ロシアのウクライナ侵攻1年 世界のアートシーンでも「脱植民地化」の動き

ロシアのウクライナ侵攻から1年。アメリカではバイデン大統領がキーウを電撃訪問し、軍事支援の継続をゼレンスキー大統領に示したことで、二国間のさらなる結束が報じられた。 両国の死傷者は兵士と民間人で推計32万人超と報道され、未だ戦争終結の見通しは立たず暗いニュースが続く。 開戦から1年経ち、ウクライナから逃れてきた人々の新たな生活は、ここニューヨークでも始まっている。 人種の坩堝と言われる当地には「小さなウクライナ」があるのをご存知だろうか。街を歩けばウクライナ国旗がなびき、ウクライナ料理店(ヴェセルカ)やウクライナ文化の紹介施設(ウクライナ・インスティテュート・オブ・アメリカ)が、移民の心の拠り所となっている。 市内にはウクライナの芸術品を集めた美術館もある。1976年に創立し、47年間の歴史があるウクライナ美術館(ユークレイニアン・ミュージアム)だ。同国の芸術に焦点を当てる美術館としては、同国外にあるもので最大規模とされる。 このウクライナ美術館は20世紀以降の芸術作品に焦点を絞り、約1万点を超える作品をコレクションとして収蔵している。 現在はキーウ出身の写真家、Yelena Yemchukが南部オデーサの陸軍士官学校の少年少女を撮影した「オデーサ」展、そして身体障害があり第一次世界大戦中に孤児となった画家、Nikiforの絵画作品が展示されている。 ピーター・ドロシェンコ(Peter Doroshenko)館長によると、同美術館の来場者はロシア侵攻後に増えており、今では年間2万2000人が訪れる。その多くはウクライナ系でないといい、ロシアによる侵攻後、多くの人が同国へ関心を寄せていることがわかる。 またドロシェンコ氏によると、世界の芸術界では今、新たな動きがあるという。 これまでロシアのアートと表示されていた芸術品の誤った解説パネル(もしくはボーダーレスに分類されていた)が再考され、ウクライナのアートとして修正される作業が始まっているのだ。 「ウクライナは長年ロシア帝国の陰に隠れ、文化や芸術、言語の面でも侵略されました。文学、シアター、シネマ、出版、音楽などの分野で自国のオリジナル性、そして母国語が少しずつ失われていったのです。我々の怠惰がそれを許したのですが」 侵攻から1年を前に行われたパネルディスカッションで、ドロシェンコ氏はコロンビア大学で言語やフィルムを教えるYuri Shevchuk教授ら3人の知識人と登壇し、そのように説明した。 ドロシェンコ氏自身も以前、キーウの美術センターで代表を務めていた時、そこが管理するウェブサイトがロシア語であることに疑問が湧き、ウクライナの母国語や文化面での独立を意識するようになった。 ウクライナが軍事面でロシアに抵抗している今こそ、文化面でもロシアから独立しようとする機運が高まっているという。知識層の間では「Decolonize(脱植民地化)」や「Desovietise(非ソビエト化)」などと呼ばれている動きだ。 例えば(世界三大美術館の一つ)メトロポリタン美術館では、より正確にラベルづけをしようと、アーティスト・プロフィールの精査が進められている。 「実際に、これまでロシア人として分類されていた3人のアーティストがウクライナ人アーティストとして修正されたところです」(ドロシェンコ氏) ウクライナ表記に修正された芸術家は、19世紀に活躍したイヴァン・アイヴァゾフスキー(Ivan Aivazovsky)、アルヒープ・クインジ(Arkhyp Kuindzhi)、イリヤ・レーピン(Ilya Repin)だ。 米誌アートニュース(ARTnews)もこのように伝える。 「例えば、クインジが生まれたロシア帝国の一部は現在ウクライナのマリウポリ市だ。元ロシアのチュフイフ生まれのレーピンも、現在はウクライナのアーティストと見なされている。ロシア帝国の一部だったクリミアのフェオドシヤで生まれたアイヴァゾフスキーについては、2014年のロシアによるクリミア併合後、両国が『自国のアーティスト』と主張し合った(家族はアルメニア人のため、アルメニア国立美術館は彼をアルメニア人と呼んでいる)。しかしアート界の新たな解釈ではアイヴァゾフスキーもロシア人ではなくウクライナ人と見なされている」 この動きは現在世界のアートシーンで起こっている。ロンドンのナショナル・ギャラリーでも、エドガー・ドガの描いた『Russian Dancers』(ロシアの踊り子、1899年)が以前はロシア人ダンサーとされていたが、今はウクライナ人として『Ukrainian Dancers』に変更されているという。 「多様化が進む現代社会では、さまざまな地域や性的マイノリティの人々が自身のアイデンティティを表明している。我がウクライナにとっても戦いが止まず厳しい時期だが、同時に変化の時期でもある。願わくは、このようなアートシーンの動きがほかの文化の分野でも『脱植民地化』の第一歩になれば嬉しい」 登壇者らは未だ終わりが見えない暗闇の中で、ひと滴の希望を示した。 NYとウクライナ関連記事 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

アメリカ人にとって日本軍の「真珠湾攻撃」の記憶とは? ゼレンスキー大統領の演説引用の背景を探る

戦時下において、オンライン演説を主要各国で精力的に行っているウクライナのゼレンスキー大統領。日本での国会演説はフランスと同じ本日、日本時間23日に行われる。 同大統領が各国にさらなる支援を求めることについて、日本では快く受け入れられないという声も一部で上がっている。事の発端は16日、同大統領がアメリカ連邦議会で「空からの攻撃で罪のない市民が殺されたことを思い出してほしい」と訴えながら、真珠湾攻撃(1941年)を事例として取り上げたことだ。 日本の立場からすると、米議会という重要な場で81年前の歴史を不意に持ち出された形となった。しかも大勢の民間人の犠牲者を出しているロシアの武力侵攻やテロリストによる9.11同時多発テロ(2001年)と照らし合わされた印象もある。同大統領は先週、ドイツ連邦議会での演説でドイツを批判した。今日午後6時からの国会演説ではどのような主張となるだろうか。 アメリカ向けの演説で、なぜ真珠湾攻撃の記憶が織り込まれたかについては、筆者なりに分析したのでこちらも参照してほしい。 オーサーコメント 本稿では今一度冷静になって、アメリカ人にとっての真珠湾攻撃とは何を指すのか考えたい。80年以上の時が経過してもなぜ人々の心に刺さる記憶のままなのか、またその記憶が蘇ることでどのようにウクライナへの共感につながったのかについても考察してみたい。 ゼレンスキー大統領が「共感」を呼んだポイント まずは米議会でのスピーチを振り返る。ゼレンスキー大統領は冒頭で、このような趣旨の発言をした。 「ここ首都キエフは毎日、ロシア軍から空爆を受けている。しかし我々は最後まで諦めない」「ロシアの侵略に長年抵抗してきたウクライナの自由を愛する人々を代表し、このような機会を持つことができ光栄だ」 同大統領は、アメリカ人が建国史上もっとも大切にしている信条「民主主義、独立、自由」を取り上げ、「我々も同じことを望んでいる」と言ってウクライナ人にとっての理想郷を結び付けた。その上で、旧日本軍による真珠湾攻撃のエピソードが続く。 「1941年12月7日、空爆により空が真っ暗になった朝を思い出してほしい。そして2001年9月11日、領土が戦場と化し罪のない人々が攻撃されたあの日を」 「空からの恐怖」をもっとも想起させる事例を巧みに取り上げながら「我が国は毎日同じ状況だ」と述べ、あの場の議員や中継を聞いた米国民の「心」に訴えた。彼らに、アメリカ建国史上稀に見る「やられたあの日」の記憶が鮮明に蘇ったのは言うまでもない。 これらの共感を呼んだのは議会の場だけではない。バイデン大統領も演説を受け、ゼレンスキー大統領の要求に対して、迅速に対応した。 アメリカ人視点で「真珠湾攻撃」を考えてみる そもそもの話だが、真珠湾攻撃は今を生きる多くのアメリカ人にとって、日本人同様に「生まれる前の遠い昔の出来事」であることに変わりない。 それでも、学校の歴史の授業で学んできたり、自分で調べたという興味がある人の知識量の豊富さに驚くこともある。 しかし、アメリカ在住の筆者が日本人であることで過去の大戦がらみの話題を振られたり、嫌な思いをした経験は、実は1度もない。 では実際に大戦を戦ってきた世代の人々の反応はどうだろうか。(あくまで筆者が体験した限りの話ではあるが)結論から言えば、退役軍人からも、真珠湾攻撃を含む戦時下の重い話を振られたことは一度もない。逆に筆者は、そのような人々から温かく迎え入れられたエピソードしかない。 例えとしてエピソードの1つは1990年、親友の祖父母の住むアパートを訪れた時のこと。無口なおじいさんは第二次世界大戦の退役軍人だった。当時夏休みを利用し渡米した筆者を夫妻は歓迎し、戦後日本から持ち帰ったという紙幣(硬貨だったかもしれない)のコレクションを倉庫から持ってきて見せてくれた記憶がある。祖母にあたるおばあさんも穏やかで優しい人で、訪れるたびにいつも美味しいピザを用意してくれる。おじいさんは数年前に大往生で他界したが、おばあさんは90歳を過ぎた今も健在だ。 別のエピソードは、オハイオ州の親友の祖母(数年前に90代前半で他界)について。彼女も戦時中、夫を戦地へ送り出した女性の1人だ。筆者との初対面に先立ち、日本人であることを告げられたおばあさんの反応は、友人曰く「あら、と少し心配そうな表情を浮かべた」そうだ。しかし初対面で会った彼女は温かいハグで迎えいれてくれ感激したものだ。共に過ごした短い時間の中で、彼女の心の奥底にあったであろう日本人へのわだかまりは、微塵も感じなかった。 戦地に夫を送り出した女性の多くは夫の不在時の家庭を守るために、J・ハワード・ミラーのポスター(We Can Do It!)のイメージよろしく芯の強い女性と言えるかもしれないが、どちらの祖母も筆者にとっては「優しく穏やかな心の広いおばあちゃん」という印象しか残っていない。 ただし、年代によって体験してきたことは大きく異なる。筆者が最近取材をした戦中生まれの日系人、古本武司さんは幼少時、日本人というだけで蔑称で呼ばれたり、毎年12月に真珠湾攻撃のことを友人に持ち出されたりして、いじめられてきたという。 なぜ人々はパールハーバー(真珠湾攻撃)を忘れないのか? アメリカの人々のメンタリティをもっと知るためのものとして、ここに適当な記事がある。 2016年のワシントンポストのThe attack on Pearl Harbor united Americans like no other event in our history(真珠湾攻撃は、アメリカ史で、ほかに類を見ないほど人々を団結させた)は、興味深い。 米西戦争、第一次世界大戦、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争などアメリカが戦ってきた戦争を引き合いに出し、「これらの戦争に対してアメリカ市民の世論は、指示派と反対派の真っ二つに割れた」という。 一方、太平洋戦争は違った。 「240年以上の歴史で、アメリカが真に団結したのが2度だけある」とし、ここでも真珠湾攻撃と9.11同時多発テロを取り上げている。記事は、同時多発テロ後の一致団結は一時的なものだったとある。「対テロ戦争の国内外の政策に関して世論は分断し、団結は忘れ去られた。そして未だに中東問題について議論がされ続けている(終わっていない)」。 「アメリカをもっとも一致団結させた」のがもう一方の、真珠湾攻撃の方だった。国民の士気を鼓舞し、人々はいっせいに立ち上がった。団結の機運は長期間高まったという。 1941年12月7日夜、当時のルーズベルト大統領のエレノア夫人が、全米ラジオ放送を通じて行った国民への呼びかけも引用された。「私たちは他人を助け、安心感を与えるため、求められることを何でもしなければならない。我々は達成できるだろう。我々は自由であり、決して(敵が)征服することができないアメリカ合衆国の人々だ」と訴えた。 真珠湾攻撃が起こる前、本土から遠く離れたこのハワイという小さな島についてはほとんど周知されていなかったそうだ。また陸海軍共に志願者は多くはなかったが、攻撃後は志願者が殺到したという。「​​ある街では、ほんの数時間で600人が入隊を志願した例もあった」 攻撃から3日後のニューヨークタイムズ紙も「陸海空軍、海兵隊、沿岸警備隊共に数千人の入隊希望者で溢れ、その数はこれまでの記録を打ち破った」と報じた。このように人々の士気の高まりが尋常ではなかったことを窺い知ることができる。 いっせいに立ち上がった国民。誰に命令されたわけでもなく国を守り抜くために自ら入隊した勇敢な兵士たち。すべては「民主主義、独立、自由」のために。記事自体は数年前のものだが、これらの記述は現在置かれているウクライナの状況と重なるものがある。 リサーチセンターのモダン・ウォー・インスティテュートが昨年12月に発信したWHY DOES AMERICA REMEMBER PEARL HARBOR?(アメリカが真珠湾を覚えているのはなぜか?)も、真珠湾攻撃にまつわるアメリカ人の深層部分を探る手がかりになりそうだ。…

今週だけで一千億円! ゼレンスキー大統領の米議会演説後スピード発表の「莫大な追加支援」

ウクライナのゼレンスキー大統領は16日、アメリカの連邦議会でオンライン演説を行った。1日に欧州連合(EU)、8日にイギリス、15日にカナダの議会でもオンラインで演説をし、ウクライナへの更なる援助を求めてきた。日本の国会での演説も打診中であると伝えられている。 ゼレンスキー大統領は米連邦議会で、真珠湾攻撃(1941年)や同時多発テロ(2001年)といった過去にアメリカが受けた空からの壊滅的な攻撃を引用し、ウクライナ上空の飛行禁止区域の設定や、戦闘機の追加支援などを米国議会に求めた。 筆者によるオーサーコメント またバイデン大統領に対しては「世界平和のリーダーになってほしい」と呼びかけた。 ホワイトハウスのプライベート・レジデンス(私邸)で演説を聞いていたというバイデン大統領は、演説から4時間後の同日午後1時過ぎより、記者団に対してこのように発表した。 「説得力のある重要な内容だった。情熱的なメッセージに感謝したい」 「世界はウクライナへの支援と、プーチンに多大なる代償を払わせるという決意で団結している」 バイデン大統領によると、アメリカがウクライナへの支援を開始したのは昨年3月。ロシア軍がウクライナ国境沿いで軍事演習を開始したため、6億5000万ドル(約773億円)分の対空装備を含む兵器などを支援した。この支援金額はかつてアメリカが提供してきたものをはるかに超えるものだ。「したがってロシアによる武力侵攻が始まった際、ウクライナはすでに対抗するために必要な武器を備えていた」と、バイデン大統領は述べた。 そして今年2月の戦争開始と共に、ウクライナが求める対空システムや輸送用ヘリコプターなどのため、3億5000万ドル(約416億円)分の追加支援を行ったことも明かした。「これらの支援によりウクライナ軍が、ロシア軍からの壊滅的な損失を(最小限に)防ぐことができた」。 さらに今月12日、バイデン政権は2億ドル(約238億円)を承認したばかりだったが、今回のゼレンスキー大統領による演説後、8億ドル(約950億円)を新たに拠出するとした。 つまり今週(の発表)だけでも、アメリカがウクライナに対して提供する安全保障支援装備への総額は、10億ドル(約1190億円)相当に上る。 また、ウクライナが求める武器や対空システムのほかに、3億ドル(約357億円)分の食料や水、医薬品などといった人道支援も行い、この数週間でウクライナと周辺諸国の人々に提供されてきたという。 バイデン大統領は、ゼレンスキー大統領が求めたウクライナ上空の飛行禁止区域の設定について言及しなかったものの、新たに拠出する支援には、空からの攻撃に対抗する800の対空システムなどが含まれており、「民間人を攻撃している戦闘機やヘリコプターを制御し、ウクライナの空域を守ることができる」と述べた。 Text by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止