本では快く受け入れられないという声も一部で上がっている。事の発端は16日、同大統領がアメリカ連邦議会で「空からの攻撃で罪のない市民が殺されたことを思い出してほしい」と訴えながら、真珠湾攻撃(1941年)を事例として取り上げたことだ。 日本の立場からすると、米議会という重要な場で81年前の歴史を不意に持ち出された形となった。しかも大勢の民間人の犠牲者を出しているロシアの武力侵攻やテロリストによる9.11同時多発テロ(2001年)と照らし合わされた印象もある。同大統領は先週、ドイツ連邦議会での演説でドイツを批判した。今日午後6時からの国会演説ではどのような主張となるだろうか。 アメリカ向けの演説で、なぜ真珠湾攻撃の記憶が織り込まれたかについては、筆者なりに分析したのでこちらも参照してほしい。 オーサーコメント 本稿では今一度冷静になって、アメリカ人にとっての真珠湾攻撃とは何を指すのか考えたい。80年以上の時が経過してもなぜ人々の心に刺さる記憶のままなのか、またその記憶が蘇ることでどのようにウクライナへの共感につながったのかについても考察してみたい。 ゼレンスキー大統領が「共感」を呼んだポイント まずは米議会でのスピーチを振り返る。ゼレンスキー大統領は冒頭で、このような趣旨の発言をした。 「ここ首都キエフは毎日、ロシア軍から空爆を受けている。しかし我々は最後まで諦めない」「ロシアの侵略に長年抵抗してきたウクライナの自由を愛する人々を代表し、このような機会を持つことができ光栄だ」 同大統領は、アメリカ人が建国史上もっとも大切にしている信条「民主主義、独立、自由」を取り上げ、「我々も同じことを望んでいる」と言ってウクライナ人にとっての理想郷を結び付けた。その上で、旧日本軍による真珠湾攻撃のエピソードが続く。 「1941å¹´12月7日、空爆により空が真っ暗になった朝を思い出してほしい。そして2001å¹´9月11日、領土が戦場と化し罪のない人々が攻撃されたあの日を」 「空からの恐怖」をもっとも想起させる事例を巧みに取り上げながら「我が国は毎日同じ状況だ」と述べ、あの場の議員や中継を聞いた米国民の「心」に訴えた。彼らに、アメリカ建国史上稀に見る「やられたあの日」の記憶が鮮明に蘇ったのは言うまでもない。 これらの共感を呼んだのは議会の場だけではない。バイデン大統領も演説を受け、ゼレンスキー大統領の要求に対して、迅速に対応した。 今週だけで一千億円! ゼレンスキー大統領の米議会演説後スピード発表の「莫大な追加支援」 アメリカ人視点で「真珠湾攻撃」を考えてみる そもそもの話だが、真珠湾攻撃は今を生きる多くのアメリカ人にとって、日本人同様に「生まれる前の遠い昔の出来事」であることに変わりない。 それでも、学校の歴史の授業で学んできたり、自分で調べたという興味がある人の知識量の豊富さに驚くこともある。 しかし、アメリカ在住の筆者が日本人であることで過去の大戦がらみの話題を振られたり、嫌な思いをした経験は、実は1度もない。 では実際に大戦を戦ってきた世代の人々の反応はどうだろうか。(あくまで筆者が体験した限りの話ではあるが)結論から言えば、退役軍人からも、真珠湾攻撃を含む戦時下の重い話を振られたことは一度もない。逆に筆者は、そのような人々から温かく迎え入れられたエピソードしかない。 例えとしてエピソードの1つは1990年、親友の祖父母の住むアパートを訪れた時のこと。無口なおじいさんは第二次世界大戦の退役軍人だった。当時夏休みを利用し渡米した筆者を夫妻は歓迎し、戦後日本から持ち帰ったという紙幣(硬貨だったかもしれない)のコレクションを倉庫から持ってきて見せてくれた記憶がある。祖母にあたるおばあさんも穏やかで優しい人で、訪れるたびにいつも美味しいピザを用意してくれる。おじいさんは数年前に大往生で他界したが、おばあさんは90歳を過ぎた今も健在だ。 別のエピソードは、オハイオ州の親友の祖母(数年前に90代前半で他界)について。彼女も戦時中、夫を戦地へ送り出した女性の1人だ。筆者との初対面に先立ち、日本人であることを告げられたおばあさんの反応は、友人曰く「あら、と少し心配そうな表情を浮かべた」そうだ。しかし初対面で会った彼女は温かいハグで迎えいれてくれ感激したものだ。共に過ごした短い時間の中で、彼女の心の奥底にあったであろう日本人へのわだかまりは、微塵も感じなかった。 戦地に夫を送り出した女性の多くは夫の不在時の家庭を守るために、J・ハワード・ミラーのポスター(We Can Do It!)のイメージよろしく芯の強い女性と言えるかもしれないが、どちらの祖母も筆者にとっては「優しく穏やかな心の広いおばあちゃん」という印象しか残っていない。 ただし、年代によって体験してきたことは大きく異なる。筆者が最近取材をした戦中生まれの日系人、古本武司さんは幼少時、日本人というだけで蔑称で呼ばれたり、毎年12月に真珠湾攻撃のことを友人に持ち出されたりして、いじめられてきたという。 強制収容所生まれ、広島育ち。3つのアジア系差別を経験 ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(後編) なぜ人々はパールハーバー(真珠湾攻撃)を忘れないのか? アメリカの人々のメンタリティをもっと知るためのものとして、ここに適当な記事がある。 2016年のワシントンポストのThe attack on Pearl Harbor united Americans like no other event in our history(真珠湾攻撃は、アメリカ史で、ほかに類を見ないほど人々を団結させた)は、興味深い。 米西戦争、第一次世界大戦、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争などアメリカが戦ってきた戦争を引き合いに出し、「これらの戦争に対してアメリカ市民の世論は、指示派と反対派の真っ二つに割れた」という。 一方、太平洋戦争は違った。 「240年以上の歴史で、アメリカが真に団結したのが2度だけある」とし、ここでも真珠湾攻撃と9.11同時多発テロを取り上げている。記事は、同時多発テロ後の一致団結は一時的なものだったとある。「対テロ戦争の国内外の政策に関して世論は分断し、団結は忘れ去られた。そして未だに中東問題について議論がされ続けている(終わっていない)」。 「アメリカをもっとも一致団結させた」のがもう一方の、真珠湾攻撃の方だった。国民の士気を鼓舞し、人々はいっせいに立ち上がった。団結の機運は長期間高まったという。 1941å¹´12月7日夜、当時のルーズベルト大統領のエレノア夫人が、全米ラジオ放送を通じて行った国民への呼びかけも引用された。「私たちは他人を助け、安心感を与えるため、求められることを何でもしなければならない。我々は達成できるだろう。我々は自由であり、決して(敵が)征服することができないアメリカ合衆国の人々だ」と訴えた。 真珠湾攻撃が起こる前、本土から遠く離れたこのハワイという小さな島についてはほとんど周知されていなかったそうだ。また陸海軍共に志願者は多くはなかったが、攻撃後は志願者が殺到したという。「​​ある街では、ほんの数時間で600人が入隊を志願した例もあった」 攻撃から3日後のニューヨークタイムズ紙も「陸海空軍、海兵隊、沿岸警備隊共に数千人の入隊希望者で溢れ、その数はこれまでの記録を打ち破った」と報じた。このように人々の士気の高まりが尋常ではなかったことを窺い知ることができる。 いっせいに立ち上がった国民。誰に命令されたわけでもなく国を守り抜くために自ら入隊した勇敢な兵士たち。すべては「民主主義、独立、自由」のために。記事自体は数年前のものだが、これらの記述は現在置かれているウクライナの状況と重なるものがある。 リサーチセンターのモダン・ウォー・インスティテュートが昨年12月に発信したWHY…

強制収容所生まれ、広島育ち。3つのアジア系差別を経験 ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(後編)

【日系人強制収容から80年】 (前編からの続き) 以下、古本武司氏のインタビュー内容 ベトナム戦争で最前線送り、PTSDを患う 1955年、ベトナム戦争が始まりました。第二次世界大戦下でもベトナム戦争下でも当初、兵士は志願でなく招集されていました。私が入隊したのは68å¹´2月、ちょうどカリフォルニアの大学を卒業した23歳のときです。 私は広島からカリフォルニアに戻って来た後、“Jap”(ジャップ)と蔑称で呼ばれたり、毎年12月になると真珠湾攻撃のことを持ち出されたりと、謂れの無いことでよくいじめられました。「日系人というだけでどうしてこんな目に合わないといけないのか」と思うこともしばしばでした。「私はアメリカ人だ」と訴えても全然相手にされません。だから「米軍兵士として国のために戦えば、バカにされなくなるだろう」と思いました。入隊は私にとってアメリカ人として認められ、人々とイコールになれる方法でした。 将来を見据えて志願した士官学校で半年学んだ末、私はインテリジェンス・オフィサーとして情報部管轄の配属となりました。任務は3年間。情報部ということで、最前線ではなくエアコンが効いたオフィスでの任務になりそうだと内心ホッとしたのも束の間、70年から1年間飛ばされたのは、カンボジアとの国境近く、南ベトナム軍と共に戦う最前線の危険地帯だったのです。 そこにはトンネルがたくさんあって、無数に地雷が埋め込まれていました。夜間に敵軍を待ち伏せし、撃ち合います。仲間が撃たれたり地雷を踏んで負傷したら、救助用ヘリを呼びます。その役目を情報部が請け負っていたのですが、敵がどんどん撃ち込んできて、目の前で仲間が次々と倒れていきました。 戦争というのは実際に経験しないとなかなか想像がつかないでしょうが、そんな状況がずっと続くと頭が狂ってきます。最初は歩くのも怖かったけど、そのうち恐ろしいけど恐ろしくないという風に感覚が麻痺してきます。逃げるところはどこにもないし、追い詰められて精神的におかしな状態になっていくのです。 また、ジャングルが生い茂っている状態では敵軍の動きを把握できないので、上空から地上に大量のケミカル、エージェントオレンジ(枯葉剤)が散布されていました。そういうところで撃ち合っていたので、私の体、心臓や骨、血糖値などは今でも枯葉剤による後遺症に悩まされ続けています。アメリカ政府には今でも弁償をしてもらっています。 生き抜いて帰還、そしてNYへ 私はベトナム戦争を生き残り、71年に無事に帰還しましたが、長い間、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けました。 戦争に行くと本当に大変ですよ。第二次世界大戦を戦った兵士もそうだったでしょうが、どういう戦争でも戦い抜くのは大変だし、生き残っても大変です。辛い記憶が蘇り、やりきれない思いをヒロポンなどドラッグに癒してもらっている帰還兵は多かったです。私も本当は体のために飲んだらいけないけど、今でもお酒が好きなのはそういうわけです。 とにかく当時の精神状態は、子犬が人間にいじめられて萎縮してしまう、そんな感じでした。もちろん心の内は見せないけど孤独で、誰とも会いたくなかった。家族や友人から離れて1人でアイソレーション(隔離)したい一心で、数ヵ月後にニューヨークにやって来ました。 親戚が経営する飲食店やコネで就職した陶器会社でも働きましたが、PTSDで精神的に辛く、同僚とも気が合わないし、仕事に集中できずミスも多く、半年もしないうちにクビになりました。 当時、家賃140ドルの床が傾いたおんぼろアパートに住んでいました。72年にキャロルと結婚したのですが、PTSDで仕事が全然続かない私の代わりに、家内が働いて支えてくれました。 74年には家内と一緒に会社を立ち上げました。アルバイトでも2年ほどの経験があれば不動産業で独立できたのです。「古本不動産」の誕生です。賃料100ドルちょっとの窓もない地下オフィスからスタートしました。 80年代にかけて日本企業がどんどんアメリカに進出し、仕事は次第に忙しくなりました。私は中途半端な日本語ながらも大企業に営業に行っていました。気が短いから客ともよく喧嘩したけど、自分の商売だからクビにならなかったのがラッキーでした。「先見の明があったね」とよく言われますが、たまたま時代とタイミングが合っただけです。当時はとにかく「飯を食うため、生きるため」に始めた会社でした。 3つのアジア系差別を体験 私はこれまで大きく分けて、3つのアジア系差別を受けてきました。 (1)戦前〜戦後のアジア系に対する排斥や日系人の強制収容(2)80年代の対日貿易赤字急増を機にした反日運動のジャパンバッシング、そして(3)新型コロナウイルスに端を発したヘイトクライム、アジアバッシングです。 パンデミック以降、日系人も差別や暴力の対象として犠牲になっているけど、昔はジャパンバッシングの影響で中国系や韓国系の人たちも大変な目に遭ってきました。 関連記事 多発するアジア人差別(3)日系三世女性の見た、故郷「アメリカ」 日本人に間違われ「動物以下の扱いで」殺されたヴィンセント・チン事件(’82)── 全米アジア人差別 ルーズベルト政権は、どのように12万人の無辜の日系人を強制収容したのか?自由と人権を奪う大義名分として掲げられたのは、「安全保障への懸念」というものでした。強制収容を実行するための「根拠」が必要だったので、諜報部は「西海岸の日本人は日本政府をバックアップしながら諜報(スパイ)活動をしている。危険な民族だから、収容所にぶち込まないと我々の安全を脅かし大変なことになる」といった内容の報告書を作って最高裁判所に送り、強制収容が正当化されました。 実際のところそのような危険はなく、まったくの事実無根でした。78年にリドレス(戦後の救済補償)運動の一環としてワシントンD.C.のアクティビスト、アイコ・ハージグ-ヨシナガ(Aiko Herzig-Yoshinaga)が調査を開始し、数年かけて証拠書類を集め、報告書の内容がでっち上げであり、強制収容が憲法違反だったことを証明しました。私とキャロルは、アイコ氏が亡くなる1ヵ月前、彼女と昼ご飯を食べながら語り合いました。 彼女の私たちへの最後の言葉は「(強制収容は)私たちの政府が私たち(日系人)に犯した罪だった」でした。 アイコ氏が違憲を証明したことが基となり、88年レーガン大統領が人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名しました。そして、大統領からの謝罪の手紙と補償金2万ドルが、生存者および遺族全員に贈られました。私たちも、5年後の93å¹´10月までに、きょうだい5人全員が受け取りました。 ただしこの公式謝罪は、強制収容が始まってから51年後のことで、両親もすでに亡くなった後でした。家内のキャロルの祖父は収容所内で亡くなりました。中には「自分たち日系人が悪いことをしたから収容所に入れられた」と思いこんだまま死んでいった人もいます。一番苦労したのは全財産を没収され強制的に入れられた人たちですから、本当はそのような人たちがもらうべきものでした。 77歳の今、伝えておきたい「ダイバーシティ」と「平和」について 私の人生は「収容所、原爆投下の広島、ベトナム戦」と全部戦争が絡んでおり、戦争なんてもうこりごりです。二度と体験したくないし、ほかの人も同じような運命に苦しんでほしくない。けれども相変わらず戦争は続いています。 以前読んだアメリカの歴史教科書には、日系収容所に関する記述はたった1文だけでした。経験者はびっくりするほど少なくなっています。私の姉も80代後半になって記憶がだんだんと薄らいでいっています。 私は77歳の今、元気なうちに経験をできるだけ後世に伝え、平和を望む機会を作らなければならないという使命を感じているところです。史実を伝え歴史の本に残し、あらゆる問題を乗り越え、法制化していかなければなりません。 世界中ではダイバーシティ化の取り組みが進められ、アメリカも憲法であらゆる人権を守ろうとしていますが、いまだ黒人の差別問題などなかなか根強く残っています。私もこれまで受けてきた人種差別の経験を通じて問題解決に取り組んでいますが、ダイバーシティの問題はなかなか難しいと感じています。 やはりこの問題も、解決のためには「伝えていくこと」が必要です。私がこうやって話すのは、アメリカを恨んでいるとかそういうことではないです。私が住むところはここなんです。ここが私の国ですから、良くしていかないといけない。「難しいからまぁいいや」と言っていたらだめ。難しいけどそのハードルを超えて「平等」にしていかないといけません。問題解決のために闘い続ける、それが私の生き方です。 私にできることと言えば、メディアで話したり、大学や教育現場で演説をしたりして伝えることです。ニューヨークの寺の住職さんと被爆者の声や平和のメッセージを伝える活動をしたり、最近はH.R.40(黒人の弁償問題)についてもテスティモニアル(経験者の証言)をしました。また、異人種間の団結のシンボルとなる桜の木をニュージャージーに植えるプロジェクトにも取り組んでいます。 平和の尊さを伝える一環として、私は日系人のフレッド・コレマツ(Fred Korematsu)氏の人生を讃える活動もしており、5年前にコレマツさんのテスティモニアルをしました。収容所送りが始まった当初、大学生だったコレマツさんは強制収容について「不当だ」「間違っている」「入らない」と言い続けて国を提訴したのですが、有罪判決を受け、収容所ではなく刑務所に収監されました。しかし彼は最後まで諦めなかった(コレマツ対アメリカ合衆国事件 Korematsu v. United States)。ゴードン・ヒラバヤシ(Gordon Hirabayashi)氏、ミノル・ヤスイ(Minoru Yasui)氏らと共に、88年の人権擁護法の立案の礎を築いた人物です。 カリフォルニア州は彼の生誕日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」(Fred Korematsu Day)と制定しており、私が住むニュージャージー・フォートリーでも働きかけ、制定化できました。ニューヨークの行政にも同様に働きかけているところです。 お伝えしたように私の国はアメリカですが、同時に私は日本のルーツを誇りに思っています。しかし日本人の中には戦争の歴史をあまり知らない人が結構います。アメリカ人にもベトナム戦争のことをあまり知らない人がいます。…

強制収容所生まれ、被爆後の広島育ち、ベトナム戦でPTSD ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(前編)

【日系人強制収容から80年】 アメリカでは80年前の1942å¹´2月19日、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領によって「大統領令9066号」(Executive Order 9066)が発令された。 旧日本海軍による真珠湾攻撃から約2ヵ月というタイミングでの発令で、主に西海岸に住むすべての日系アメリカ人の強制収容所送りを意味した。 現在、ニュージャージー州で不動産会社「古本不動産」を営んで半世紀になる古本武司(Takeshi TAK Furumoto)さん(77)は、日系人の強制収容が始まった2年後の44年、カリフォルニア州の収容所内で誕生した。 その翌年に終戦を迎えて一家は日本に渡り、古本さんは原爆投下後の復興真っ只中にあった広島で育った。またアメリカ帰国後はベトナム戦争に出兵し最前線で戦うなど、彼の人生は常に戦争と共にあった。 日系人の強制収容が始まって80年となるこの節目に、古本さんが伝えておきたいこととは? 以下、古本武司氏のインタビュー内容 家族は10日猶予で収容所に入れられ、そこで私は生まれた 私は1944å¹´10月、カリフォルニア州トゥリーレイク強制収容所(Tule Lake internment camp)で生まれました。 2019年から翌年にかけて、日系人の妻と共にマンザナー強制収容所(Manzanar War Relocation Center)跡地や、トゥリーレイク収容所の歴史を伝える施設などを巡礼しました。家族が入れられたのは個室などがないバラック(小屋)で、プライベートを確保するには布をかけて仕切りを作らなければならず、共同便所も動物が入れられるケージのような狭さ。そのような劣悪な環境を目の当たりにしてきました。私はそんな中で誕生したのです。 もともと古本家とアメリカとの関係は、20世紀初頭に遡ります。父、清人(キヨト)の両親(私にとっての祖父母)が1911年、カリフォルニア州サクラメントのいちご畑で働くために渡米したことから始まります。 父は4人きょうだいの長男でした。父の両親は当時まだ小さかった父を地元・広島に残し、先に渡米しました。そして生活の基盤が整い、父も1921年に1人で渡米し、家族と合流しました。 しかしスペイン風邪(1世紀前のパンデミック)が終息したタイミングでしたから景気が悪く、父は長男として相当苦労してきました。当時彼はまだ13歳で、農作業に加え、ブランケットを担いで行商をしながら生計を支えていたようです。 その甲斐あって父は成功し、オカ・プロデュース(OKA Produce)という野菜の卸し会社を共同創業するまでになり、26人を雇うほどの事業に育て上げています。 しかし41å¹´12月の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まり、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナなど西海岸および一部ハワイに住んでいた12万人の無実の日系アメリカ人は全財産を没収され、適正手続きもなく10日間のノーティス(猶予)で、強制的に収容所送りとなりました。 想像してみてほしい。 あなたが「日本人」というだけで、今ある自宅や事業、全財産を突然没収され、収容所に強制的に送られたら? いつ解放されるかもわからないまま、塀の中での生活を強いられ続けたら? 大統領令9066号の発令に収容所施設の建設は追いつかず、はじめは臨時の収容所としてカリフォルニア州の競馬場に半年間入れられました。そして42年秋にアーカンソー州の収容所が完成し、そこに移されました。 翌43年、収容者たちはアメリカに対してどれほど忠誠心を持っているかの質問、ロイヤリティクエスチョンを受けます。その中にはこのような質問もありました。 「米兵に志願するか?」 「天皇への忠誠心を捨てるか?」 大多数の人は嘘をついてでも「Yes, Yes」と答えたが、4人の子の父だった親父は、「米軍には入らない」、「天皇陛下への忠誠心を捨てることはできない」と返答。このように「No, No」と返事したのは収容者12万人中の1割だったそうです。そして私の家族を含むその1割の人が、過酷な環境のトゥリーレイク収容所に入れられました。私が生まれたのはその翌年です。 戦後、私の両親など収容所生活を経験した1世や2世の人たちは、当時の話を子どもにしませんでした。辛い時代のことをわざわざ思い出したくないですから。4人の姉は子ども時代の収容所の記憶を、大人になって私にちょこちょこ話してくれました。 私がこの歴史にもっと関与し始めたのは、5年前トランプ政権が誕生する少し前からです。トランプ氏はムスリム系アメリカ人に対して入国禁止令を発令するなど、当時の日系人に対して行ったことと同じことを政策に掲げました。これがきっかけになり、私は跡地を訪問して自分でも本格的に調べ、語り部として伝えていく活動を始めました。 原爆投下後の広島で過ごした幼少期 1945å¹´8月、広島と長崎に原爆が投下され日本が降伏し、太平洋戦争が終わりました。 収容所から出て自由の身となった私の一家はポートランドから横須賀まで、最大5000人収容の大型船(USS General Gordon)で、同年12月から1ヵ月かけて渡航し、両親の地元・広島に戻りました。私が1æ­³2ヵ月の時です。 お袋の実家があるのは、爆心地から1.5マイル(2.5km)弱の所でしたから「今帰ってくると大変だ」と反対されたようですが、両親の帰国の意思は固かったようです。長男だった親父には「復興で大変な親の面倒を自分が看なければ」という強い責任感があったのでしょう。4人の姉も収容所で日本語、日本史、日本の歌まで学んでいたので、日本に帰りたいという気持ちが増したようです。 ただし、焼け野原となった広島での生活は、家族にとって苦労の連続でした。 私は、親父の実家がある広島の西原(安佐南区西原)で、11歳半(1956年)まで育ちました。 祖父母や叔父・叔母は、被爆者として健康手帳をもらっています。特にお袋側の叔父の火傷が酷くて、当時12歳の叔父は体の半分ほど大火傷を負いました。お袋から「絶対に火傷について触れないように」と口を酸っぱくして言われていたので、怪我や当時の状況について聞いたことはありません。 叔父のような人は広島にたくさんいました。お金がないからバレーボールの試合もユニフォームを作る代わりに、1つのチームはシャツを着て別のチームはシャツなしでやります。すると上半身に火傷の跡がある人や、指がない人などもよく見かけました。でも私は子どもだったし、あんまり気にしませんでした。社会科の授業で原爆ドームに行った時も、当時の私は興味深く学ぼうとも思わなかったです。 当時少年だった私に、復興の街・広島はどう映っていたか?ベトナムの路上とかで今でもよく見るような、品物を売るスタンドがたくさん出ていたのを覚えています。活気というよりサバイブな感じでしたね。生き残った者は皆、これからも生き続けないといけないわけだから、どんな状況でも頑張るしかなかったのです。 親父は実家の百姓(原文ママ)の仕事を手伝いながら、英語力を生かしてPX(進駐軍の基地内の売店)でシェフや運転手をしていました。食べるものがない時代でしたが、よくパンの売れ残りを持って帰ってくれました。家族や両親に苦労をかけたくないと、休みなく働いて苦労に苦労を重ね、私たちを育て上げてくれました。 10年ほどして広島での生活の基盤が整ったので、もう一度アメリカに戻ろうということになりました。親父は卸会社で一度成功しており、アメリカという国は一生懸命に頑張ればチャンスがあると知っていました。それで「家族全員で裸一貫でまた一から出直そう」となったのです。 ただし当時、日本に戻った大人はアメリカ市民権を自動的に剥奪されました。母方の祖父母はカリフォルニア州でメロン畑を営み、そこで生まれた日系2世のお袋までもが、市民権を非合法的に剥奪されたのです。 戦前〜戦後とはそういう時代です。アメリカで日本人は平気で差別され、非常に住みにくかったです。それ以前はセグリゲーション(分離)政策で有色人種の扱いはもっと酷く、白人と住む場所も学校も別で、土地も不動産も所有できず、インターナショナルマレッジ(異人種間結婚)も認められませんでした。ジョンソン政権下で人種差別に大分シビアになりましたが、そのような排斥の名残は、マーティン・ルーサー・キング牧師が68年に亡くなり、公民権運動が活発化するまで根強くありました。 それでも日本人は頑張って働いて、アメリカで一旗上げて儲けて日本に凱旋帰国する例がたくさんあり、父もアメリカンドリームをもう一度追い求めたいと思ったのです。 失った市民権をどうしたか?子どもは市民権を剥奪されなかったので、19歳の姉が1952年にまずアメリカに戻り、スポンサーになれる21歳、54年から家族を1人ずつ連れ戻し、その2年後にやっと全員がアメリカに揃いました。…

NYで開催「アフリカ風ハイブリッド着物」展 キモノ好きニューヨーカーが堪能

茶道に琴、アニメにゲームなど、伝統的なものからポップカルチャーまでさまざまな日本の文化が、海を越えここ米ニューヨークで人々に親しまれている。日本古来の着物もそうだ。このほど、一風変わった着物の展示イベントが催された。披露された着物は、カラフルなアフリカンパターン(柄)が特徴で、まさに着物の進化系とも呼べるもの。キモノ好きのニューヨーカーが集まり、国境を越えた奥深いキモノの世界を堪能した。(ニューヨーク在住ジャーナリスト、共同通信特約=安部かすみ) ▽会場はNYの茶室  ニューヨークのダウンタウン、フラットアイアン地区で2021年12月3日から6日までの4日間、着物の展示イベント「きものビジョナリーズ(Kimono Visionaries)」が開かれた。会場となったのは、ベンチャー・キャピタリストのスティーブン・グローバスさんが所有する「グローバス和室(Globus Washitsu)」だ。ここはグローバスさんの居住アパートで、元々は一般の建物だが、日本好きが高じて2012年、庭園付きの茶室に大改築した。 期間中、展示された25点の着物や帯はすべて一点物で、南アフリカ出身で現在英国で活動するデザイナー、ティア・オグリさんによって作られた。テキスタイルデザインは、アフリカのエンデベラ(Ndebele)族などに影響を受けたもので、非常に色彩豊かだ。生地にはアフリカを代表するアンカラコットンが使われ、英国およびヨーロッパ諸国でキモノとして仕立てられた。  グローバスさんは、初めてオグリさんの着物を目にしたときをこのように振り返る。「ヴィヴィッドなテキスタイルに即くぎ付けになり、すぐにコンタクトをしました」。デザイナーが日本人かどうかも分からず調べたところ、英国オックスフォードに住んでいることがわかった。英国にはグローバスさんの娘夫妻が住んでいるため家族訪問にかこつけて訪れ、オグリさんに会って直接思いを伝えた。そして「素晴らしいこのミックスカルチャーをニューヨークの茶室で紹介しよう」と、2人は意気投合した。 オグリさんは「以前行われた同様の展示イベントが素晴らしかったので、参加の依頼を受けた時は光栄な気持ちでいっぱいになった」と当時の思いを振り返った。  展示品のキュレーションは、数年前のファッションイベントでグローバスさんが出会ったドイツの着物スタイリストで着付師、衣装の歴史研究家のスプリーキンギョ(SpreeKingyo)さんに依頼した。スプリーキンギョさんのセンスにより、展示された着物はハイヒールやブーツから博多織の帯などまで、さまざまなアクセサリーと共に、先鋭的にコーディネートされた。 ▽着物好きの在英デザイナー  オグリさんは、もともとアニメ『イタズラなKiss』やNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』などを見て日本文化に魅了され、徐々に着物のミートアップにも参加するようになっていった。今ではちょっとしたお出かけの際や結婚式などで着物をまとう生活を送っている。  おそらく多くの日本人以上に着物が身近なものとして存在するオグリさん。本国日本で進む着物離れについて、「西洋化が世界中の文化と伝統を破壊している」と危惧する。また、ファストファッション人気に押されつつある現代のアパレル、ファッション界と比較しつつ、「1枚で複数のスタイリングが可能になる着物は、よりサステイナブルな衣類」だとも表現。「ただし、『着物警察』の存在や文化の盗用だと叫ぶ輩も存在する。それらの声に悩まされないためにも、何より自信を持って着る必要があると感じている」と独自の見解を語った。 ▽ニューヨーカーを魅了  期間中は、多くのニューヨーカーが着物姿で来場した。中には、着物を洋服のようにまとっておしゃれを楽しんでいる人もいた。  子どもの頃に見た黒澤明監督の映画をきっかけに空手や禅などに目覚めていったエイジャ・ウォルフさんもこの日は、アレンジした浴衣に帽子とタートルネック、革の帯とベルトを合わせたコーディネートでイベントを楽しんだ。着物や浴衣を30着所有し、普段から着物でイベントに行くことが多いという。「私にとって着物は伝統的な『衣装』としてだけではなく、着る『服』という存在です。ですからこの展示も着物自体が(着る服として)生き生きと見えました」と語った。 同イベントの展示品は当地のKaede Kimonosで販売中。一点物のため、売り切れ次第販売は終了となる。 Text and photos by Kasumi Abe (Kyodo 47 Newsより一部転載)無断転載禁止

おうち時間で日本のアニメファンが爆発的に増加中! NYの日系書店で今年売れたベスト5は?

長引く新型コロナウイルスの影響で「おうち時間」が増えたことで、ここニューヨークではある変化が起きている。 なんと日本の漫画・アニメが「かつてないほど」売れに売れているのだ。 年の瀬のある日、マンハッタンにある紀伊國屋書店ニューヨーク本店を訪れた。2階にある漫画&アニメ関連売り場は、地元客で大賑わいだ。パッと見る限り、年齢層は若い世代が多く、あらゆる人種の人々が買い物に訪れていた。 店長の高野耕太郎さんによると、同店では今年の傾向として漫画やアニメ関連グッズが「爆発的に」売れているという。 新型コロナにより昨春ニューヨークがロックダウンし、同店も3月末から6月末まで閉店を余儀なくされた。それにより人々のライフスタイルに変化が見られるようになったという。 ステイホームの習慣ができたことで、より幅広い層の人々がクランチロールやネットフリックスなどのストリーミングサイトを利用してアニメを観るようになった。それに伴い、同店では店の再開後、ある「異変」が起きた。 「今まで見なかったようなあらゆる層の人々が来店し、漫画が飛ぶように売れています」(高野さん)。具体的な数字は公開されていないが、「2021年の売り上げは2019年に比べて倍以上」だという。 高野さんは毎日店に立ち、漫画やアニメのかつてないほどのブームを間近に感じている。同店アシスタントマネージャーのアレキサンダー・ベニグノさんによると、それらの人気漫画やアニメに見られる共通点は、少年漫画系だという。女性の来客姿も多いが「性別や年齢に関係なくすべての層がブレンディングし、嗜好が少年漫画系に傾倒しています」(ベニグノさん)。 過去記事 入店数制限でいつも紀伊國屋書店の入り口に行列ができていた(2021年初夏)。 新型コロナに「打ち勝った」“先行事例”となるか?NYが復興へ前進、大規模再開へ NY日系書店(漫画コーナー)、今年の売り上げベスト5 せっかくなので高野さんとベニグノさんに、今年の同店漫画コーナーのベストセラーを聞いた。 売り上げは巻数の多さなどさまざまな要素による影響を受けるため、厳密な数字を基にしたランキングではないにしても、あくまでも売れ行きの傾向としては以下のランキングで間違いないそうだ。(すべて英訳版) 今年だけではなく万年のベストセラーは? 不動の人気は、ドラゴンボール!「いつも売り切れ気味です」と高野さん。その人気ぶりに加え、コロナ禍による紙不足と人手不足により刷り切れない状態が続き品薄だという。 このほかにも、筆者は11月に取材をした日本のアニメイベント「アニメNYC」で多くの来場者に好きな漫画やアニメを聞く機会があり、いかに『ベルセルク』が当地で人気かを思い知った。 紀伊國屋書店で同作を探してみたが、在庫が僅少だった。公立図書館にも探しに行ったが、やはり紙や人手の不足により手に入りにくい状態は変わらなかった。漫画セクションの司書の女性に在庫状況を確認したところ、同作の大ファンということで話しだすと、熱が入って止まらないほどだった。ついでに同作の魅力について聞いてみたところ「80年代の発売以降、多くの漫画がこの作品に影響を受けました。線の描写がものすごく細かいのが特徴なんです」と説明してくれた。作者の三浦建太郎氏が今年54歳の若さで亡くなり、人気が再燃しているという。 関連記事 アニメNYCは今年、コロナ禍にも拘わらず同イベント過去最多の5万3000人の来場者があった。 日本ブームは続く!コロナ禍「アニメNYC」にファン大集結。「鬼滅の刃」英語声優登壇、三浦建太郎追悼も このような漫画・アニメブームにより次に何が起こっているかというと、日本語学習者人口の増加だ。 「日本語の学習書や子ども用にふりがなを振っている書籍を購入していく人が増えています。また、大学で日本語を受講する人が増えているという話もよく聞きます」(高野さん) つまり要約するとこうだ。 おうち時間が増えたことで、動画配信サービスでアニメを観る人が増えた。 日系書店で、漫画を購入する人が増えた。 日本語の勉強をし始める人も増えている。 (未来予想)新型コロナが落ち着いたら、日本を訪問する人が増えていく…か? ブームとも呼べる現象を作った漫画・アニメ文化だが、最近は日本に限らず、中国や韓国の勢いも増しているそうだ。「韓国のSolo Leveling(俺だけレベルアップな件)や中国の『Heaven Official’s Blessing』なども、もうすぐメインストリームに入ってくると思います」(ベニグノさん)。 日本が誇る漫画・アニメ文化。来年はますますそのブームがアメリカで加速していきそうだ。 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止