強制収容所生まれ、被爆後の広島育ち、ベトナム戦でPTSD ─ 日系人・古本武司が伝えたいこと(前編)

【日系人強制収容から80年】 アメリカでは80年前の1942å¹´2月19日、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領によって「大統領令9066号」(Executive Order 9066)が発令された。 旧日本海軍による真珠湾攻撃から約2ヵ月というタイミングでの発令で、主に西海岸に住むすべての日系アメリカ人の強制収容所送りを意味した。 現在、ニュージャージー州で不動産会社「古本不動産」を営んで半世紀になる古本武司(Takeshi TAK Furumoto)さん(77)は、日系人の強制収容が始まった2年後の44年、カリフォルニア州の収容所内で誕生した。 その翌年に終戦を迎えて一家は日本に渡り、古本さんは原爆投下後の復興真っ只中にあった広島で育った。またアメリカ帰国後はベトナム戦争に出兵し最前線で戦うなど、彼の人生は常に戦争と共にあった。 日系人の強制収容が始まって80年となるこの節目に、古本さんが伝えておきたいこととは? 以下、古本武司氏のインタビュー内容 家族は10日猶予で収容所に入れられ、そこで私は生まれた 私は1944å¹´10月、カリフォルニア州トゥリーレイク強制収容所(Tule Lake internment camp)で生まれました。 2019年から翌年にかけて、日系人の妻と共にマンザナー強制収容所(Manzanar War Relocation Center)跡地や、トゥリーレイク収容所の歴史を伝える施設などを巡礼しました。家族が入れられたのは個室などがないバラック(小屋)で、プライベートを確保するには布をかけて仕切りを作らなければならず、共同便所も動物が入れられるケージのような狭さ。そのような劣悪な環境を目の当たりにしてきました。私はそんな中で誕生したのです。 もともと古本家とアメリカとの関係は、20世紀初頭に遡ります。父、清人(キヨト)の両親(私にとっての祖父母)が1911年、カリフォルニア州サクラメントのいちご畑で働くために渡米したことから始まります。 父は4人きょうだいの長男でした。父の両親は当時まだ小さかった父を地元・広島に残し、先に渡米しました。そして生活の基盤が整い、父も1921年に1人で渡米し、家族と合流しました。 しかしスペイン風邪(1世紀前のパンデミック)が終息したタイミングでしたから景気が悪く、父は長男として相当苦労してきました。当時彼はまだ13歳で、農作業に加え、ブランケットを担いで行商をしながら生計を支えていたようです。 その甲斐あって父は成功し、オカ・プロデュース(OKA Produce)という野菜の卸し会社を共同創業するまでになり、26人を雇うほどの事業に育て上げています。 しかし41å¹´12月の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まり、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナなど西海岸および一部ハワイに住んでいた12万人の無実の日系アメリカ人は全財産を没収され、適正手続きもなく10日間のノーティス(猶予)で、強制的に収容所送りとなりました。 想像してみてほしい。 あなたが「日本人」というだけで、今ある自宅や事業、全財産を突然没収され、収容所に強制的に送られたら? いつ解放されるかもわからないまま、塀の中での生活を強いられ続けたら? 大統領令9066号の発令に収容所施設の建設は追いつかず、はじめは臨時の収容所としてカリフォルニア州の競馬場に半年間入れられました。そして42年秋にアーカンソー州の収容所が完成し、そこに移されました。 翌43年、収容者たちはアメリカに対してどれほど忠誠心を持っているかの質問、ロイヤリティクエスチョンを受けます。その中にはこのような質問もありました。 「米兵に志願するか?」 「天皇への忠誠心を捨てるか?」 大多数の人は嘘をついてでも「Yes, Yes」と答えたが、4人の子の父だった親父は、「米軍には入らない」、「天皇陛下への忠誠心を捨てることはできない」と返答。このように「No, No」と返事したのは収容者12万人中の1割だったそうです。そして私の家族を含むその1割の人が、過酷な環境のトゥリーレイク収容所に入れられました。私が生まれたのはその翌年です。 戦後、私の両親など収容所生活を経験した1世や2世の人たちは、当時の話を子どもにしませんでした。辛い時代のことをわざわざ思い出したくないですから。4人の姉は子ども時代の収容所の記憶を、大人になって私にちょこちょこ話してくれました。 私がこの歴史にもっと関与し始めたのは、5年前トランプ政権が誕生する少し前からです。トランプ氏はムスリム系アメリカ人に対して入国禁止令を発令するなど、当時の日系人に対して行ったことと同じことを政策に掲げました。これがきっかけになり、私は跡地を訪問して自分でも本格的に調べ、語り部として伝えていく活動を始めました。 原爆投下後の広島で過ごした幼少期 1945å¹´8月、広島と長崎に原爆が投下され日本が降伏し、太平洋戦争が終わりました。 収容所から出て自由の身となった私の一家はポートランドから横須賀まで、最大5000人収容の大型船(USS General Gordon)で、同年12月から1ヵ月かけて渡航し、両親の地元・広島に戻りました。私が1æ­³2ヵ月の時です。 お袋の実家があるのは、爆心地から1.5マイル(2.5km)弱の所でしたから「今帰ってくると大変だ」と反対されたようですが、両親の帰国の意思は固かったようです。長男だった親父には「復興で大変な親の面倒を自分が看なければ」という強い責任感があったのでしょう。4人の姉も収容所で日本語、日本史、日本の歌まで学んでいたので、日本に帰りたいという気持ちが増したようです。 ただし、焼け野原となった広島での生活は、家族にとって苦労の連続でした。 私は、親父の実家がある広島の西原(安佐南区西原)で、11歳半(1956年)まで育ちました。 祖父母や叔父・叔母は、被爆者として健康手帳をもらっています。特にお袋側の叔父の火傷が酷くて、当時12歳の叔父は体の半分ほど大火傷を負いました。お袋から「絶対に火傷について触れないように」と口を酸っぱくして言われていたので、怪我や当時の状況について聞いたことはありません。 叔父のような人は広島にたくさんいました。お金がないからバレーボールの試合もユニフォームを作る代わりに、1つのチームはシャツを着て別のチームはシャツなしでやります。すると上半身に火傷の跡がある人や、指がない人などもよく見かけました。でも私は子どもだったし、あんまり気にしませんでした。社会科の授業で原爆ドームに行った時も、当時の私は興味深く学ぼうとも思わなかったです。 当時少年だった私に、復興の街・広島はどう映っていたか?ベトナムの路上とかで今でもよく見るような、品物を売るスタンドがたくさん出ていたのを覚えています。活気というよりサバイブな感じでしたね。生き残った者は皆、これからも生き続けないといけないわけだから、どんな状況でも頑張るしかなかったのです。 親父は実家の百姓(原文ママ)の仕事を手伝いながら、英語力を生かしてPX(進駐軍の基地内の売店)でシェフや運転手をしていました。食べるものがない時代でしたが、よくパンの売れ残りを持って帰ってくれました。家族や両親に苦労をかけたくないと、休みなく働いて苦労に苦労を重ね、私たちを育て上げてくれました。 10年ほどして広島での生活の基盤が整ったので、もう一度アメリカに戻ろうということになりました。親父は卸会社で一度成功しており、アメリカという国は一生懸命に頑張ればチャンスがあると知っていました。それで「家族全員で裸一貫でまた一から出直そう」となったのです。 ただし当時、日本に戻った大人はアメリカ市民権を自動的に剥奪されました。母方の祖父母はカリフォルニア州でメロン畑を営み、そこで生まれた日系2世のお袋までもが、市民権を非合法的に剥奪されたのです。 戦前〜戦後とはそういう時代です。アメリカで日本人は平気で差別され、非常に住みにくかったです。それ以前はセグリゲーション(分離)政策で有色人種の扱いはもっと酷く、白人と住む場所も学校も別で、土地も不動産も所有できず、インターナショナルマレッジ(異人種間結婚)も認められませんでした。ジョンソン政権下で人種差別に大分シビアになりましたが、そのような排斥の名残は、マーティン・ルーサー・キング牧師が68年に亡くなり、公民権運動が活発化するまで根強くありました。 それでも日本人は頑張って働いて、アメリカで一旗上げて儲けて日本に凱旋帰国する例がたくさんあり、父もアメリカンドリームをもう一度追い求めたいと思ったのです。 失った市民権をどうしたか?子どもは市民権を剥奪されなかったので、19歳の姉が1952年にまずアメリカに戻り、スポンサーになれる21歳、54年から家族を1人ずつ連れ戻し、その2年後にやっと全員がアメリカに揃いました。…