NYハーフマラソンに2万5千人のランナー 日本人招待選手も健闘

Top photo: © NYRR 19日、最高気温3度という寒空の下、ニューヨークシティ・ハーフマラソン(2023 United Airlines NYC Half)が行われ、2万5000人のランナーが市内2区(マンハッタン、ブルックリン)を駆け抜けた。 優勝者は、女子の部がヘレン・オビリ(Hellen Obiri ケニア)選手と男子の部がジェイコブ・キプリモ(Jacob Kiplimo ウガンダ)選手。車椅子部門はスザンナ・スカロニ(Susannah Scaroni アメリカ)選手とジェッツェ・プラット(Jetze Plat オランダ)選手。 アメリカでのハーフマラソンに初参加したオビリ選手は、同大会記録(昨年)を14秒更新し1時間07分21秒でゴールした。レース後「とても風が強かった。15kmを過ぎてからいけると確信しペースを上げた」と、優勝の喜びを語った。 ハーフマラソンの世界記録保持者、キプリモ選手は同大会初出場で1時間 01分31秒でゴール。「この2ヵ月、世界クロスカントリー選手権とこの2大会に向けトレーニングをしてきた。少し寒かったがベストを尽くした」と語った。 55分47秒でゴールしたスカロニ選手は、本大会で2つ目のタイトルを獲得。48分28秒でゴールしたプラット選手は、2位の選手に4分39秒差をつけて圧勝した。 日本からは2人の招待選手が出場し、赤星雄斗選手(駒澤大学)が1時間03分49秒で14位、引退レースとなった円健介選手(駒澤大学)は1時間05分01秒で18位でゴールした。 Text and photo by Kasumi Abe (「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

日系人アーティスト犬飼恭平 個展。3月17日より

日系人アーティスト、犬飼恭平(Kyohei Inukai、1913-1985)の展覧会がジャパンソサエティーで開催されます。 生前、ほぼ無名だったシカゴ生まれの犬飼。石のように、または炎のように見える抽象的な絵画とスクリーンプリントが3つのエリアに分かれ、展示される。奥の墨絵コーナーはキュレーターにより、まるで日本庭園のように作品が配置され力強くも神秘的。すべて1960年代から80年代にかけての作品。 3月17日〜6月25日 Text and photo by Kasumi Abe (「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

チェロ&尺八で日本の名曲。ホロコーストから救った日本副領事の功績称え

Photo: © Daphne Youree 14日、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで、ある日本人の功績を称えるコンサートが開催された。 その日本人とは、1939年に在リトアニア日本副領事だった杉原千畝(ちうね、1900-1986)氏のことだ。第二次世界大戦中、彼が多くのユダヤ人をホロコーストから救った話はご存知だろうか? 杉原氏はホロコーストの渦中、ナチス・ドイツによって迫害されたユダヤ人にビザを発行し、約6000人の命を救った。 あれから80年以上が経ち2020年、同氏の功績を称えるコンサート「A Concert for Sugihara」がチェリストのクリスティーナ・レイコ・クーパー氏により企画されていた。彼女の夫の父は第二次大戦中、杉原氏が発行したビザで救出された1人だ。しかしコロナ禍でコンサートは延期になり、ようやく今年4月19日にカーネギーホールで「A Concert for Sugihara」が実現する。 A CONCERT FOR SUGIHARA Wednesday, April 19, 2023, 7PM  それに先駆けたこの日、クーパー氏が尺八奏者のザック・ジンガー氏を迎えたミニライブ「An Intimate Prelude to A Concert for Sugihara」では、バッハの『Cello Suite No. 1 in G Major, Prélude』や日本の名曲『荒城の月』などを披露した。 ステージに立ったジンガー氏は「ここにいる皆さんは尺八とは一体何だろうと思うかもしれません。しかし侍映画の風が吹くシーンで聞き覚えがあることでしょう」と紹介し、クーパー氏と共にチェロと尺八という和洋折衷の見事なアンサンブルを披露した。 ステージには、杉原氏に父を救われた国立イディッシュ劇場の芸術監督、ザルメン・ムロテック氏も登場し、同氏に敬意を表した。 杉原氏がビザを発行し出国できた難民は、シベリア鉄道でウラジオストクに到着し、日本や中国へと向かった。その後カナダやアメリカに辿り着き新たな人生をスタートさせた人も多い。杉原氏が救った難民の子孫は、こんにち約4万人と推定されている。 会場に集まったのは地元の人々で多くはユダヤ系の人々だ。何人かと話をしたが、いずれも杉原氏の功績についてはこれまで知らなかったと言い「素晴らしい話だ」「音色に感動した」と話した。 AN INTIMATE PRELUDE TO A CONCERT FOR SUGIHARA ジャパン・ソサエティー&ホロコースト記念館「アメリカン・ソサエティー・フォー・ヤド・ヴァシェム」共催 ### Text and some…

60歳大女優、ミシェル・ヨー。アカデミー賞受賞スピーチで「女盛り」についてチクリと言及

12日に行われた第95回アカデミー賞授賞式では、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が作品賞や監督賞を含む7部門で受賞した。 主演女優賞を獲得したのは、主人公エヴリン役を演じたミシェル・ヨーさん。ヨーさんはアジア系女性として初、そして有色人種の女性として2人目の同賞獲得となった。 受賞が決まった瞬間「この受賞をアジア系女性が成し遂げるのに95年もかかった」「歴史が作られた」などとSNS上では大騒ぎとなった。 受賞スピーチでヨーさんは、「これを今観ている私のような少年少女にとって、この受賞は希望と可能性を意味する良い事例になるでしょう」と述べ、「これは夢が叶うという証です」と握り締めたオスカー像を掲げた。さらに「女性たちよ。どうか誰もあなたに『女盛りを過ぎた』なんて言わせないで」と付け加えると、会場から大きな拍手が沸き起こった。 これは先月、CNNの朝の番組でオンエアされ大炎上したアンカー、ドン・レモン氏の「女盛りは40代まで」発言を皮肉ったものと思われる。 関連記事 ヨーさんはマレーシア出身の60歳。1984年に俳優業を香港でスタートし、その後渡米。この賞に辿り着くまで苦節39年かかった。 アカデミー賞の前哨戦とも言われるゴールデングローブ賞(今年1月)でも主演女優賞を受賞した彼女は、その時のスピーチで「昨年私は60歳を迎えた」「女性は年齢の数字が大きくなればなるほど、機会に恵まれることは少なくなる」と女性の年齢による機会損失について訴えていた。 関連記事 今回のアカデミー賞のスピーチの後半では、高齢になる母親への感謝も忘れなかった。彼女は大きく深呼吸をし、このように述べた。「この受賞をマレーシアで今観てくれている84歳の母に捧げます。そして世界中のすべての母にも。母親がいなければ今夜ここにいる誰もが存在しません」。 アカデミー賞では、エヴリンの夫役でベトナム出身のキー・ホイ・クァンさんも助演男優賞を獲得。クァンさんは受賞スピーチの冒頭で、同じく84歳になる高齢の母親に対して、泣きながら「ママ、オスカー取ったよ」と報告した。 「私の人生は難民ボートから始まったが、ここまで辿り着いた。諦めかけた時もあるが妻にいつか自分の時代が来ると励まされ続けた。映画だけで起こる話ではない。これはアメリカン・ドリームだ。夢は信じないと実現できない。皆さんも夢を諦めないで」と、こちらも感動的なスピーチだった。 授賞式の翌朝、CNNの番組でレモン氏は、これらの受賞について「特にアジア系アメリカ人やアジア系の俳優にとって、特別な受賞の瞬間になった」とコメントしたが、ヨーさんのスピーチについては言及しなかった。 関連記事 Photo:60歳とは思えない若さあふれるミシェル・ヨーさん。アカデミー賞の授賞式で。 Photo:16年前のヨーさん、第60回カンヌ国際映画祭にて。 Photo:助演男優賞を獲得したクァンさん。 Text by Kasumi Abe(Yahoo!ニュース 個人「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

歌川広重『六十余州名所図会』 篠原有司男&乃り子夫妻の姿も@NY浪人ギャラリー

ミッドタウンの高層ビル内に、まるで隠れ家のように佇むRonin Gallery(浪人ギャラリー)。このギャラリーは木版画にフォーカスし、現在は約140年前の江戸時代、歌川広重が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画『六十余州名所図会』を展示中。 ここのオーナーは日本人かと思いきや、David Libertsonさんという方。半世紀前にオープンしたこのギャラリーを家族で運営し、日本をはじめ世界中の版画をコレクト、展示しています。 浮世絵はアメリカで葛飾北斎、歌川広重、そして月岡芳年がマニアの間で有名ですが、この日のオープニングで知り合ったゲストの中にも、月岡芳年の作品を2つも所有しているという金融系の方などがいました。 そして懐かしいお顔も。前衛芸術家の篠原有司男(ギュウチャン)&乃り子夫妻です。 お二人はドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(ザッカリー・ハインザーリング監督)でも有名です。 5〜10年前、ダウンタウン(だったかな)すごく広いギャラリーで開かれた夫妻の個展を開催し、そこでお会いしたのが初めてだったかな。その後も別のギャラリーで息子さんも入れて再会したり、ダンボを歩いているのを見かけたり(ギュウチャンの移動が早すぎて声をかけられず…)。でもここ数年、少なくともパンデミック中は見かけなかったので、5〜10年ぶりの再会でしたが、相変わらずお元気で驚きました!(ニューヨークで創作活動をされている人ってなんでこんなにもお若いのでしょう?!) ニューヨークに移ってもう50年になるとのこと。半世紀!年齢はもういいよ〜と初めはおっしゃらなかったけど「91!」とギュウチャン。私が5〜10年前にお会いした時は80代だったから、そのくらいのお年頃になりますよね。でも全然お変わりなく、この日初めて夫妻に会った私の友人も驚いていました。友人が「若さの秘訣はなんですか?」とギュウチャンに尋ねると、アーティストとして裕福にならず現在地にあぐらをかかないことという趣旨のお答えでした。「ハングリー精神ということですか?」と尋ねると「そう」とのこと。いつまでもお元気でいて欲しいです。また会いましょうと言って、別れました。 Ronin Gallery Hiroshige: 60-odd Provinces Opening Reception Text and photos by Kasumi Abe 無断転載禁止

脱マスクから半年、NY市長「マスク外して」と異例の呼びかけをした理由

Photo: マスク姿の人(イメージ写真)。(c) Kasumi Abe ニューヨークでは昨年9月に公共交通機関でのマスク着用義務が撤廃された。それ以降、着用するか否かは完全に個人の選択となっている。 街中を見渡すと、現在多くの人がマスクを着けていない。 ただしマスク姿が皆無だったコロナ禍前の風景に完全に戻ったかと言えば決してそうではなく、店内でも地下鉄でも、ごく一部の人は未だマスクを着けて行動している。 マスク離れをしていないのはお年寄りだけでなく若い人もいる(冒頭の写真)。今日ダウンタウンを歩いた感じでは、マスク姿は全体の1%ほどの割合だった。 そんな中、ニューヨークのエリック・アダムス市長は6日、市民に対して「店に入るときはマスクを外して」と異例の呼びかけをした。 朝のニュース番組「PIX11モーニングニュース」にリモート出演した市長は、その理由としてこのように話す。 「未だにマスクをして入店する人(の一部)は新型コロナの感染が怖いのではありません。彼らが恐れているのは警察に捕まることです」 白昼堂々と窃盗犯が高級ブランド店に押し入り、商品を鷲掴みで盗んでいる動画が、コロナ禍以降、ニュースやSNS上で頻繁に流れてくる。ブランド品ではないものの、筆者も実際にスーパーで食品や嗜好品を盗んでいる人を目撃したことがある。それも一度や二度ではない。 今日明日の食べ物に困って万引きをする人はごく一部のようで、「今起こっている窃盗の約97%が転売してお金に替えるため」と専門家は指摘する。 ドラッグストアでは現在、たった10ドルちょっとの頭痛薬でさえ、鍵付きの棚に入れられているのだ。 ブランド店で発生した窃盗の動画。コロナ禍以降、万引きを含む窃盗や強盗が社会問題になっており、このような目撃映像が日々SNS上で流れてくる。どの犯人も必ずマスクを着けている。 市内のほとんどの店は監視カメラを設置しており、マスクなしの犯人の顔を記録し検挙に繋げたい意向だ。市長は小売店の経営者に対しても、マスクを着用している客の立ち入りを許可しないよう呼びかけた。 ただし市長は、マスク着用自体を否定しているわけではなく、入店の際に顔が完全に見える状態であれば、入店後にマスクを着用しても構わないと補足した。 ‘Concern to all’: Adams on ‘tranq,’ other NYC issues デイリーニューズなど地元紙によると、昨年発生した小売店での(万引き含む)窃盗・強盗事件の件数はその前の年と比べて4.5%増加したという。 今年2月の時点では、昨年に比べて10%減少したという報道もある。しかし昨年と比較して減少しただけであり、今年も同様の事件は起きている。つい最近も比較的治安が良いとされているアッパーイーストサイド地区のデリの店員が強盗犯に射殺される事件が起こったばかり。「マスクを外して」という異例の呼びかけは、これらの犯罪への対応に苦慮する市が考えあぐねた末の苦渋の決断なのだ。 関連記事 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

【レビュー】超高齢化の日本に訴えかける。58年の映画『楢山節考』NYで

Photo: © 1958 Shochiku ニューヨークで日本の文化を紹介する「ジャパンソサエティ」では月例で、日本の名作が上映されています。今月の映画は、木下恵介監督の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958年、原作:深沢七郎)。 同作は、食料不足が続く貧しい村で70歳に達した老人を楢山に遺棄する恐ろしい因習を題材としたもの。慣わしに従い年老いた母を背板に乗せ真冬の楢山へ捨てに行きます。 母はこの年で健康な歯を恥じ岩に打ち付け自傷。山に行きたくないと拒否する村人がいる中、母は自ら進んで「楢山まいり」の日を早めたいと言います。無言で母を背負い山に登っていく、心優しい一人息子。神様がいると言われる山の頂上で見た実際の光景は・・・。 両親が高齢となった人、また自身も数十年後にそのような年代になる人には切ないシーンでした。そして若い世代にとっても他人ごとではありません。人は必ず老い死ぬのですから。 現代日本では人口減少と超高齢社会が深刻化する中、これといった解決策は見出されておらず、対応策について意見が分かれています。しかしいかなる場合であってもネット上で推奨、炎上した集団自決のような結末はあってはなりません。また社会が高齢者をそのような思想に追い込んだり、生きていて恥に思うような風潮は決して許されません。 58年の映画でしたが、現代の日本人にも大いに関わってくる題材でした。 上映室は日本人よりローカルの人が多かったです。所々感嘆の声が上がっていました。アメリカはどのようにこの映画を受け止めたでしょうか。 Text by Kasumi Abe (「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

【独占インタビュー】「バカ殿やSMAPが大好きだった」日本育ちの米芸人、アツコ・オカツカ

昨年12月に配信開始したHBO MAXオリジナル『Atsuko Okatsuka: The Intruder(ザ・イントゥルーダー)』で、全米を笑いの渦に巻き込んだアメリカのお笑い芸人、アツコ・オカツカ(岡塚敦子)さん。 ビヨンセの曲と共に艶めかしく腰を下ろすドロップチャレンジ(Drop Challenge)も、ソーシャルメディアで話題になって久しい。 日本で育ち10歳で渡米したというオカツカさん。幼少期の話やコメディアンになった経緯、日米のお笑いの違いについて聞いた。 ■ 千葉で育った幼少期 ── 幼少期の話からまずお聞かせください。 日本人の父親と台湾人の母親の下、私は台北市で生まれ、生後3ヵ月で父の住む千葉県に家族で引っ越しました。両親はその後離婚し、化石燃料技術者として働いていた父は定年退職後、バリ島(インドネシア)に住んでいます。そんな父が今年の春に日本に一時帰国するというので、私も数年ぶりに日本に行き父と再会する予定で、今からとても楽しみです。 父は私がコメディアンとしてアメリカで活躍していることに大変驚いていますが、同時にとても喜んでくれています。私のスタンダップコメディは英語ですが、日本をはじめ世界中から反響があるので私自身も驚いています。 ── 10歳で渡米したそうですね。何がきっかけだったのですか? 統合失調症の母が体調を崩したことがきっかけです。憶測ですが、おそらく文化や言葉の違いで日本に適応できなかったんだと思います。祖母がより良い環境を求めて母と私をアメリカに連れて来たんです。でも当時、私は引っ越すなんて思いもしませんでした。だって「2ヵ月バケーションに行くわよ」と言う祖母について行っただけですから。 アメリカ生活は突然始まりました。英語も話せないしカルチャーショックは大きいしで周囲に馴染めず、日本の父親とも会うことができず悲しい思いをしました。母親の症状は相変わらずで、私は子どもながらに母の面倒もみていました。 でも今考えると、このような辛い体験をしたからこそ、私はコメディアンになったんだと思います。自分が大変だった分、人には笑いと活力をもたらそうとしたんです。 これはステレオタイプな見方ですが、スタンダップコメディアンは幸せな人生からは輩出されないと言われています。「辛い体験があったからこそ人を笑わせ楽しい経験をもたらすことができる」、そういう風に言われているんです。 嬉しいのは、お客さんからいろんなリアクションがあることです。「パンデミック中に落ち込んでいたけどあなたのコメディで救われた」とか「大笑いしてハッピーな気分になれた」などのコメントが来ます。それを聞くたびに、私は今このように人を笑わせることができるようになったのだと嬉しく思います。 ── あなたの話を聞いてアメリカのラッパーたちを思い出しました。ラップも貧困という困難な環境から生まれた才能ですよね。満ち足りた生活からあのような芸術は生まれてこなかっただろうから。 なるほどね、確かに。素晴らしい芸術は自分が心から表現したい気持ち、そしてほかの人にも伝えたい、与えたいっていうそのような気持ちから湧き出るものですよね。そしてそのような芸術を鑑賞し、良い芸術か否かの判断を下すのはいつもお金がある層ですね、皮肉なことに。 ── 千葉に住んでいた頃の話もお聞きしたいです。日本というと、まずどのようなシーンを思い出しますか? 盆踊りが大好きでした。あとは公園とか最寄りの南行徳駅、富美浜小学校など。記憶違いかもしれませんが高島屋だったかな、デパートの屋上が遊び場になっていて鯉がいる池で餌をあげたり。子どもの頃の写真は動物に餌をあげているシーンばかりで、友人との写真はほとんどありません。私は同じ世代とつるまない風変わりな子どもだったので、やはりコメディアンの素質は当時から十分にありました(笑)。 あと思い出すのは食べ物です。働き者の父は仕事の帰りがいつも遅かったけど、家に遊びに行くと夕食を作ってくれて、私の好物は温めたらできるカレーでした。熱いからぐちゃぐちゃかき混ぜてフ~フ~冷ましながら食べたりね。今でもコメディの仕事から夜遅く帰るとカレーが食べたくなるんですよ。私はもうアメリカ人だからチーズを載せますけどね(笑)。 『クレヨンしんちゃん』や『ちびまる子ちゃん』もよく観ていました。SMAPや日本のお笑いも好きでした。お笑いタレントで好きだったのは志村けんさんです。子どもにはやや大人っぽい内容でしたが「バカ殿様」や「変なおじさん」は大好きでした。渡米後もYouTubeで「天才!志村どうぶつ園」をチェックしたりもしました。 日米のお笑いは少し違います。日本のお笑い芸人は芸能事務所に所属し、長い間第一線でい続けますよね。そしてネタはフィジカルユーモア(体や動き、見た目)で表現するものが多いですね。一方アメリカのお笑いは言葉そのものによるジョークが多いです。それでも私は子どもの頃に見た日本のお笑いが好きだから、自分のスタンダップコメディでは時々フィジカルユーモアを使うんです。 ■ 米国でお笑いの世界へ ── コメディアンとして始動したのは2008年だそうですね。小さい頃からの夢だったのですか? 子どもの頃はコメディアンという職業があることすら知らなかったです。 お笑いに興味を持ったきっかけは、15歳の時に観た、同じアジア系女性スタンダップコメディアンのマーガレット・チョー(Margaret Cho)のステージでした。DVDで観て、なんて面白いんだろうって感動しました。彼女は音楽や演出など一切なしで、1時間ぶっ通しで喋り通し、観客を引き込むんですよ。 私のデビューは二十歳の頃で、ロサンゼルスのコメディクラブ「コメディユニオン」の舞台でした。いざ自分がお笑いの世界に入り、プロとしてやるとなると大変でした。日本では養成所に入ったり芸能事務所に入ったりすることからスタートすると思いますが、アメリカではまずスタンダップコメディのクラスを受講します。そしてオープンマイク(飛び入りで参加するステージ)を経験し、コメディクラブのオーディションを受け、オーナーに認められると出演の機会が増えます。自分で劇場を予約したりチケットを売ったりして、自分で自分のショーを始めるんです。時にはほかのコメディアンにコラボを依頼し、多くの人の目に触れる機会を作ったりもします。 途中で学校に行ったり休憩をしたりもしたので、お笑いのキャリアは通算13年くらいになります。最初は自分のお笑いに自信がなかったから「本当はそれほど面白いと思われてないんじゃないか」と疑心暗鬼になったり「きっとテレビのお笑いのアジア系枠は1人分しかないだろう」などネガティブな気持ちになることもありました。この世界では、ほかのどの芸人とも被らない自分だけのオリジナルの芸風が見つかるまで10年かかると言われています。私も自分のスタイルを確立し、自分流でこれで行けると自信が持てるようになるまで、9年ほどかかりました。 ── 普段、笑いのネタはどこからくるのですか? スタンダップコメディ界では「ネタは怒りから」とよく言われます。私も普段の生活でモヤっとしたことをコメディに落とし込むことは多いです。また夫との会話や日常生活で「これ面白い!」と思ったことも取り入れます。 私は人の心理や人間性に興味があるので、哲学や葛藤の中で人がどのように振る舞うかなどを考えることは、笑いのテーマや構成を考えるのにとても役立っています。 ── ブレイクを実感したのはいつ、どんな時でしたか? 所々であるのですが、まず変わった体験で言うと、2019年にロサンゼルスで行ったステージです。ショーの途中でマグニチュード7.1の地震が起こったんです。予期せぬ出来事でしたが、そんな中でも私はお客さんを気にかけながら笑いを取ることを忘れませんでした。それが話題となり動画が多くの人の目に止まり、知ってもらえるきっかけになりました。 2020年には『Let’s Go Atsuko!』(動画プロジェクト)の放映権が売れ、テレビ出演の機会も増えました。ステージの場数を踏むと、自分が落ち着いてリラックスできるようになります。自分がゆったり構えると、観ているお客さんもリラックスして心地よく観てくれるんだとわかってきました。ステージで100%自信を持てるようになるまで長い時間がかかったけど、途中で諦めず自分の好きなことを続けてきて、今に至ります。 パンデミック中も多くの人に知ってもらうことができました。暗い日々に人々が渇望したのはお笑いでした。そして私は随分とソーシャルメディアに助けられています。SNSのツールによって私のお笑いは全米のみならず世界中に無制限に広がっていきました。 ── 最後に今後の抱負をお聞かせください。 今年も引き続き、皆さんを笑いの渦に引き込んでいきたいです。3月まで全米ツアー中ですが、同時に新たなコメディ番組の制作に入っているところです。 その合間に訪れる日本も本当に楽しみです。滞在中は父と再会したり、夫に私が育った街を見せて回ったりする予定です。なんせ2016年以来の日本です。恋しい気持ちが募っていますから、きっと感傷に浸る旅になるでしょう。 日本の方にももっと私のことを知ってもらえるきっかけがあれば嬉しいです。まだ多くのファンがいるわけではないので、私のジョークに触れる機会が増えればいいですね。希望としては秋ごろにまた日本に戻り、大きなステージができたらと考えているんです。あるプロデューサーの方が、私がお笑い養成所で日本のお笑いを学んでステージに立つドキュメンタリーを作りたいって言ってくださっています。今後どう動いていくでしょうか。楽しみにしていてください!…

【億ションのお宅拝見】NYクリエイティブ地区ブルックリン・ダンボの3億円超!新築コンドの中身

先日内覧したニューヨークの閑静な高級住宅地、グラマシーパークの新築コンドミニアム(分譲用の集合住宅)に続き、筆者が訪れたのはブルックリン区のダンボ地区。 ダンボ地区はマンハッタンに掛かる橋の袂に位置する。元は倉庫街で、今も昔ながらの煉瓦造りの建物や石畳が残り、独特の風情がある。 歴史的に若手のアーティストやクリエイター、テック系の人が多い理由は、マンハッタンの地価が高騰し、芸術家が広いロフトやアトリエで少しでも安く活動できるようにと、20世紀末ごろから倉庫街だったダンボに移ったからだ。今では倉庫やロフトをリノベートしたハイエンドなレストラン、世界的規模のホテル、テック企業が進出し、市内でも有数のハイエンドな地区(ネイバーフッド)として知られる。 DUMBO, Brooklyn 今では地価や物価が急騰し、不動産会社のPropertySharkによると、中央値で見ればダンボ地区はブルックリン区でもっとも高く、ニューヨーク市内でもトップ8位。(2020年の統計) 「ダンボは活気に満ちたウォーターフロントに位置し、人々がブルックリンで最も憧れる地区の1つです」 Front & Yorkのデベロッパーで米大手不動産関連企業CIMグループのジェイソン・シュライバー(Jason Schreiber)さんはそのように説明する。「豊かな緑地、歴史的建造物、人気飲食店などお出かけが楽しくなる魅力が多く、訪れた人はこの活気に虜になります」。 駅近の立地も当地では人気物件の指標の一つだ。地下鉄最寄り駅は、マンハッタンから1駅のYork駅。その駅を出てすぐ角に完成したのが、今回訪れた新築コンド、Front & York。 エントランスを入るとドアマンのいるレセプションがあり、その奥はライブラリー&コミューナルスペースとなっている。ここで住民同士が語り合ったり、コワーキングスペースとして仕事に利用したりと、使い方は千差万別。 さらにドアの向こう側は、住民専用の公園が広がる。 建物は21階建ての2つのレジデンシャルビルから成る。建築は、周囲の倉庫街との同化するよう、当地のMorris Adjmiが手がけた。Morris Adjmiは、ブルックリンブームの先駆けとして建築系やファッション系なら知らない人はいないワイスホテルの建築でも知られる。 早速、3ベッドルーム(4階)と2ベッドルーム(9階)のユニットへ。 入り口のドアを開けると、大きなウォークインクローゼットがあるのはとても便利。靴箱はもちろん、ベビーカーや冬物コート、趣味のゴルフセットや釣り具などここに入れておけば、部屋全体がすっきりと片付く。 奥のリビングルームはどちらも広く明るい設計。これらのインテリアデザインはすべて、当地のASH Staging(ASH NYC)が手がけた。 ユニットによっては、このような壮大な景色も部屋から見られる。「こちらは西方向なので、夕暮れ時や日が落ちた後はもっと素敵なんですよ」と、Front & Yorkのセールス担当、サラリン・ヘルスターンさん。 4階のユニット(4E)はカウンターキッチンで、夫婦どころか家族総出で使えそうなほどスペースたっぷり。調理台はトースターやコーヒーメーカーでごちゃごちゃしやすいが、冷蔵庫や食洗機までラグジュアリーで落ち着いた木製のイタリアンキャビネットでまとまめられているので、すっきりとした印象。 大切な来客のための、高級感あるゲスト用パウダールーム。こちらも広くてゆったりしたスペース。 一転、子ども部屋は白が基調で明るい作り。 Front & Yorkのさらなる魅力は、住居ビル内の充実した共有スペースにある。 プロのシェフを招いた調理イベントやYouTube撮影ができるキッチンスペース、コワーキングスペース、キッズルーム、屋内&屋外プールを備えたフィットネスクラブ、バスケットボールコート、演奏の練習や音楽イベントのためのミュージックルーム、ワイン・テイスティングルーム、ビリヤードバー&ゲームルーム、ペット用スパまで完備。コミュニティマネージャーが常駐し、住民のライフスタイルをサポートしてくれる。まるで一つの街であり、外に出る必要を感じさせないほどだ。筆者もさまざまな物件を見てきたけど、ここまでの充実度は希少! ニューヨークは全米の中でも不動産価格が格段に高いが、今年の住宅価格は昨年に比べると下落傾向という報道がある。一方インフレを抑えるための大幅な利上げを背景に、住宅ローンの金利は上昇している。 購入価格は4階のユニット(4E)が日本円で3億円超え、9階のユニット(9-19B)が2億円超えとなっている。当地でも比較的高い物件だが、シュライバーさんによると今年の初めから、購入希望者からの問い合わせが多く、販売に繋がっているという。 「目の肥えたバイヤーは美しく最高のデザインの住居空間を常に探していますから、Front & Yorkの屋外スペースや機能的な設備、エキサイティングなロケーションの良さなどが目に留まっているようです」(シュライバーさん)。 「4E」のフロアプラン 「9-19B」のフロアプラン Front & York 4E 価格:274万ドル(現在の為替で約3億7400万円) 3ベッドルーム、2.5バスルーム、リビング&ダイニング、キッチン 室内面積:1,647平方フィート(約153平方メートル) 9-19B 価格:197万ドル(現在の為替で約2億6900万円) 2ベッドルーム、2.5バスルーム、リビング&ダイニング、キッチン 室内面積:1,212平方フィート(約112.6平方メートル) NYの住まい関連記事 Text and…

ロシアのウクライナ侵攻1年 世界のアートシーンでも「脱植民地化」の動き

ロシアのウクライナ侵攻から1年。アメリカではバイデン大統領がキーウを電撃訪問し、軍事支援の継続をゼレンスキー大統領に示したことで、二国間のさらなる結束が報じられた。 両国の死傷者は兵士と民間人で推計32万人超と報道され、未だ戦争終結の見通しは立たず暗いニュースが続く。 開戦から1年経ち、ウクライナから逃れてきた人々の新たな生活は、ここニューヨークでも始まっている。 人種の坩堝と言われる当地には「小さなウクライナ」があるのをご存知だろうか。街を歩けばウクライナ国旗がなびき、ウクライナ料理店(ヴェセルカ)やウクライナ文化の紹介施設(ウクライナ・インスティテュート・オブ・アメリカ)が、移民の心の拠り所となっている。 市内にはウクライナの芸術品を集めた美術館もある。1976年に創立し、47年間の歴史があるウクライナ美術館(ユークレイニアン・ミュージアム)だ。同国の芸術に焦点を当てる美術館としては、同国外にあるもので最大規模とされる。 このウクライナ美術館は20世紀以降の芸術作品に焦点を絞り、約1万点を超える作品をコレクションとして収蔵している。 現在はキーウ出身の写真家、Yelena Yemchukが南部オデーサの陸軍士官学校の少年少女を撮影した「オデーサ」展、そして身体障害があり第一次世界大戦中に孤児となった画家、Nikiforの絵画作品が展示されている。 ピーター・ドロシェンコ(Peter Doroshenko)館長によると、同美術館の来場者はロシア侵攻後に増えており、今では年間2万2000人が訪れる。その多くはウクライナ系でないといい、ロシアによる侵攻後、多くの人が同国へ関心を寄せていることがわかる。 またドロシェンコ氏によると、世界の芸術界では今、新たな動きがあるという。 これまでロシアのアートと表示されていた芸術品の誤った解説パネル(もしくはボーダーレスに分類されていた)が再考され、ウクライナのアートとして修正される作業が始まっているのだ。 「ウクライナは長年ロシア帝国の陰に隠れ、文化や芸術、言語の面でも侵略されました。文学、シアター、シネマ、出版、音楽などの分野で自国のオリジナル性、そして母国語が少しずつ失われていったのです。我々の怠惰がそれを許したのですが」 侵攻から1年を前に行われたパネルディスカッションで、ドロシェンコ氏はコロンビア大学で言語やフィルムを教えるYuri Shevchuk教授ら3人の知識人と登壇し、そのように説明した。 ドロシェンコ氏自身も以前、キーウの美術センターで代表を務めていた時、そこが管理するウェブサイトがロシア語であることに疑問が湧き、ウクライナの母国語や文化面での独立を意識するようになった。 ウクライナが軍事面でロシアに抵抗している今こそ、文化面でもロシアから独立しようとする機運が高まっているという。知識層の間では「Decolonize(脱植民地化)」や「Desovietise(非ソビエト化)」などと呼ばれている動きだ。 例えば(世界三大美術館の一つ)メトロポリタン美術館では、より正確にラベルづけをしようと、アーティスト・プロフィールの精査が進められている。 「実際に、これまでロシア人として分類されていた3人のアーティストがウクライナ人アーティストとして修正されたところです」(ドロシェンコ氏) ウクライナ表記に修正された芸術家は、19世紀に活躍したイヴァン・アイヴァゾフスキー(Ivan Aivazovsky)、アルヒープ・クインジ(Arkhyp Kuindzhi)、イリヤ・レーピン(Ilya Repin)だ。 米誌アートニュース(ARTnews)もこのように伝える。 「例えば、クインジが生まれたロシア帝国の一部は現在ウクライナのマリウポリ市だ。元ロシアのチュフイフ生まれのレーピンも、現在はウクライナのアーティストと見なされている。ロシア帝国の一部だったクリミアのフェオドシヤで生まれたアイヴァゾフスキーについては、2014年のロシアによるクリミア併合後、両国が『自国のアーティスト』と主張し合った(家族はアルメニア人のため、アルメニア国立美術館は彼をアルメニア人と呼んでいる)。しかしアート界の新たな解釈ではアイヴァゾフスキーもロシア人ではなくウクライナ人と見なされている」 この動きは現在世界のアートシーンで起こっている。ロンドンのナショナル・ギャラリーでも、エドガー・ドガの描いた『Russian Dancers』(ロシアの踊り子、1899年)が以前はロシア人ダンサーとされていたが、今はウクライナ人として『Ukrainian Dancers』に変更されているという。 「多様化が進む現代社会では、さまざまな地域や性的マイノリティの人々が自身のアイデンティティを表明している。我がウクライナにとっても戦いが止まず厳しい時期だが、同時に変化の時期でもある。願わくは、このようなアートシーンの動きがほかの文化の分野でも『脱植民地化』の第一歩になれば嬉しい」 登壇者らは未だ終わりが見えない暗闇の中で、ひと滴の希望を示した。 NYとウクライナ関連記事 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止