NY「ワクチン接種義務化」が強化。飲食店〜公務員〜民間企業や子どもまで。市民の反応は?

新型コロナの変異ウイルス、オミクロン株の拡大により、ニューヨーク州では1日の新規感染者数がかつてないほど急増しており、27日は4万人を超えた。入院が必要なほどの重症患者数も昨春ほどではないが、それでも前日より647人増えて6173人(27日)と急増中だ。 そんな中ニューヨーク市では27日、すべての民間企業およそ18万4000社を対象に、ワクチン接種の義務化がスタートした。 市ではこれまでも公務員に対して、また屋内飲食や屋外アクティビティの利用者(今月14日以降は子どもも対象に。5〜11歳は1回以上接種し、27日以降は、12歳以上は接種「完了」していなければならない)に対しても、ワクチン接種義務化を推し進めてきたが、ここに来て民間企業の従業員に対しても義務化を設定した形だ。いわゆる(国民皆保険ならぬ)「市民皆ワクチン」のムーブメントの一環である。 この政策の通り、市内ではレストランの屋内やジム、映画館、博物館などの屋内アクティビティ、イベントの利用時において、入り口などでワクチン接種証明書の提示を「必ず」求められる。「当店は大丈夫です」なんていう店は存在しない。ここ最近は一般企業の訪問時や筆者の場合は取材時にも、企業の裁量において接種証明書の提示を求められるようにもなってきた。つまり今この街で、ワクチン接種証明書がなければ、ほとんどの屋内活動や業務が制限されるような状態だ。 市の資料によると27日以降、市内の一般企業で働く全従業員は、少なくとも1回(45日以内に2回目)のワクチン接種をしていなければ、そこで働くことは認められない。民間企業の代表者は必要な書類に署名し、職場の「誰もが見える場所」に掲示する必要がある。このような接種義務化の措置は、いずれも全米の自治体で初ということだ。 市内で会社を経営したり代表を務める人に話を聞いたが、この政策に対して「会社として、社員に対してそこまでの強制や締め付けは難しい」「ワクチンを打ってほしいのは理解できるが、このように民間企業を巻き込まないでほしい」というような驚きや戸惑いの声が聞こえてきた。また中には「在宅勤務を続けているので、詳しい情報が入ってきていない」という声もある。 これまで市内の飲食店で行われてきたようなことが、今後は一般企業でも起こる。検査官がオフィスや店舗に抜き打ちで訪問し、違反が見られる場合、初回の罰金1000ドル(11万円相当)が企業側に科されるという。 一方、デブラシオ市長は27日の会見で「企業側に違反が見られる場合、まず指導や通達から行う」と発表した。「きっぱり拒否でもされない限り、罰金をいきなり徴収することはほとんどない」と、線引きについてやや「曖昧な」説明に終始した。 また肝心のデブラシオ市長だがその任期は今年いっぱいであり、あと数日間しかないタイミングで発令された。来年1月1日に新たに就任するエリック・アダムス次期市長は、デブラシオ市長のこの政策を継続するか否かについては言及していない。これについても、民間企業の代表者や従業員からは「今後がいまいち見えてこない」「市は政策の方向性について、迷走しているのではないか」という声も聞こえてきた。 過去記事 オミクロン株、米上陸も時間の問題…心配をよそにNY次期市長が「アフリカ家族旅行」で物議 米国2例目のオミクロン株確認のアニメイベントを取材。「濃厚接触者」候補になってしまった時の話 NYワクチン接種義務に抗議。義務化初日に休職の市職員9千人が都市に及ぼす影響 米入国にワクチン接種義務化。健康上の理由で接種できない人は今後どうなる?… 専門家に聞いた 入国は「ワクチン接種者のみ」……どうなる?海外旅行。(フィガロ) NY屋内活動に「ワクチン接種証明」義務づけ 全米初の試みが始まったが・・・街の様子は 全米の4人に1人が「ワクチン打たない」反ワクチン運動や職場訴訟も(動画あり) 米「ワクチン接種でマスク不要」 NY中心地のマスク率は? 街の人の声は? Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

海を越え愛され続けるNYの「リトル日本」。思わず息を呑む「ホリデー仕様の絶景」に地元民の反応は

ニューヨークのブルックリン区にあるブルックリン植物園(Brooklyn Botanic Garden)。52エーカー(約21万平方メートル)の広大な敷地には、在住者なら誰もが知る「日本庭園」(Japanese Hill-and-Pond Garden)が併設されている。 この植物園が桜の名所でもあることから毎年春になると「桜祭り」(Sakura Maturi)が開かれ、日本のポップカルチャーファンが着物やコスプレ姿で集まる。ここはいわばニューヨークの「リトル日本」であり、在住日本人にとって心のオアシスのような存在だ。 当地の長く厳しい冬季は、植物が枯れてしまい、日本庭園も注目を集めることはそれほどない。しかし今年は、同植物園で光と音楽の装飾イベント「Lightscape at Brooklyn Botanic Garden」がホリデーシーズンの11月19日から来年1月9日まで開催されている。 日暮れと共に園内の明かりが灯りはじめ、周辺の植物やオブジェが煌びやかにライトアップされ、いつもとは違った顔を見せている。春と秋には桜や紅葉で彩られる日本庭園も、期間中はホリデー仕様だ。 106歳、NYの日本庭園 Japanese Hill-and-Pond Gardenは、アメリカに現存する中でも歴史が長くもっとも人々が足を運ぶ日本庭園の1つとされている。1907年に渡米した造園家の塩田武雄氏が手がけ、1915年に開園した。同植物園によると、当時日本式の庭園が流行し、美術館やホテル、裕福な人々の住宅の庭などに、その美的センスが取り入れられたという。 これまで火事が発生したり、第二次世界大戦下で一時閉鎖されたりするなど苦難の時期もあったが、戦後は日系アメリカ人の庭師、フランク・オカムラ氏が庭園の修復や手入れをし、1世紀以上経った今も地元の人々に愛され続けている。 この日本庭園もホリデーライティング用にお色直しをされているわけだが、神社、鳥居、橋、石灯篭などに装飾が施されている訳ではない。これは植物園サイドからの日本文化に対する最大の敬意であろう。煌びやかにライトアップされているのは周囲の樹木や歩道、池などで、それらのイルミネーションが朱色の鳥居をダイナミックに魅せている。特に夕暮れ時は、夕日のバックグラウンドと相俟って思わず息を呑むほど美しい。来園者の多くがまずここで歩を止め、幻想的な景色に見入っていた。 イルミネーションを見るために訪れた近所に住む女性は、「毎年春の時期に日本の祭りを楽しみに来園するけど、今の時期にこのような神秘的な日本庭園を見たのは初めて」と、うっとりしながらケータイで写真を撮っていた。日本を訪れたことがあるという男性は「ニューヨークにいながらこんな素晴らしい光景を見られるのは嬉しい」と話した。 このホリデーイルミネーションではほかにも、全長1マイル(約1.6キロメートル)の遊歩道に続く10万個以上の電球による光のオブジェやポエムなどを楽しむことができる。 これら枯れ木に「光の花」を咲かせたデザインは国外から地元までさまざまなアーティストや詩人らがクリエートしたもので、イギリスに拠点を置くカルチャークリエイティブ社(Culture Creative)が1つのライトスケープ作品として仕上げた。 植物園の担当者によると、「ライトショーとしてはニューヨーク市内で最大のもの」で、同植物園が行うのも初めての試みだとか。まだコロナ禍の最中だが、巣篭もりしがちなこの季節に「人々に外に出るきっかけとなるような、そしてこれまで当園に足を運ぶことのなかった人々への訴求にもなるような『ワォ』と思わず声を上げる真冬の目玉アトラクションとして計画に3年の年月を費やし、満を辞して今年やっとお披露目が叶いました」。 当地にはほかにも、世界一有名と言われるロックフェラーセンターのクリスマスツリーが今月1日から点灯され、多くの観光客が足を運んでいる。アメリカ最大のイベント、クリスマスを今週に控え、ニューヨークはホリデームードが一層高まっている。 * 筆者が撮影した光と音楽の装飾イベント「Lightscape at Brooklyn Botanic Garden」の動画 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

東京五輪女王が再V 意外なセレブも参加!NYCマラソン50周年記念大会(動画あり)

美しく気持ちの良い秋空の下、第50回目となる記念すべき「2021年TCSニューヨークシティマラソン」が11月7日、ニューヨーク市内で開催された。 このマラソン大会は毎年11月の第一日曜日に行われているもので、スタテンアイランドをスタートし、ゴール地点のマンハッタンまで市内5つ、すべての区を走るルートが特徴だ。昨年は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、初の中止を余儀無くされたため、今年は2年ぶりの開催となった。 公式ウェブサイトによると、今年の参加ランナーは世界中から集まった3万3000人の選手だった。また観客は、毎年100万人規模の市民が沿道に集まる。2年ぶりとあり、多くの人が今大会を楽しみにしていたようで、選手に声援を送り鼓舞激励した。 女子勝者は、東京五輪の金メダリスト 今大会の優勝者は、プロ男子の部がAlbert Korir(アルバート・コリル)選手でタイムは2時間08分22秒、プロ女子の部はPeres Jepchirchir(ペレス・ジェプチルチル)選手でタイムは2時間22分39秒と、共にケニア勢が独占した。 ケニアと言えば、今年の東京オリンピックのマラソン競技でも男女共に金メダルを獲得しマラソン強国として知られる。特にジェプチルチル選手は、東京オリンピックで金メダルを獲得しており、今大会で再Vとなった。 車椅子プロ男子はマルセル・ハグ(Marcel Hug)選手、同プロ女子はマディソン・デ・ロザリオ(Madison de Rozario)選手が共に勝利した。 また、ほとんどの観客はその存在に気づかなかったが、ほかにも意外なセレブやプロスポーツ選手も参加した。 ニューヨークタイムズによると、クリントン元大統領の長女のチェルシー・クリントン(Chelsea Clinton)氏(写真上)を始め、プロ女子サッカー、アビー・ワムバック(Abby Wambach)元選手(写真下)、ローレン・ホリデー(Lauren Holiday)元選手、レスリー・オズボーン(Leslie Osborne)元選手、レーシングドライバーのライアン・ブリスコー(Ryan Briscoe)選手、スーパーモデルのクリスティー・ターリントン(Christy Turlington)氏、俳優のケニー・オハラ(Kelli O’Hara)氏ら、数多くの有名人も完走した。 筆者がブルックリン(スタートから15kmの地点)で撮影した動画。 50th Anniversary of NYC Marathon 第50回ニューヨークシティマラソン ランナーが多過ぎて、1人の有名人も見つけられず…。日本からも富安央選手、山口遥選手、車椅子の渡辺勝選手らが出場したが分からなかった。近くの人は友人でさえ見つけるのに苦労していた。 ほかに今大会では、ある男性ランナーも話題になった。 ラリー・トラックテンバーグ(Larry Trachtenberg)氏は16歳だった1970年9月、同大会の記念すべき初回に参加し完走した55人のうちの1人だ。67歳となった彼は50周年の記念すべき今大会で再チャレンジし、走り切った。 現在西海岸に住んでいるトラックテンバーグさんだが、住み慣れた故郷を幼少期の思い出と共に走り抜け、感慨もひとしおだったようだ。50年前と今大会を比較し、米メディアにこのように語った。「昔はこぢんまりとした静かな大会だったが、今ではすっかり一大ショーになったね」。 今大会の盛り上がりはすっかりコロナ前に元通り、「アフターコロナ」のスポーツ世界大会の様相だった。ニューヨーク州内では前日の6日時点で新規陽性者が未だ1日4600人を超えているが、屋外ということもあり観客の中にマスクをしている人はほとんどいなかった。 仮装姿の人、自国の旗を振っている人、音楽のリズムに乗って楽しそうに踊りながら走っている人、高齢で足を引きずりながら(人によっては杖をつきながら)それでも歩を進め続ける人…。2年ぶりに見たさまざまなランナーの勇姿に、再び元気とエネルギーを与えてもらった。 Text, photo and video by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

クリスチャン・ディオール展@ブルックリン美術館 Christian Dior: Designer of Dreams

クリスチャン・ディオールをテーマにした展覧会、Christian Dior: Designer of Dreams (クリスチャン・ディオール:夢のデザイナー)がいよいよ9月10日から来年2月20日まで、ニューヨークのブルックリン美術館で開催されます。 1957年に52歳の若さで亡くなったディオール氏ですが、生前、様々な名作を世に残しました。パリでブランドを設立した当初からアメリカ(ニューヨーク)への華やかな上陸時の歴史、ディオールの後継者(イヴ・サンローラン、ジョン・ガリアーノなど)の作品、セレブがアカデミーなどで着用した衣装など、ディオールがファッション界に築いたあらゆるレガシーが展示され、見応えたっぷり。 素人が見ても明らかに違うハイファッションの上質な生地、計算高く精巧に作られたシルエットと仕立て、細やかな刺繍が目を引きました。明らかにファストファッションとは一線を画します。 同展はパリを皮切りに、上海、ロンドンでも開催されています。以前、ロンドン展も見たというフランスのTV関係者は、「ロンドンより規模は縮小されていたが、ニューヨークのみの展示もあって、素晴らしかった」と言っていました。 コロナ禍で久しくなかったプレスプレビューもこうやって再開。おしゃれなマダム、マドモアゼルっぽい人も多かったです。 入場は時間予約制で、12歳以上の来場者はワクチン接種証明とIDの提示が求められる。 Christian Dior: Designer of Dreams2021年9月10日(金)〜2022年2月20日(日)Brooklyn Museum, Beaux-Arts Court, 3rd Fl.200 Eastern Parkway, Brooklyn NY Tickets  $25

「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。© Kasumi Abe 水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。 私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。 ブルックリンブルワリー(Brooklyn Brewery)とは? 全米はもとより、日本や北欧でも流通するニューヨーク発の地ビール。創業は1987年。戦場ジャーナリストだったスティーブ・ヒンディ(Steve Hindy)が、中東特派員を終え帰国後、自宅キッチンで趣味のビール作りをしたことが始まり。クラフトビールという概念はここから始まったと言っても過言ではない。 (以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容) 80年代、戦場を駆け抜けた 私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。 それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。 妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。 最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。 そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。 翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。 振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。 ビール作りは自宅キッチンから そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。 当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。 それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。 治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業 ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。 その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。 しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。 ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。 今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今では60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう? 世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話 ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。 だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。 私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムを手がけたミルトン・グレイザーでした。 早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。 ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです! ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。 《誕生》「クラフトビール?何それ?」 ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。 クラフトビールとは? 当初、小規模のビール会社はマイクロブルワリーと呼ばれていた。American Homebrewers Associationが発行する雑誌で、コロラド在住のITライターが「ブルワリーはまるでマイクロプロセッサーのようだ」と表現したのがきっかけ。その後、スティーブが06年より会長を務め、現在は取締役会のメンバー、Brewers Associationでクラフトビールという言葉を使うようになった。 「我々が『クラフトビール』と名付け定義化することで、小規模のブルワリーの販売を促進しようとしたのです。生産量が年間600万バレル以下で、独立企業でかつ大手により25%以上の株シェアを持たせない、そして醸造免許を保持している──これらを満たせばクラフトビールと呼んでいいのです」 日本でクラフトビール、いつから聞くように? 過去30年以上の日本全国の新聞記事(約150紙)を一括検索できる「G-Searchデータベース」によると、クラフトビールという言葉の新聞掲載数は、2000年代初頭には年間15件、10年には35件、11年には99件。12年に入って3桁台の260件、13年には502件。14年に入って4桁台の1198件で昨年1年間では2167件。 《衰退から復活まで》資金が底尽き、二足の草鞋 91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。 事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。 ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。 ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。 ビジネスを成功させる秘訣とは?…

053 スターシェフによるブルックリンの名イタリアン「Misi」

以前このコラムでも紹介した、ミシュランガイド・ニューヨーク版の二つ星を毎年獲得している「Aska」など、ブルックリンのサウスウィリアムズバーグは近年、さまざまな名店が集まる、フーディーたちに注目のエリアです。 手打ちパスタルームがお出迎え 「Misi」を訪れると、広くて清潔感のあるパスタルーム(手作りパスタ作業場)で職人が作業をしている様子が全面ガラスからうかがえ、胸が高鳴ります。ここは作業場のみならず、24人までのプライベートディナーにも使えるスペースです。 お店の中は白と黒の2色と木目調が基調の、シンプルで洗練された北欧風のインテリア。調理場がオープンキッチンになっていて、シェフたちがすぐそばで働いている様子もうかがえ、活気が伝わってきます。 名店リリアの姉妹店 なぜこの店が人気で、予約が取りづらいのかと言うと、オーナー&シェフがミッシー・ロビンズさんだからです。ミッシーさんは、料理界のアカデミー賞と言われるジェームズ・ビアード財団賞など、数々の受賞歴があり、彼女が2016年に最初に手掛けた店は、ニューヨークタイムズ紙により三つ星レストランに選ばれた、同じくブルックリンの「Lilia」です。「Misi」はそれに続く2軒目のイタリアンレストラン&バーとして、18年9月にオープンしました。 ミッシーさんは、以前シカゴにあるイタリア料理の名店「Spiaggia」で2003年から5年間、エグゼクティブシェフとして調理場に立ってきました。 その後ニューヨークに戻り、「A Voce Madison」と「A Voce Columbus」のエグゼクティブシェフとなり、在職中はずっとミシュラン星を獲得。10年には、『フード&ワイン誌』の「ベスト・ニューシェフ」の1人として選ばれています。 「『Misi』のシグネチャーフードは、パスタ料理に加え、季節の野菜を使った料理です」と広報のエレノア・メイヤーさん。人気店なので、ゴールデンタイムを狙うなら早めの予約が良いでしょう。 [by Kasumi Abe and Evan Sung]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム 、安部かすみ(Brooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止

アルゼンチンの茶の湯、マテ茶専用カフェ「Porteñas Yerba Mate」in ニューヨーク

ブルックリンの街歩きでちょっと休憩したいとき、一風変わったカフェでお茶したいときはこちらがおすすめ。お店は、ウィリアムズバーグ地区にあるPorteñas Yerba Mate(ポルテニアス・イェルバ・マテ)。 ここでは、アルゼンチン人にとっての茶の湯、イエルバ・マテ茶をいただけます。専用カップ、Gourd(ゴード、グァンパ、写真上)で飲むのですが、下に行くほど苦味とコクがあって美味しいのです。 上品な甘みのイエルバ・マテ茶クリームブリュレとの相性もgood! 2020年2月に発売されたばかりの新商品、イェルバ・マテ茶入り(砂糖不使用)の栄養系フルーツジュース(5〜8ドル)。朝のエネルギー補給や肉料理ばかりが続いたときなどに飲んでみてください。 過去記事はこちら [All photos by Kasumi Abe and Porteñas Yerba Mate]All images and text are copyrighted. 本稿はTabizineに寄稿したものを一部加筆修正したもの。無断転載禁止

051ファッショニスタに支持されるブルックリンの古着屋「Antoinette Brooklyn」

上質の「一点モノ」が見つかる! 「元気〜?」と近所の人々が次々に訪れ、オーナーのレキシィにあいさつします。2011年のオープンから9年。「(常連の)彼女は子供の頃から知っていて、親のような気持ちよ」とレキシィ。 世界中のファッショニスタに支持される「Antoinette Brooklyn」では、何十年も前に生産されたアルマーニ、ヴァレンティノ、ミッソーニ、バーバリー、アン・クラインなど、質と価値の高い1点モノの衣類や小物が並びます。 バイヤーでもある彼女の審美眼でセレクトされるのは、1940年代モノから98年モノまで。彼女いわく「ヴィンテージの定義には最低20年必要」で、2000年モノも入りそうですが、98年までと決めているのは訳があります。「ファストファッションは買わないの」。 おおよそ90年代後期から世界中に拡大していったファストファッションですが、環境に与える汚染問題や生産地の劣悪な労働環境は深刻です。「中国で大量生産された衣類は繊維の質が悪いから、すぐ毛玉ができて耐久性がないの。それ以前のアメリカ産の衣類は毛玉などできなかった」。確かにそうですね! 目からうろこでした。 接客中によく聞こえてくるのは「これは日本のデザイナーによるものよ」という会話。日本ブランドも彼女に認められています。 セレブの来店も多い 彼女は以前GAPジャパンで働いていたこともあり、日本が好きで、スタッフも日本人です。HBOのドラマ『ザ・デウス』の衣装スタッフが番組用に、また有名ブランドのデザイナーが昔のデザインを参考にするために、購入したりするそうです。 「日本人の顧客も多いわよ。ローラさん、米倉涼子さん、大島美幸さん、舟山久美子さん、松岡モナさん、植野有砂さんたちも来てくれたわ」 招き猫の影響は絶大のようですね! [by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム 、安部かすみ(Brooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止