映画『ワース 命の値段』2/23日本全国公開(試写会でトークしました)

2001年9月11日、アメリカ各地で発生した同時多発テロ。 被害者遺族7000人を救うため、命に値段をつけるという難題と闘った弁護士の実話『ワース命の値段』。2月23日(木)、いよいよ日本全国で公開される。 筆者はオンライン試写で一足先に観せてもらい、またニューヨークの世界貿易センター跡地(グラウンドゼロ)で毎年遺族に取材をしていることで、今月15日東京・神楽座で行われた試写会でトークイベントにオンラインで登壇させてもらった。 トーク内容を考えている時、これまでお会いした遺族や、あの日をニューヨークで生き延びたニューヨーカーにお聞きした話や記憶を紐解いていった。 改めてこの同時多発テロの犠牲者2977人(日本人24人)について考えてみた。私たちは犠牲者を普段「数字の塊」で考えがちだが、この一人一人は一つ一つの命があり、あの日までそれぞれの人生を歩んでいた。 「一人一人の命に値段がつけられるのか?」 テーマがテーマだけに重く感じる部分もあったが、「人の命の値段」という考えもしなかったことを突きつけられた映画だった。この映画を観て改めて思ったのは、誠意の大切さだ。最後に人を動かすのは誠意なのだということ。 さらに私は、遺族との取材を通して決めたことがある。彼らは「また後でね」で大切な人と別れている。その話を聞いて、私は「自分の人生で大切な人とは喧嘩をしたまま別れない」ということを決めたのだった。そんなことを思い出しながら、犠牲者の命に値段を付けるというのはなかなかの難題だったなぁとも改めて思った。値段をつけられる側の心情も複雑だ。 ただ、セリフでもあったように「前に進むために」そうしなければならないことが世の中にはたくさんある。 9.11というと、遠い世界での出来事のように感じるかもしれないが、日本でも人それぞれのケースや事情で意見が分かれることがある。最近では国葬の是非やマスクをするかしないかなどだ。そして前に進むためには誰かがリードしていかないといけない。日本人もさまざまなシーンで「自分なら?」と問い「自分ごと」として考えることができる映画だ。 『ワース命の値段』が2月23日(木・祝) TOHOシネマズシャンテほか全国公開 監督:サラ・コランジェロ、脚本:マックス・ボレンスタイン、出演:マイケル・キートン、スタンリー・トゥッチ、エイミー・ライアン 2019年/アメリカ/英語/118分/シネスコ/カラー/5.1ch/原題:WORTH/日本語字幕:髙内朝子提供:ギャガ、ロングライド 配給:ロングライド Text by Kasumi Abe (ノアドット「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止

米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか

アメリカで同時多発テロ(9/11)が発生し、今年で21年目となる。2001年に生まれた人は21歳となり、テロ発生後生まれの人口も増えている。 年数が経過しても、今だこのテロ事件は尾を引いている。 21年目の主な動き: 9.11それぞれの記憶 ニューヨークに暮らす人々は、あの日どんな体験をし、何を感じたのか?21年目の9月11日に寄せて、今年もあの日を振り返ってもらった。 人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック モニカ・グリックさん(61歳、カトリック教布教組織 勤務 3歳だった末娘は今年24歳。あれから21年も経ったけど、あの日のことは今でもはっきり覚えています。 目を閉じると、すべての出来事がまるで昨日のことのように脳裏に浮かびます。助けに来てくれた息子の表情や髪型、ラップトップを抱えた煤(すす)のついた男性、南部訛りの警官……。 2001年9月11日、あれは火曜日の朝でした。 8時55分ごろ、いつものように最寄りの駅に到着し、勤務先に向かっていました。 まず思い出すのは、駅に着いて見上げた空です。「わ〜、今朝の空はなんて青いの」と思いました。それほどあの日は雲一つない素晴らしい晴天でした。 当時、オフィスはマンハッタン区35丁目と五番街、ちょうどエンパイアステートビルから1ブロック北にありました。ブロンクス区の自宅からバスと地下鉄を乗り継ぎ1時間半ほどの場所です。 オフィスに近づくと、消防車のサイレンがけたたましく鳴っているのに気づきました。あちこちでサイレンが鳴り響くなんてニューヨークでは至って日常風景だけど、この日のサイレンはなんだかいつもより賑やかでした。後から考えると、ちょうど1機目が北棟に突入した直後だったのでしょう。人々は立ち尽くしたまま、一様にダウンタウンの方角を見つめていました。そこには、晴天に黒く巨大な煙の柱が立ち込めていました。 私は今でもこう思ったのを覚えています。「仕事に向かう時間よ。皆、なんで同じ方向を見ているのよ?」と。私はこの地で生まれ育ち、今の今までここで生きてきた生粋のニューヨーカーです。21年前だからあの時は40歳。この街で事故は日常茶飯事だから、またどこかで火災でも起きたのでは、くらいの受け止めでした。 私が働くカトリック教布教組織のオフィスではその日、大規模な理事会の会合が予定され、他州から多くの来客を迎える予定でした。ロビーに着くと係員が先ほどの騒動について「心臓発作か何かによる事故でしょうね」と言っていました。 飛行機のビル衝突事故と言えば、その昔、小型機がエンパイアステートビルに突っ込んだ事故*があまりにも有名です。この事故も、操縦士が発作か何かで操縦できなくなったんだろうと、当時誰もが思っていました。 補足 会合前にミサが予定されていて、事故に遭った被害者のためにお祈りを捧げようということになりました。しかしその後、取締役の秘書がやって来て「今度は別の飛行機がほかの建物に衝突しました。これはただの事故ではありません」と言いました。1、2時間すると警察がやって来て「今すぐ避難せよ」と避難勧告が出たため、私たちはビルの外に避難しました。 予想だにしないことが次々に起こり、一体全体何が起こっているのか誰も理解が追いついていませんでした。当時、通話用の携帯電話は持っていましたが、スマホなんてない時代*です。 補足 結局、全航空機に着陸命令があり空路は閉鎖されたのですが、事故直後はまだ無数の航空機が上空を飛んでいる状態だったので、「また別の飛行機が別のビルに追突するのでは?」「次に狙われるのはすぐ近くの(アイコン的な)エンパイアステートビルかもしれない」と恐怖で一杯でした。「とにかくこの場から避難しなければ!」と焦りました。 家族のことも気になりましたが、電話の通信障害*で夫とは電話がまったく繋がりませんでした。 補足 3歳だった末娘ハンナは夫と自宅にいて、テレビでアニメを観ている時間でしたが、何より夫の子、長男ジョシュが気がかりでした。当時24歳だった彼は(レストランや施設のインテリアに植物を取り入れ景観をデザインする)ランドスケーピング会社で働いていました。この日、ジョシュは同僚と軽トラックで、世界貿易センター(以下WTC)に向かっていたのです。でも彼はいつものように遅刻気味で事故直後に到着し、テロ事件に巻き込まれずに済んだのでした。 WTC周囲が閉鎖されたためジョシュは引き返し、途中で私のビルに寄ってくれ、同僚と一緒にここから救い出してくれたのです。公共交通機関はカオスで道路は人でごった返し、どうやって帰宅しようか途方に暮れていた中、目の前に突然現れた息子はまるで『ランボー』(アクション映画の主人公、ジョン・ランボー)のようでした! 軽トラの荷台は13、14人が立った状態で乗れるスペースがありました。造園道具や土やらで散らかっていましたが、そんなことは誰も気にしていられません。 息子が救いに来てくれた。しかしそれでも恐かったです。想像してみてください。あなたの近くで今、予想だにしない事件が連続で起こったとします。一体誰の仕業か、何のためか、単独犯によるものか共犯者がいるのか、次に何が起ころうとしているのか……電話も繋がらない(もちろんスマホもない)。そんな状況では、恐怖と不安しかありません。 大混乱の中、軽トラは北へ北へと進みます。交通渋滞でゆっくりとしか進みません。長く続く道中、私たちは軽トラから叫び続けました。 「誰か乗りたい人いませんか?」 「降りる人はいますか?」 ごった返す道の脇から見知らぬ人々が、次々に荷台へ飛び乗ります。これはエクアドルや中米で見た光景でした。 過酷な状況ですが人々は互いに笑顔を忘れません。全部で40人くらいが乗り降りしたかもしれません。トラックの中では国籍、人種、年齢、職業……あらゆる垣根を超え、人は皆平等でした。 このトラックにはさまざまなドラマがありました。ラップトップを抱え煤で汚れた男性は、コンピュータコンサルタントをしていて、最初に衝突があったビルから避難して来たと言っていました。アフリカ系の男性、確かナイジェリア出身だったと記憶していますが、彼は荷台に乗っても無言のままでした。ある地点に差し掛かったところで涙をボロボロ流し始め、こう言いました。「人々が次々にビルから飛び降りる姿を見てしまった」と……。 ある女性はトラックを降りるとき神に祈りながら私たちをハグし、ジョシュの軽トラを「Hope Truck(希望のトラック)」と名付けて去って行きました。 確かに息子らは我々のヒーローでした。息子だけではなく、あの日はたくさんの人がヒーローとして身を捧げました。 「希望」は続きます。 トラックがブロンクス区に差し掛かると、そこには小さな食料品店があり、避難する人々にミネラルウォーターやクッキーを配布していました。私はこの光景を目にした瞬間、途轍もないほど強いソリダリティ(連帯感)を感じ、胸がいっぱいになりました。誰もがこの困難に直面しながら、見知らぬ人同士が互いに助け合い、繋がっていました。 2年後に起こった大停電*、そして2020年の新型コロナ感染拡大とロックダウン……。この街は幾度もサバイブしてきたけれど、9.11同様に街が大混乱に陥った大停電の時でさえ、水や(歩きやすい)サンダルは有料で売られていたし、パンデミック中は人に寄り添うどころか一定の距離を保たなければなりませんでした。9.11ほどの助け合いや連帯感はありませんでした。 補足 9.11の日は、自宅に到着するまでいつもの2倍の時間、3時間半ほどかかりましたが、実感としてはそれ以上でした。自宅の椅子にへたり込むと、夫がグラスワインをそっと手渡してくれました。 自宅近辺から遥か遠くにローワーマンハッタン(テロ現場)が見えます。雲一つなかった真っ青な空は真っ黒になっていました。 テロから時間が経過するにつれ事件の真相が明らかになり、少し冷静になると今度は不安な気持ちが襲ってきました。親として子の未来について、成長していく彼らにとってどんな世の中になっていくのかとか、そういった危惧です。また、毎朝家族に挨拶して別れ、その後何が起こるかなんてわからない。それを教えてくれたのもこのテロでした。 私がオフィスに戻ったのは数日後です。私は自宅で仕事ができない性分で、コロナ禍でもオフィス勤務は欠かせません。この時も木曜日には職場に戻ったと思います。地下鉄は運行しておらず、シャトルバスで行ったでしょうか。とにかく「私の街だもの。負けるもんか!」という思いで向かいました。 街中が通常運転に戻るのにはしばらく時間がかかりました。テロ再発の恐れもありマンハッタンはゴーストタウンのようでしたが、エンパイアステートビルには巨大な星条旗が掲げられ、通りからは方言が聞こえてきました。若い警官が南部アクセントで「大丈夫でしたか?」と私に気遣ってくれたとき、緊張の糸が切れたのか、歩道に突っ立ったまま涙がポロポロ溢れ出し、止まらなくなりました。 テロで多くのファーストレスポンダー(消防隊員、救急隊員、警察官)を失ったニューヨークに、他州の人々が心を寄せ、我々と共に立ち上がり、救助や援助に駆けつけてくれたのです。瓦礫や粉塵まみれの中、現場周辺の教会だけはオープンし、救助隊に水や酸素吸入器を配布していました。世界中からも心配の声が届けられました。支援のエネルギーがひしひしと感じられ、本当に心強かったです。 テロ後、今とは違う「ニューノーマル」が生まれました。バスに乗ったら周りの人々の顔を互いに見て確かめ合うようになりました。セキュリティは強化され、ビルの入り口でIDを求められるようになり、空港では「このバッグは他人から手渡されたものですか?」などと質問されるようになりましたよね。 幸い、友人や家族で亡くなった人はいませんが、子どもから命を救われた近所の男性を知っています。あの日の朝、バスに乗ろうとした時その男性に会いました。彼はWTCで会議があるのに、直前に息子と言い争いになって出発が遅れたと非常に焦っていました。でもそれでテロに巻き込まれずに済んだのです。後日偶然再会し、この日の朝を思い出して、互いの無事を喜び合ったのでした。 犠牲者の中で、マイケル・ジャッジ神父*が倒壊現場から救助隊に運び出されるシーンはあまりにも有名です。彼は市消防局のチャプレン(神父)を務めており、犠牲者のために祈りを捧げるために現場に向かい、倒壊に巻き込まれて命を失いました。 補足 犠牲者は現場で亡くなった人だけではありません。化学物質で事件後に救出活動をした人や周辺の住民の多くもその後、呼吸器系や癌などの病気になり亡くなっています。 テロの翌年に生まれた私の孫は今年ハタチで、9.11を直接知りません。3歳だった末娘も記憶にありません。そんな若い世代に伝えたいこと。そうですね、あの日は最悪な1日だったけれど、私たちがベストピープル(最高、最強などの意)になった日でもあったということです。 それを成し遂げたのは「助け合い」です。名前も知らない人同士の間で、援助の輪がありました。それらが心の癒しに繋がったのは言うまでもありません。そして心に突き刺さったのは「希望」でした。…

テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11【米同時多発テロから21年】

9月11日。誰もが21年前の「あの日」を思い出す。 今年は朝から空が厚い雲に覆われ、時折小雨がぱらつく天気だった。そんな中、ニューヨークの世界貿易センタービル跡地「グラウンドゼロ」での追悼式典には、多くの人が集まった。 遺族代表が壇上で犠牲者一人一人の名を読み上げ、旅客機が墜落しビルが倒壊した同時刻に、鐘を鳴らし黙祷を捧げた。 21年の年月の経過と共に、杖をついて参加している人や、1人で参加していると思われる人など、遺族の高齢化が印象的だった。また、同時多発テロを知らない若い世代の参加も見られた。 一方でグラウンドゼロ周辺はというと、昨年は20年という節目の年で式典会場に入ることができない人で溢れていたが、今年は天気も影響してか、昨年ほどの人出は見られなかった。 テロ発生後、現場に向かった勇敢なヒーローたちの9.11 今年も、式典に集まった遺族や救助活動をしたファーストレスポンダーたちに話を聞いた。 「救急隊員」「消防士」「警察官」、それぞれのあの日・・・。 救出活動で倒壊に巻き込まれた救急隊員 イリアナ・フローレスさんは、市消防局の救急隊員(EMT)だった弟、カルロス・リロ(Carlos R. Lillo)さんを9.11で亡くした。 リロさんは当時37歳で働き盛りだった。あの朝、飛行機が墜落したツインタワーの人々の人命救助のため、クイーンズの管轄病院から現場に出動し、倒壊に巻き込まれた。最初に倒壊した南棟の中で救命措置をしていたという。 2人は姉弟仲が良く、職場も同じだった。フローレスさんはあの朝、職場の病院で流れたテレビニュースで、テロ事件を知った。 「私たちはまさか弟がツインタワーに救助に行っているとは思いもしませんでした。彼はきっとどこかの病院に出動していると思っていたから、いろいろな病院に連絡し、行方を探したのです。WTCの現場で救出活動をしている時にビルの倒壊に巻き込まれたと知ったのは、事件から1、2週間後のことでした」 「彼(の亡骸)は一部しか見つかっていない……」 今でこそ冷静に話せるようになったが、そのような突然の死は、家族にとって非常に辛い出来事だった。 2年前に結婚したばかりで子どもがいなかったリロさん。甥っ子にあたるフローレスさんの息子を自分の子のように可愛がったという。(写真後ろの男性を指差しながら)「その息子もこんなに大きくなりました」。 「私たちは毎年家族でここに来ます。ここは彼の最期の場所ですから。彼は優しく素晴らしい人格の持ち主で、友人も多かったです。ここに来るといつも彼の友人(同僚)がたくさんいるので、彼らとの再会が毎年楽しみなんです。ここは私たちにとって、弟のことを知るたくさんの人に会うことができる場所でもあるのです」 消防隊員の息子を失った母 ローズマリー・ケインさんの息子ジョージ・ケイン(George Cain)さんも、勇敢なヒーローの1人だ。 ジョージさんは当時35歳で市消防局(FDNY)の消防隊員として働いていた。21年前のこの日、事故が起こったツインタワーに出動し、消火活動を行っていたところ、テロの犠牲となった。 「はじめは小さい飛行機が衝突したと思っていたのですが、テロリストによる攻撃と知りました。それがこの21年間の始まりでした」 倒壊跡地で行方不明になったままの犠牲者はいまだに多く、跡地から発見された2万2000もの遺体の一部が採集されDNA鑑定されているが、DNA鑑定は難しいため、倒壊跡地の死者の多くとまだ照合されていない。21年経った今でもDNA鑑定作業は地道に続けられている。過去記事 以前ニューヨークタイムズで、息子のそのような状況に触れ、自分が死ぬときはジョージさんの遺体の一部を自分と一緒に埋葬することを望む意思を示していたローズマリーさん。追悼式典のこの日は、あまり多くを語ることはなかった。 救助活動をした警官、5年後に健康被害 テロの犠牲者一人一人の名前、そして「名誉の旗」と書かれた大きな星条旗を抱えてこの日参列した、イーロイ・スアレス(Eloy Suarez)さん。 彼は当時、ダウンタウン管区の警察署で、公園の治安を守るパークポリスとして勤務していた。ツインタワーが2棟とも倒壊した後、ファーストレスポンダーとして召集され、倒壊現場に駆けつけた。警備の管轄となるまでの半年間、スアレスさんは倒壊跡地で救助活動に従事した。 現場で何を見たかと質問すると、スアレスさんは「それは見るに耐えない、目を覆うような光景でした」と言い、一呼吸置いた。 「大量の血と多数の負傷者。手足が切断された人もいました。大量のダストと煙、鎮火させるための消火活動。どんな制服を着ていようと(どこの所属だろうと)、救出活動にあたっていた者全員が、ニューヨーカーとして一致団結し、(倒壊現場で目にしたものによって)パニックになることなく心を落ち着かせることに集中し、どこかで誰かを1人でも多く救出できるよう努めていました」 健康状態は決して良くないと言う。症状はテロから5年後に出始めた。 「いくつか健康上の問題があります。鼻が詰まり、呼吸器疾患、睡眠時無呼吸症候群の症状があるため、年に2度マウントサイナイ(大病院)に通って健康チェックをしています。また皮膚癌の可能性も指摘され、良性か悪性かの確認も毎年しています」と言いながら、腕にある傷のようなものを指差した。 2001年9月11日。多くのヒーローがこの地で命を落とした。また生き残ったとしても、その後何らかの苦しみを抱えている。 スアレスさんのケースは特別ではなく、多くのファーストレスポンダーや周辺住民がその後、さまざまな疾患やPTSDを発症している。 合衆国消防局によると、市消防局に所属する99%のアクティブメンバーが9.11の救出、救助、復興のため現場に駆けつけた。その結果、343人の消防隊員がテロ現場で亡くなり、その後10ヵ月間にわたって1万6000人の消防隊員が倒壊跡地での救助、復興活動に従事し、作業員は粉塵、有毒ガス、化学物質などに晒された。20年後の昨年の時点で、このうち1万1300人に健康被害が確認され、胃食道逆流症、癌、鬱やPTSDといった精神疾患などの症状が見られるという。 今も続くDNA鑑定や健康被害。21年経った今でも、9.11は終わっていないのだ。 関連記事 Interview, text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

【まとめ記事】911それぞれの記憶 ニューヨーカーの証言

2017年から毎年911の時期に、ニューヨーカーに話を聞き、あの日の記憶を手繰り寄せてもらっています。4カテゴリーに分け、以下まとめています。 1【遺族の証言】 2【あの日を体験したニューヨーカーの証言】 3【911から20周年 現地はいま】 4【追悼式典などの映像】 — 1【遺族の証言】 2【あの日を体験したニューヨーカーの証言】 ニューヨークに暮らす人々は、あの日どんな体験をし、何を感じたのか?あの日をサバイブしたニューヨーカーの回顧録。 3【911から20周年 現地はいま】 4【追悼式典などの映像】 To Be Continued… Text, photo, and video by Kasumi Abe 無断転載禁止

20年の節目に、現地取材で感じたこと【米同時多発テロ NY追悼式典】

2021年9月11日。雲一つない秋晴れの美しい朝を迎えた。 気温は摂氏26度。9月も半ばになろうしているが、日差しはまだ強い。 アメリカ現地は今日、同時多発テロから20年を迎えた。世界貿易センター跡地であるグラウンドゼロには多くの人々が朝から集まり、あの日に思いを馳せ、犠牲者に哀悼の誠を捧げた。 グラウンドゼロでは午前中、遺族を招いて追悼式典が行われ、バイデン大統領をはじめ、オバマ元大統領やクリントン元大統領といった歴代大統領が参列し、国民に結束を改めて呼びかけた。 さらに緊張する中東問題を鑑み、現場ではテロ防止のためのより厳重な警戒態勢が敷かれていた。筆者は昨年もこの日をここで迎えたが、昨年の式典より何重にもチェックポイントが設けられるなど、最高レベルの厳戒態勢を実感した。 歩いていると時折バグパイプの生演奏が聞こえてきた。すぐ近くのアイリッシュパブ、O’Hara’s Restaurant and Pubの中からだ。 このパブはグラウンドゼロおよび消防署から目と鼻の先にある。テロで命を落とした消防士にここの常連も多かった。事故で損傷し7ヵ月後に再開した後、消防士や作業員の辛い日々の心の拠り所として「再生への活力」を与えてきた。 この日の賑わいは、同窓会のようでまた格別だった。朝からバグパイプ演奏に耳を傾けながらギネスを飲み、犠牲者(彼らにとって元同僚)に思いを馳せながら、特別なこの場所で再会を喜び合っているようだった。哀情だけではない、前向きなエネルギーを感じた。 バイデン大統領はグラウンドゼロの追悼式典を途中で退席し、ペンシルベニア州シャンクスビルのフライト93ナショナルメモリアルへ移動した。ハリス副大統領と、2001年テロ発生時の最高司令官を務めたジョージW.ブッシュ元大統領らと合流した。大統領は夜、国防総省の式典にも出席予定だ。 グラウンドゼロの式典が滞りなく行われたのを見届けた今、筆者が20年という節目において取材を通じて知ったこと、感じたことを、ここで改めてまとめることとする。 今も続く犠牲者のDNA鑑定 20年経った今もまだ、家族の亡骸に対面できていない(埋葬もできていない)人が多いというのは、8日の記事で書いた。 ニューヨークタイムズによると、DNA鑑定は倒壊跡地から見つかった骨片などを使って行われているが、無傷の骨からDNAを採取することは困難なため、骨片などは可能な限り細かく粉砕されて行われているという。 当時のDNAフォレンジック技術ではDNA鑑定が難しいと、05年に鑑定作業の一時停止が発表されたこともあった。近年はより進んだ技術で、過去に分析されたサンプルの再検査が進められているそうだ。 それでも、2001年の事故直後に身元が特定されたのは数百人分だったのが、そのペースは年を追うごとに落ちていき、こんにちでは年に1人程度だという。 数週間前に身元が分かった2人分(照合したのは1646、1647番目)のDNA鑑定は2019年以来だった。 迅速なDNA検査で身元を特定できたフロリダ州マンション崩壊事故とは異なり、911がなぜそんなに長い年月を要しているのか。それは、骨片などが「燃え続ける瓦礫の中で数週間以上損傷して劣化し、抽出するDNAの量が不足しているため」だ。(筆者が今回取材をした、倒壊現場付近に住んでいた住民も「火が完全に鎮火するまで数ヵ月かかった」と証言) また20年経った今、DNA鑑定で身元が分かった家族の心境として、粉々になった骨片を見ることも辛いようだ。「古い傷を再びえぐられる」ように感じ、受け取りに戸惑う人もいるという。親族が遺骨の受け取りを希望しないケースもあり、その場合はグラウンドゼロの保管庫で保存されるという。 今も増える復興作業員の死 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員の中には、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっている人が多いことも、9日の記事などで書いた。 国立労働安全衛生研究所(CDCの傘下)が管轄する、9.11WTC健康プログラムというものがある。 このプログラムは同時多発テロが発生した3箇所に関連した健康被害を受けた人々に対して「認定された場合のみ」、医療や治療を無償で提供するというもので、2090年まで有効だ。 認定を受けた人は約8万人。ただし事故現場の近隣の住民や報道関係者などには、病気と事故との関連が困難で認定されていない人も多い。また(違法滞在者で、復興や清掃作業に臨時で雇われたケースなど)さまざまな事情を抱えた人も認定されるのは困難だ。 NPRが報じた19年の研究によると、911のファーストレスポンダー(その多くは事故当時、30代後半)は一般のケースと比較して、甲状腺がんのリスクが2倍も高いことがわかった。前立腺がんのリスクも約25%、白血病のリスクも41%多いなど、特定のがんのリスクが高い。 2000人以上のファーストレスポンダーと復興作業員が、復興作業に起因する病気で亡くなったという報告があり、FDNY(ニューヨーク市消防局)だけで、911関連の病気(がんを含む)で死亡した消防士は、退職者を含めて257人に上る。 911を知らない世代に語り継ぐ ABCニュースなどが報じたCDCの発表では、01年9月11日以降にアメリカで生まれた人の数は7000万人以上。それに加え、9月11日の時点で生まれているが、乳児や幼児で、この日の記憶がまったくない人たち(数百万人規模)が、「911を知らない世代」となる。 筆者が今回さまざまな場所で話を聞いた人々の中にも、若い世代がいた。当時5歳で事故現場を直接目撃した25歳の女性や、当時7歳でカリフォルニアの自宅からテレビで観たという911美術館で働く27歳の女性らに話を聞くと、皆「覚えている」と語った。 一方、それより若いZ世代の人々にとって、あの悲劇が「実際に起こったこと」としてリアルにとらえにくいのかもしれない。 911の出来事を実際に、もしくはメディアを通じて「見た」我々の世代が、これまで歴史の教科書で学んできた過去の数々の悲劇と同じように、911についても正しい歴史と知識を伝え、そこから学び、感じとり、未来に活かすことが大切だろう。同じ悲劇を二度と繰り返さないために。 同日夜、スタテンアイランドのポストカーズでも、デブラシオ市長らが出席した追悼式典が行われた。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

911それぞれの記憶2 「毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私はそれを聞き、涙が溢れ出た」 エリサさん(72歳、俳優・アーティスト) テロから20年。グラウンドゼロには、ビルから避難できず亡くなった友人の名前も刻まれている。 今年25になった娘にはいつも言っている。あの辺に行くことがあるときは、決して歩き去ることのないようにと。必ず立ち寄って、きちんと犠牲者に敬意を表しなさいと。あそこは通り過ぎる場所ではない。 私の自宅は、世界貿易センタービル(ツインタワー)から大通りを挟んだはす向かいにあった。1993年の爆破事件の時もここに住んでいたが、私のアパートまで揺れるほどの衝撃だった。 そして2001年9月11日。今でも私はあの日のことを、ほとんどすべてのことを思い出すことができる。​ あの日の朝は快晴だった。当時5歳の娘をすぐ近くの幼稚園に送り届け、その足でプールに泳ぎに行ってすぐに戻って来る予定でいた。 幼稚園もプールも自宅から目と鼻の先だ。水着の上に軽く羽織っただけのような軽装で、持って出たのは鍵だけ。財布、携帯電話、IDなどすべて自宅に置いたまま、娘を自転車のチャイルドシートに乗せて、幼稚園に向かった。 とても美しい青空が広がっていたが、それとは対極的に、実は私も娘もその日は少しナーバスでそわそわしていた。なぜならその日は幼稚園の初日で、丸1日娘が園の生活に溶け込めるだろうかと少し心配していたから(注:アメリカは9月が新学期)。また私はほんの数週間前に最愛の母を亡くしたばかりで、まだ悲しみの中にいた。 私は娘の様子を確認するために、しばらく教室の外から見守っていた。教室の窓からは、すぐ近くに世界貿易センタービルが見えた。 ちょうどそのころ、1機目がビルに追突した時間だが、私がいる場所からは何も見えず音も聞こえなかったので、しばらく誰も気づかなかった。娘が大丈夫そうなのを確認し、私は階段に向かった。ちょうど真ん中あたりにさしかかると、下から人々の叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、その人たちの動揺ぶりからこれはただ事ではないと察した。発砲事件か何か大変なことが起きたと思った。私も怖くなり娘のいる教室に引き返した。 窓の向こうに見えたビルには大きな穴ができ、そこから黒煙が上がっていた。飛行機が突っ込んだ穴だ。私はとにかくびっくりした。まるで世界の終わりとでも言うようなとてつもなく恐ろしい光景が広がっていた。人々の泣き叫ぶ声は聞こえたものの、激突音などはまったく聞こえなかった。園内は先生が行ったり来たり騒然とし始めた。子どもに見せまいと先生はブラインドを下ろした。皆その時はまだ事故だとばかりに思っていた。 私はそのビルがこちらに向かって崩れ落ちてくるのではないかと、恐怖心でいっぱいになった。そのころの私の心境として「母も死んだ、私も死ぬんだ」といったような(絶望的な)思考回路だった。 逃げようにも、保護者がいない子どももいる。場所柄、ビルで働いていた親も多かった。警察の指示があるまで動かない方がいいと、園長先生が全児童を1箇所に集めアニメ上映をし始めた。娘は今でもそのアニメを覚えている。しばらくすると屋外に避難し、PS3(公立小学校)に北上するよう指示があった。大人は全員、両手に子ども4人ずつ手を引き外に出た。 大通りはビルの方から逃げ惑う人々で溢れていた。周り一面は砂嵐だ。あれほどの砂嵐はビーチ以外で見たことがなかった。この時も音は聞こえなかった。とにかく私が覚えているのはこうやって(高層ビルを見上げるように)振り返ったことだけ。 無音の世界だった。想像してみて。このような状況ではものすごい騒音がする時でさえ、音は一切聞こえなくなるものよ。 砂嵐が吹き荒れる中、ビルは一瞬にして崩れ落ちた。私も子どもたちも泣き叫んだ。もうもうたる黒煙が広がり、空一面が真っ暗になった。車の走っていないハイウェイを子どもたちの手を引いて、ひたすら走った…。そのうち人々は疲れてデモ行進のように歩き始め、トボトボ歩いて歩いて歩いて…。やっとPS3に到着し、そこで保護者のいない子どもを警察に託し、まずは一安心となった。 私の成人した2人の息子は、それぞれ自立しブルックリンに住んでいた。さぞや心配しているだろうと思ったが、私は携帯も財布も持ち合わせていなかった。 しかし、途中から一緒に歩いた見ず知らずの女性がいて、私に「これから仏教寺院に祈りに行く。そこに電話があるから一緒に行きますか?」と提案してくれた。そうしてやっと電話にたどり着けたのだが、私は一連の出来事で記憶喪失のようになっていて、誰一人番号を思い出すことができなかった。昔は電話番号案内サービスというものがあり、それを利用してやっと息子と話すことができた。その優しい女性は別れ際、私に5ドル(約500円)をくれた。私たちはそれでヨーグルトと牛乳とチェリオス (コーンフレーク)を買うことができた。 腹ごしらえをし、娘を背負って再び徒歩で息子の家を目指した。とにかく暑かったが、ウイリアムズバーグ橋の麓では水の配給が行われていた。橋を渡りながら振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。娘は「火事だ!火事だ!」と泣き叫んだ。娘は今でも、この光景をしっかり覚えている。 ブルックリンに入ると、その日はバスが無料になっていた。しかし大勢の人がマンハッタンから避難してきたので、バスに乗るのにも一苦労だった。乗るのに1時間半ほどかかった上、バスは人々を乗せて周回し(それほど遠くない)息子のアパートにたどり着けたのは夕方5時だった。もう1人の息子とも会え、私たちは無事の再会を喜び合った。 一方でその日から、私は事故により受けた精神的なショックが長引き、テレビニュースで惨事を目の当たりにするたびに、涙がとめどなく溢れるようになった。死者数が1人増え、また1人増え。友人、誰かの友人と訃報が次々に入ってきた。 自宅には数日間、戻ることができなかった。私も娘も着替えも何もない状態で、友人が洋服を貸してくれたりもした。学校もオフィスもしばらく閉鎖となった。 やっと自宅に戻ることができたのは、テロから1週間後のこと。IDがないということはここに住んでいる証拠もないため、自宅に戻るのも一苦労だった。警察に敷地内に入れてもらえずにいたが、近所の人が私がここの住人だと証言してくれ、やっと我が家に戻ることができた。 アパートとその一帯はクライムシーン(凄惨な事件現場)の中心だった。近所の家には機体の一部が窓を割って部屋の中まで突っ込んできている惨状だった。そして建物、プール、屋根…あらゆる場所に亡くなった方の遺体の一部が散乱している状態だった。私は見ていないが、ビルのコンシェルジュが私に教えてくれた。彼は事件後も避難できずにいた。なぜなら2階で1人暮らしをしている老人が事故後どこにも避難できなかったから。あのような状況の中、彼はこの老人と一緒にいてあげたのだった。 私の自宅も大変なことになっていた。あの朝すぐに戻る予定だったので、窓を開けたまま外出していた。自宅の部屋という部屋、そして物という物はすべて、数センチほどの分厚いダスト(埃、ごみ、残骸)で覆われていた。携帯を取り上げると、その跡がくっきりとわかるほどだった。 自宅にはしばらく住めず、滞在先の息子宅からちょくちょく戻っては清掃や修理をするような生活が続いた。そのうちエアーフィルターを手に入れることができたが、マットレスやおもちゃやそのほかいろいろなものはもはや洗えば使えるという状態ではなく、たくさん処分した。 私の自宅窓からは、世界貿易センターが見えた。テロから4、5ヵ月経っても、キャンプファイアーの後のように燻った火はなかなか鎮火していなかった。 そこから毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私の耳にも届いた。 その音色が聞こえるたびに、今日も新たに遺体(の一部)が見つかったことを知る。私はワインを飲みながら、悲しい知らせを告げる音楽を聞く。涙がとめどなく溢れ出る。 今夜も次の夜も、またその次の夜も・・・。 自宅が住める状態になるまで数ヵ月間かかった。その年の感謝祭(11月末)はなんとか自宅で祝うことができた。幼稚園は4ヵ月後の翌年1月に再開したが、園に行っても私はあの時受けたショックから、娘の教室がどこにあるのかわからなかった。 この事件は私のその後の人生にも影響を及ぼした。 私は2015年に膀胱がんと診断され、臓器の摘出手術と化学療法を受けた。髪が抜け落ち、痩せてしまった。その3年後に孫娘も事故で亡くした。離婚した息子にとってたった1人の子どもだった。これらの体験は911の体験をはるかに凌駕するほど辛いものだった。 さまざまな問題が起こった私を誰も助けてはくれなかった。いや、私はできるだけ周囲の人を助けようとし、また人々も私に手を差し伸べようとしてくれたが、何の助けにもならず、そこから私が救われることはなかった。私が体験したことはすべて(他人が援助できるレベル)を超越していた。 私は時々、何も感じられなくなってしまっていた。一方で、映画を観に行き暴力的なものや虐待など過激なシーンが流れると涙が止まらなくなり、その場にいられなくなることもあった。いわゆるPTSDと言われるものだ。アートや音楽などさまざまなセラピー、メディテーション、そのほか良さそうな治療という治療を受けて今に至る。 私が当時、自宅での清掃時にマスクを着けていたかどうかは…思い出せない。ただ言えるのは、テロから14年後にがんになったということだ。私はこれまで一度もタバコを吸ったことはない。救助や復興活動をした多くのファーストレスポンダーがその後病気で亡くなっている。また、我が家は利用しなかったが、ほかの部屋で雇った清掃業者の中には、(違法滞在のため書類が必要な)仕事に就くことができず、この清掃作業に臨時で雇われた人もいたようだ。彼らのその後を思うと本当に気の毒だ。 今でも涙がこみ上げてくる、これだけのトラウマを抱えた状態でなぜ私がこの体験を話そうとしたか。それは私が死んだらこの話は誰も知らなくなるから。生きているうちに体験談を伝えていくことは大切だと思った。私たちは歴史を知る必要がある。 広島の原爆の被爆者でもあった私の78歳の友人はCOVID-19で亡くなった。彼は生前、子ども時代の戦争体験を私に話してくれた。一方、私は両親や祖父母の昔話を知らない。彼らは思い出したくないと、自分たちの過去を語ろうとはしなかった。ホロコーストや原爆投下など歴史上ではひどいことがたくさん起こってきたが、人は時々、自分で見たもの以外を信じようとしない。しかしそれは起こった、見た、体験した。ならばそれを伝えることが大切だ。いつまでも人々がその悲劇を忘れないように。 9月は娘と息子の誕生月であり、孫娘が亡くなった命日もある。そして911。大変な思い出が詰まっているが、センチメンタルになりすぎないようにしている。だって私の記憶には辛いことだけではなく、いい日もたくさんあったから。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview, text…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。 しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。 20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか? ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。 911それぞれの記憶 「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加 曽野正之さん(50歳、建築家) 私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。 アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。 73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。 刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。 私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。 ニューヨークに移住して3年目、2001年9月11日。 私にとってはいつもの朝だった。 出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。 オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。 ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。 それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。 北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。 そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。 ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった) しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。 地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。 アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。 自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。 確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。 クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が​​95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。 この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。 911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。 アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。 事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。 毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。 2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。 関連記事 NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い 事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。 この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。 (後編につづく) 関連記事 2021年(テロから20年) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview,…

NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い

911テロがアメリカで発生して今年で20年。 亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐため、ニューヨークにはいくつか911慰霊碑が建てられている。前回紹介したマンハッタンのグラウンドゼロがあまりにも有名だが、市内にはほかにもあるのはご存知だろうか? 関連記事: 911から20周年(1) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま マンハッタン南端からフェリーで25分、スタテンアイランド(以下スタテン島)の北端にある慰霊碑、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)。ここには、スタテン島に住みこのテロで犠牲となった人々が弔われている。 日本人の建築家、曽野正之さんによる作品で、2004年に完成した。 ポストカードの両側を折ってひし形にし、羽のように見立てたもので、真っ白で曲線を帯びたシンメトリーが力強くも美しい。 羽の間から見える視界は、ニューヨーク湾を越え、ツインタワーがかつてあったグラウンドゼロへと続く。 曽野さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加することになったのか、またどんな思いで完成させたのだろうか。曽野さんに話を聞いた。 2001年の同時多発テロとその後のアフガニスタン紛争の開始を経て、アメリカがイラク戦争へ向かっていたころ、ニューヨークの設計事務所でアソシエイトとして働いていた曽野さんもデモに参加し、反戦を訴えた。しかしその甲斐もなく、アメリカはイラクでの空爆を開始した。 「911の出来事で吐き気がするほどショックを受け、無力感に襲われて創作意欲を失った」。曽野さんは自身の作品、ポストカーズを見つめながら、当時の記憶を手繰り寄せる。 曽野さんは気分が塞ぎがちになりながらも、倒壊跡地で同僚らと復旧作業に参加した。そんな中、スタテン島の犠牲者のために慰霊碑を作ろうという区のプロジェクトが持ち上がり、曽野さんの仲間内でも話題になった。03年の初めのことだ。 グラウンドゼロなど911の復興計画は通常、指名コンペとなっており、世界的な超大御所建築家しか応募ができない。しかしスタテン島慰霊碑は、初めて一般公募から広く作品を募った。曽野さんも迷わず応募した。 昼間は設計事務所で働き、夜間自宅に戻り寝る間も惜しんで制作に取り組んだ。 まずは重要なコンセプトについて考えあぐねる中、このように想像してみた。 「もし自分が亡くなった方の家族や友人だったら…」 曽野さんは、暗い部屋の中で延々に問い続けた。「これはとても恐ろしく辛いプロセスだった」。しかし、そこから「犠牲者への手紙」「ポストカードの羽」というコンセプトが湧いてきた。 次の課題は「一番大切な犠牲者、個人個人をどう表現するか」ということだ。犠牲者が実際に存在していた人として、慰霊碑を訪れた人が一人一人を感じられるようにするには…? 締め切り間際のある日、曽野さんは友人の家に寄ることがあった。そこで、横顔の構図が元々好きな曽野さんが以前撮影したある写真の話になった。それを改めて見て「真正面の写真は辛いから横顔くらいがちょうどいい」と思い、犠牲者の横顔のシルエットの彫刻を思いついたという。そうして設計案がついに完成した。 コンペには多数の国から総数200案ほどの応募があったが、曽野さん案は見事にその中から選ばれたのだった。 プロジェクトがスタートし、曽野さんは遺族とコミュニケーションを取り、犠牲者の写真を見せてもらいながら、遺族と共に横顔を一つ一つ作り上げていった。 「横顔の写真って普段撮らないから、どうしても結婚式での誓いのキスの写真などになる。遺族の方々に人生でもっとも幸せだった瞬間を思い出させることになりとても辛かった。ただそうして一緒に作ることで意味のあるプロセスとなり、慰霊碑が遺族の方々にとっても彼らの一部になってほしいと思いました」と曽野さんは振り返る。 羽の内側に刻まれた263人の中で、1つだけ何も掘られていないものがある。「アルバムを開いて写真を選ぶのが辛い」と断られたからだ。作る過程で泣き出す人もいた。それだけ残された家族には、悲痛な事件だった。 完成以来、多くの人々がこの慰霊碑を訪れている。毎年9月11日には区主催の記念式典がここで行われており、曽野さんも欠かさず参加し犠牲者を弔っている。 911はまだ続いている ポストカーズのすぐ近くの湾沿いには、別の911慰霊碑、The Staten Island September 11 First Responders Memorial(911緊急救助隊慰霊碑)も14年から設置されている。 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員が、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっており、石板には同区の被害者107人の名が刻まれている。こちらの設計も曽野さんによるものだ。 その石板は「大きな見えないリングの一部」なのだと曽野さんは説明する。 復興現場から出た瓦礫の総量180万トンを集めると、直径150メートルほどの球体になるそうだ。それをイメージし、一部が湾沿いの柵に設置された石板として現れ、見えるようにした。同区の処理場に埋め立てられた瓦礫や、消防士や作業員が粉骨砕身で立ち向かった壮絶な救出・復興作業など、「もはや見えなくなってしまったものが見えるように」という思いを込めた。 17年よりここに名前が刻まれ始めて4年経つが、今も毎年十数人ずつ名前が足されている。 「あのテロから20年が経ち、完全に過去のものとされていますが、今でもまだ終わっていないんです。この悲劇から学んだことを平和な未来への教訓にするため、何が起こったのかを特に若い世代に伝えることは、当地であの日を目撃した我々の責任だと思っています」 曽野正之(Masayuki Sono) 建築家 / クラウズ・アオ共同創業者 幼少期を米ニュージャージーで過ごす。神戸大学と交換留学先のワシントン大学で建築学を学び、1998年ニューヨークに移住。2004年自身の作品、The Staten Island September 11 Memorialが完成。10年に設計事務所、Clouds…

アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から、もうすぐ20周年を迎えようとしている。 我々の多くが戦時中のことを歴史の教科書で学んできたように、これからの若い世代もこの同時多発テロについて教科書で学ぶ時代となった。あの年に生まれた人が今年ハタチとなり成人した姿を見ると、長い年月の経過を感じずにはいられない。 20年企画シリーズの第一話として、本稿では倒壊跡地の現在の様子をお届けする。 ニューヨークはテロが起こったあの日、秋晴れの美しい朝だった。しかし突然、世界貿易センター(ツインタワー)に2機の旅客機が激突してビルが倒壊し、ビルで働いていた人、救助に向かった消防士や警官など多くの人々が命を落とした。 これをきっかけにアメリカは「テロとの戦い」を宣言し、実行犯とされる国際テロ組織アルカイダを倒すため、その指導者ウサマ・ビンラディン容疑者をかくまったなどとしてアフガニスタンに侵攻した。アフガニスタン紛争の始まりである。そして20年間にわたる米軍駐留後、「成果が見られない」として今年8月末をもって米軍が撤収し、米史上最長となった戦争に終止符が打たれた。 これで911は本当に終わったのだろうか? この20年で世界は少しでもより良い方向に進んだだろうか? ツインタワーの倒壊跡地は現在、亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐための場所「グラウンドゼロ」となっている。 犠牲者一人一人の名前が刻まれた慰霊碑の9/11メモリアルと博物館も作られた。 1993年に発生した世界貿易センター爆破事件の犠牲者6人を含む合計2983人をここで追悼し、ビルの残骸や写真の展示で2001年のテロや93年の爆破事件を伝えている。 博物館を案内してくれた女性スタッフによると、コロナ禍前はこの博物館だけで1日8000人が訪れていたそうだが、パンデミックでサイト自体が閉鎖となり、昨年9月11日(一般向けには12日)に再開した。客足は以前の半数になったが、最近は徐々に戻りつつあるという。 また毎年9月11日の午前中、遺族を対象にした追悼イベントが行われており、今年も予定されている。 女性スタッフによると、北棟と南棟があった場所をつなぐ青の壁のインスタレーション、Trying to Remember the Color of the Sky on That September Morning(9月の朝の空の色を思い出そう)は犠牲者一人一人を表し、2983個の青みがすべて異なる。 また、このインスタレーションの向こう側は一般の人は入れないが、実は犠牲者のDNA鑑定をしている市検死官オフィスだという。倒壊跡地で行方不明になったままの人はいまだに多く、倒壊跡地から発見された2万2000もの遺体の一部がDNA鑑定されているが、それらのDNAが倒壊跡地の死者の40%にあたる1106人とまだ照合できていないとされている。あくまでも遺族の意向を尊重しながら、20年経った今でもDNA鑑定作業は地道に続けられている。 「つい2週間前も新たに2人分の身元が判明したばかりです」(女性スタッフ) 2001年の同時多発テロは過去の出来事でも何でもない。こうやって、20年経った今でも終わっていないのだ。 アメリカ同時多発テロから20年。【20周年企画シリーズ】の第2回目は、グランドゼロだけではない、ニューヨーク市内の911慰霊碑を訪れます。 9月11日の記念式典 グラウンドゼロでは遺族を対象に20周年記念式典が行われる。 2021年9月11日 8:30am – 1pmごろ (この日は一般の人の博物館入館不可。式典はライブストリーミングされる) 日没後から翌日まで、北・南棟に見立てた2本の光のタワー、Tribute In Light(トリビュート・イン・ライト)も照らされる。 そのほか、全米各地では追悼式典が行われる。 911 過去記事 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 (Text and photos by Kasumi Abe  Yahoo!ニュース 個人より一部転載) 無断転載禁止