「クリスピー クリーム」ドーナツ、NY中心地に復活 セックス・アンド・ザ・シティにも登場した人気店

私はこのクリスピークリーム(Krispy Kreme)ドーナツを食べると、いつも18年前、ニューヨークに来たばかりの頃を思い出します。 TVシリーズ「セックス・アンド・ザ・シティ」にも登場したということで、当時話題のドーナツでした。当時の私はマンハッタンのモーニングサイドハイツに住んでおり、すぐ近くのハーレムに住んでいた留学仲間がお気に入りっていうことで、ハーレムにあったこのドーナツ店に一緒に行ったのが始まり。店内奥に工場があって、そこで焼き上がったばかりの甘いドーナツをコーヒーと一緒にいただくのが、貧乏学生にとってのささやかな楽しみであり贅沢でした。 いつしかクリスピークリームはニューヨークから姿を消し、気づいたらペンステーション店だけ、あとはスーパーで見かける箱売りだけになっていったのです。 パンデミックの最中、タイムズスクエアに復活 そんな私にとっての「懐かしい味」が、今回ニューヨークに大復活しました。 オープンしたのは初の旗艦店。場所はNYの中心地、タイムズスクエア。時は2020年9月15日という新型コロナのアウトブレイク最中! 取材した、最高マーケティング責任者(CMO)のデーブ・スケナさん曰く、本当は5月オープン予定だったけど、パンデミックにより4ヵ月も遅れたのだそうです。 見える工場 店に到着すると右側の列はドーナツやコーヒー購入者用、左側は体験型と聞き「どういうこと?」と思ったら、店に入ってなるほど。 店内左部分は「見える工場」になっていて、目の前でドーナツが作られている様子を「工場見学」できるようになっています。1時間に4500ものドーナツが作られていると言います。CMOのデーブさん曰く「世界中にある同社他店と比べて、旗艦店の工場は最大規模」。 消費者側からすると、目の前で作られている様子を実際に確認できるのは、安心ですね。 新店舗のコンセプトは「スタジアム型」だそうで、見える工場の向かい側には、野球場のようなシートがありました。つまりドーナツができる様子(試合)をそのシートから「観戦」できるというわけです。 エンタメはこの店の1つのテーマで、時折スタッフが全員で、急に楽しげに掛け声をかけて歌い出します。なんだかこのガヤガヤした熱気が、野球観戦にでも来たように気分を盛り上げてくれ、店内でもドーナツを買うのに待ったのですが、自然と楽しい気持ちになれました。 リピートする楽しさ 顧客に「リピートさせる」いくつかの工夫も見られました。 まず1つは、オリジナルグッズの豊富さ。 店の敷地の半分がグッズ販売コーナーになっています。売られているものは、各種Tシャツ、エコボトル、マグカップ、キーホールダーなど。NY観光シーズンがまた復活したら、お土産を買うのにおすすめです。 2つ目は季節ごとに変わるドーナツ。今の時期はパンプキンドーナツでした。 NY店限定ドーナツ「ビッグアップルドーナツ」(Big Appleにかけて)もあります。10.99ドルと割高ですが、CMOのデーブさんは「今のところトップセラーは、このりんごドーナツなんです」とのこと。 私のお気に入りは当時も今も「Original Glazed」(1.99ドル)と「Chocolate Iced Kreme Filled」てやつです。機会があればぜひ食べてみてください。 10年ぶり?15年ぶり?に食べたドーナツの感想はというと… フワフワ、超甘〜い、でも美味しい!通っていたハーレム店とあの頃の日々を懐かしく思い出しました。 この旗艦店は、今年のクリスピークリームの拡大戦略の一環であり、市内では今年だけでも新しく7店舗をオープンし、400人以上の雇用を生み出す予定だそうです。 (Text and photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止

056 Black Lives Matter 巨大路上アート出現

白人警官に殺されたジョージ・フロイドさんの死をきっかけに、全米に広がった、BLMことBlack Lives Matter(黒人の命は大切)ムーブメント。ごく一部の過激派や犯罪者により、暴動や略奪にも発展しましたが、現在は沈静化し、平和的にデモが続けられています。そんな中で現れたのがこの路上アートです。 DCに続きNYにも 6月5日、ワシントンDCでBLM関連の巨大ミューラル(=ミューロ、市公認の路上アート)が完成し、話題になりました。ニューヨークのデブラシオ市長も「われわれも、力強く叫ばれているBLMパワーを(市民に)感じてほしい。市は全面的にバックアップする」と言い、市内5区全てでのミューラルの完成を約束しました。 DCでの完成の1週間後、ブルックリンに市内初のミューラルが完成しました。場所は、人口の65%を黒人が占めるというベッドフォードスタイヴサント地区。この一角のフルトン通りに完成したのは、ビビッドな黄色で描かれた「Black Lives Matter」の巨大文字。早くも街並みにとけ込んでいます。約1ブロックいっぱいに描かれ、全長約114メートル、幅約8.5メートルもの大きさです。 アーティスト30人参加 プロジェクトを指揮したのは、ビリーホリデー・シアターのエグゼクティブ・アートディレクター、インディラ・エトゥワルーさん。著名アーティストのセイ・アダムスさんとダウッド・ウエストさんらがリードし、ブルックリンで活躍する約30人のビジュアルアーティストが共同で作業。13日に開始し、1日で完成しました。 またミューラルの傍には、人の形をした像もあります。フロイドさんの他に、NYPDに殺された黒人の犠牲者の名前がグラフィティー調のフォントで刻まれています。人々の記憶にいつまでもBLMの理念が残り、コミュニテーィの士気を高めてくれそうです。 ミューラルは、全米では他にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、オースティン、シャーロットなど多数の街で誕生中です。マンハッタンでは、五番街のトランプタワー前の道路も予定されています。2020年を代表するBLMのシンボルとして残されていくでしょう。 フルトン通りに面した雑貨店、ニコラス・ブルックリンに入ってみました。お香やアロマオイルが充実していました (c) Kasumi Abe ミューラルのそばには、フロイドさんをはじめとする犠牲者の名前が描かれた像も展示されています (c) Kasumi Abe [by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム 、安部かすみ(Brooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止

フランク・シナトラの曲「New York, New York」歌詞の和訳

Start spreadin’ the news, I’m leavin’ today  朝になりニュースが騒ぎ出す 今日は出発の日だI want to be a part of it 私はこの街の一部になりたいNew York, New York ニューヨークニューヨークThese vagabond on shoes, how longing to stray さすらいの旅人たちは彷徨うRight through the very heart of it  この街のど真ん中をNew York, New York  ニューヨークニューヨーク I wanna wake up, in a city that doesn’t sleep 眠らない街で、私は再出発したいAnd find I’m king of the hill そうして私は丘の上の王者になるTop of the heap この街のナンバーワンにのぼり詰める…

新型コロナで死者千人超えでも希望を捨てない人々(ニューヨーク今日の風景)

ニューヨーカーの希望の光 「我々が必要としていたものが今、ここに到着した。我々の仲間、海軍兵士によるこの病院船は、ただベッドや医療物資を届けるためだけにやって来たのではない。これは私たちの希望(Hope)なのだ」 現地時間3月30日午前、アメリカ海軍の病院船「USNSコンフォート」(以下コンフォート)がニューヨーク市マンハッタン区のピア90に到着し、ビル・デブラシオ市長はメディア向けのプレスカンファレンスで、力強くこのように語った。 ニューヨーク州内ではこの日、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染者が6万6497人、死者が1218人(前日965人)となった。コンフォートはこれらの事態を受け、州内にある医療施設のキャパシティを増やすために派遣された。 船内には1000床のベッド、12の手術室、80の集中治療室、医療ラボなどを備えており、ここでは新型コロナウイルス感染症以外の救急患者の治療が行われる。医療関係者1200人が任務にあたる。 Updated April 6: ニュージャージー州も含む新型コロナ患者の受け入れに転換しました(最大500床)。 コンフォートの船内の写真 バズフィードニュース コンフォートは通常、国外でのハリケーンや大地震の救済に使われているもので、ニューヨークにやって来たのは2001年の同時多発テロ以来だ。 実はこの日、ほかにジャビッツセンター(Javits Center)が仮設病棟としてオープンした。ジャビッツセンターは平常時、コミコンやNY NOWなどが行われる大型展示会場だ。ここには2500のベッドが設置され、新型コロナ感染症以外の患者が搬送される。 Updated April 3: 新型コロナ患者の受け入れに転換しました。 州内ではほかにも、大学のキャンパスやセントラルパークの屋外テントを仮設病棟とする計画が急ピッチで進められている。 コンフォートを一目見ようと多くの人々が集まったが、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)の確保がされておらず、警官が出てくる一幕も。 取材帰りの非現実的な光景 in タイムズスクエア ニューヨークでは今、エッセンシャルワーカー(医療現場や交通、スーパーや薬局などで働く人々)以外、自宅待機が求められている。筆者は前夜遅く、コンフォートのプレス用カンファレンスの知らせを急遽受け取り、この日約2週間ぶりに取材に出かけた。 カンファレンス終了後、地下鉄へ向かう途中、ニューヨークの中心地、タイムズスクエアがある。 いつもは全米そして世界中からやって来た観光客でごった返し、なかなか前に進めないくらい人が多いタイムズスクエアが、新型コロナの影響でガランとしている。 どの店もシャッターが降り、店内が暗い。人もまばら。いつもならうるさいほどのクラクション音もない。 感謝祭やクリスマスなど一連のホリデーがすべて終わり、年末最後の大騒ぎをする大晦日の翌朝、つまり静まり返った元旦のようだ。 この街とは1990年代からの付き合いだが、こんなに寂しいニューヨークを初めて見た。 駅に向かって歩いていると、タイムズスクエアの顔なじみの人と遭遇した。 年中パンツ一丁でギターを弾くネイキッド・カウボーイこと、パフォーマーのロバート・バーク氏だ。筆者は15年ほど前、彼に同じ場所でインタビューをしたことがある。まさかこんな誰もいない日にも彼がここに出没しているとは思わなかった(しかも気温は10℃ちょっと。まだコートが必要) 今日だけいつもと違うのは、オリジナルマスクを着けていることだ。 久しぶりに日本語の歌を目の前で歌ってくれたので、チップを出そうとしたところ、ロバートが「いらない、いらない」と言う。「なぜ?」と聞くと「今はソーシャル・ディスタンシングが叫ばれているからいらない。それより経済が早く回復してもらうことを願っている」とクールに言い放ち、次の通行人のもとへと去って行った。 さらに駅に向かって歩を進めると、今度はさっきまでシーンとしていたのに、突然大音量の音楽が聞こえてきた。派手な三輪のスポーツカー、スリングショットが信号待ちをしている。音楽はそのスピーカーからだ。 曲は、フランク・シナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』。 田舎からやって来た男性がこの街で一旗揚げるぞ、と意気込む希望の曲だ。この曲はニューヨークでは、イベントやエンターテインメントが終わった後、成功を記念してかかるお決まりで、毎年大晦日のタイムズスクエアのカウントダウン後の定番曲でもある。 筆者が最後にこれを聴いたのは、ちょうど同じ場所で2019年の大晦日のカウントダウンだ。 このスリングショットを走らせるのは、ニューヨーク州ロングアイランドから運転してきたマットさん。景気付けにやって来たようだ。 人のいないタイムズスクエアで、偶然出くわした『ニューヨーク・ニューヨーク』。 たった2、3人の通行人と共に聴く。 映画みたいなことが、いいことも悪いことも、 今ここニューヨークで起こっている。 [All photos and video by Kasumi Abe] All images and text are copyrighted. 本稿はYahoo! Japan News個人からの転載。無断転載禁止

「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。© Kasumi Abe 水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。 私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。 (以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容) 80年代、戦場を駆け抜けた 私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。 それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。 妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。 最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。 そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。 翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。 振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。 ビール作りは自宅キッチンから そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。 当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。 それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。 治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業 ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。 その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。 しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。 ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。 今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今では60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう? 世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話 ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。 だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。 私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムを手がけたミルトン・グレイザーでした。 早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。 ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです! ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。 《誕生》「クラフトビール?何それ?」 ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。 《衰退から復活まで》資金が底尽き、二足の草鞋 91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。 事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。 ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。 ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。 ビジネスを成功させる秘訣とは? 1. ロゴ(ブランディング) 私たちは初期の初期に大切なことをしました。それはブランディングです。 先のミルトンの話には続きがあります。打ち合わせで彼にブランド名を話したら、彼が「イーグルはいらない。シンプルにブルックリンラガー、ブルックリンブルワリーにしよう」と言いました。その言い分はこうでした。「ブルックリンで事業をしようとしている。そして誰も土地名を名乗っていない。だからブルックリンにフォーカスしよう」。ただし、今ではクールなイメージの土地柄ですが、先述のように30年前は良くなかった。「ブルックリンブルワリーという名にする」と人に言っても「えええ?」という反応でした。 また、こんなこともありました。ミルトンができあがったロゴを見せてくれた時のこと。そこには「B」とだけ書かれてあります。私は思わず「え、これだけ?」と聞きました。彼は「何も言わずに持って帰り、多くの人に見せず、キッチンのテーブルに置いて奥さんだけに見せてごらん」と言います。その通りにしたところ、Bのシンプルな美しさが浮き立って見えるようになりました。かつての球団ブルックリン・ドジャースを始めとするこの地のスポーツの歴史も呼び起こすものでした。でもノスタルジーとは違い、逆に新鮮で新しくスマート(賢さ)だった。これらはミルトンから教わったことです。 2. 流通(ディストリビューション): 近所にソフィア・コーリヤ(Sophia Collier)という女性起業家が住んでいました。彼女はSoho Natural Sodaという会社を興した人で、事業をアパートの1室でスタートし成功した人だから、私たちはとても刺激を受けていました。 ある日彼女と会う機会があり、ミルトンのロゴを見せたら、彼女が「主流ビールとは異なり素晴らしい。さすがミルトンだ」と褒めてくれました。「しかし、デザインがいいからと言って胡坐をかけませんよ」と言います。ディストリビューション(流通)なしでは事業は難しい、と。彼女は健康食品のディストリビューターを使って売ろうとしたけどうまくいかず、ソーダに特化したディストリビューターもだめ、最後はバンを購入し、ロゴをつけ、自分たちで運転し販売してみてやっとうまくいったということでした。…

052 近隣クリエイターが夜な夜な集まる、クラフトカクテル・バー 「Yours Sincerely」(NYブルックリン)

知り合いのクリエーターが「ブッシュウィックに、近隣のアーティストなどがよく集まるおしゃれなカクテルバーがある」と教えてくれました。聞けばただのバーではなさそうです。真っ暗な店内に引き込まれるように入りました。 タップは全部で31種類 店の看板には昔の趣のあるコカコーラ・マークがあり、一見「これ何の店?」と思いました。「昔キャンディーストアだったのを、前のオーナーがAirbnbとして使い、2015年大みそかに今の形態のバーになりました」と話すのは、店の代表マークさん。 バーカウンターにズラリと並ぶタップから、「Yours Sincerely」がただのカクテルバーでないことが分かります。聞けばここのカクテルはすべて「ドラフト」だそう。全部で31種類で、中にはクラフトビール、ウイスキー、赤&白ワイン、手作りソーダも。タップワインは飲んだことがあるけど、タップカクテルは経験なし。早速いただきました。 まずはホワイトラム、ライム、シンプルシロップなどで作られたダイキリの「Lab Rat」から(10ドル、毎日5〜8pmはハッピーアワーで5ドル)。フレッシュで飲みやすく、喉をリフレッシュしてくれます。軽量のために使われているガラス製ビーカーもおしゃれ! 冬季は温かいカクテルも飲みたくなります。「Re-Animator」(11ドル)はイタリアの食前酒カルダマロに、ビターリキュールのブランカメンタ、コーヒー豆が入っていて、おなかの中から体を温めてくれます。 隠れメニューも どれを注文していいか分からない場合も心配ご無用。メニューには「デシション・メーカー」(判断決定表)の図解があります。 例えば、軽くリフレッシングしたいか、思いっきり飲みたい気分か、好みの味は甘めかドライか、ハーブが効いたものか、トロピカルか…。きっと自分好みの味にたどり着けます。ぜひお試しを。 またあまり知られていませんが、メニューにブラックライトを当てると、隠れメニューも浮き出してきます。遊びゴコロいっぱいのバーです。 フードはないけど、隣のレストランからBYOB(持ち込み)してよいとのこと。良心的なのもうれしいです。 [by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム 、安部かすみ(Brooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止

アルゼンチンの茶の湯、マテ茶専用カフェ「Porteñas Yerba Mate」in ニューヨーク

ブルックリンの街歩きでちょっと休憩したいとき、一風変わったカフェでお茶したいときはこちらがおすすめ。お店は、ウィリアムズバーグ地区にあるPorteñas Yerba Mate(ポルテニアス・イェルバ・マテ)。 ここでは、アルゼンチン人にとっての茶の湯、イエルバ・マテ茶をいただけます。専用カップ、Gourd(ゴード、グァンパ、写真上)で飲むのですが、下に行くほど苦味とコクがあって美味しいのです。 上品な甘みのイエルバ・マテ茶クリームブリュレとの相性もgood! 2020年2月に発売されたばかりの新商品、イェルバ・マテ茶入り(砂糖不使用)の栄養系フルーツジュース(5〜8ドル)。朝のエネルギー補給や肉料理ばかりが続いたときなどに飲んでみてください。 過去記事はこちら [All photos by Kasumi Abe and Porteñas Yerba Mate]All images and text are copyrighted. 本稿はTabizineに寄稿したものを一部加筆修正したもの。無断転載禁止

アート発信地をチェルシーからハーレムにする男 WhiteBox, ニューヨーク

NYのハーレムで行われた茶会 日本の茶会が、ハーレムのアートスペースで開催されると聞いて驚いた。 ハーレムと言っても最近キラキラした大型商業施設が立ち並ぶ都会の方ではなく、東側の「スパニッシュハーレム」だ。スパニッシュハーレムと言えば、ニューヨークにいる(いた)人はわかるが、治安が良くない地区としてのイメージが今でもある。そこで本格的な茶会が今晩行われるという。 何だか刑務所?のような大きくて重い鉄格子をゆっくりと開ける。 だだっ広いアートスペースが目の前いっぱいに広がった。 冷たい無機質な床に、温かみのある手触りのよい畳が敷かれている。茶の講師が座り、彼女を取り囲むように3人が畳に、別の3人が椅子に座り、お点前をちょうだいしていた。(そのほかにも多くの人が立って見物) 静寂の中、きちんと正座した女の子もいて可愛い! ここにいる誰もが茶の世界に敬意を表し、中には熱心に質問をする人も。ハーレムがこんなことになっているとは誰が想像したか。 場所はWhiteBox Harlem(ホワイトボックス・ハーレム)。2月1日から29日まで「Painter was called outlaw」というテーマで行われている展示会の中での1コマだ。 ここで日本の芸術を中心にキュレーションを行なっている佐藤恭子さんによると、期間中、日本人芸術家(長谷川利行、松本竣介、麻生三郎、宮崎進)の戦時中に日の目を見ることがなかった作品を展示し、その一環として茶会イベントを催したそう。これらの芸術家は、昔の日本では「アウトロー」(無法者)扱いされてきた。皆他界されているが、自分たちの作品が時を経て外国でお披露目とは、きっと誇らしげに思われていることだろう。 最近私は茶会のご縁が多い。この日も改めて茶やアートを含む日本文化の奥深さは、アメリカ人の興味を引くものだと実感した。 NYマンハッタンの中心地にあるお茶室と、そこで定期開催される本格茶会【ニューヨーク】 あるアートの専門家との興味深い会話 さて茶会が終わり、せっかくなので展示されているアート作品を見て帰ることに。 そこに来ていた、ニューヨークのブロンクス区でアート関連の仕事を長年しているという年配のルイスさんと、ある作品の前で立ち話になった。 ルイスさんと作品の前でお互いが感想を言い合ったのだが、会話の中で政治という意味のpoliticsという言葉が彼の口から幾度となく出てきた。私はこのアートの場でまったく予期しなかった言葉が出てきたので一瞬思考が止まり、彼が何の話をしているのか混乱するほどだった。 しかし彼はアートの長年の専門家だ。彼の言っていることは、おそらく「正しい」のだろう。だが私は昔から思ってもみないことを言ったり同意するのが苦手である。正直に理解できていないことを恐る恐る伝えてみた。 そうしたらルイスさん、「この前〜〜で出会った女性が」とさらに混乱する話をし始めるではないか。私の脳内はさらに「???」。ついに「話の腰を折るようで申し訳ありませんが、ちょっと話に着いていけていないかもです…」と伝えたところ、ルイスさんは「私はあなたから今、違う見方を学んでいます。これがアートの面白いところです」と言った。 同じ1つのオブジェクトを見ても、それまで生きてきた経験や知識をもとに、ある人は「政治的」だと感じ、またある人はまったく別のことを感じる。彼が以前出会った女性との会話は、それを彼に気づかせてくれた最初の出来事として、いつもこのようなシチュエーションで思い出すそうだ。 ルイスさんとの会話は私にも学びをもたらしてくれる興味深いものだった。わからないことはわからないと正直に伝える大切さ、そして正解というものがないアートの奥深さや面白さを改めて気づかせてくれた。 ハーレムを次のチェルシーにする男 ここにはもう1人興味深い人物がいた。 このスペースのオーナーで、スペイン出身のファン・プンテス(Juan Puntes)さんだ。彼はその昔、現代アートの発信地、チェルシーにWhiteboxを構えていた。そこが飽和状態になりローワーイーストサイドにスペースを移し、1年前にこのスパニッシュハーレムに引っ越してきた。 聞けば、このだだっ広いスペースは以前は消防署で、大昔は馬車の倉庫だったそう。道理でだだっ広く、ドアも重く、室内奥にも大きな倉庫っぽいドア跡が残っているわけだ。 実はこのWhiteBox Harlemの隣も、別のアートスペースなんだとか。 チェルシーに未だ集まる多くのギャラリーの賃貸契約の更新の時期が今から約10年前で、それ以降はローワーマンハッタンやブルックリンが次のチェルシーになるだろうと言われて久しい。「なぜこのギャラリーはブルックリンを選ばなかったのか?」と聞くと、彼はこのように答えた。 「ブルックリンは若すぎる。もっと成熟した市場が欲しかった。まさかハーレムのしかもスパニッシュハーレムとは、誰もが驚くけど、次(のムーブメント)はここさ」 「ついでに言っておくと」と彼は続ける。 「ここはギャラリーではなく、オルタナティブ(代替的)なアートボックスと僕らは呼んでいる」とあえて、ギャラリーという言葉を否定した。 NPO形態で運営し、ニューヨークの通常のギャラリーのように作品を販売しているわけではなく、grant(企業などからの補助金)で賄っていると言う。 地下フロアでは2月8日から3月1日まで、中国・武漢在住のアーティスト、ケ・ミン(Ke Ming)さんによる作品展もちょうど行われている。 すごいタイミングだが、これはまったくの「偶然」だそうだ。新型コロナウイルス騒動から随分と前に企画されたもので、そして残念なことに、ケさんは今回の騒動で来米できず、展示会に来れなくなってしまった。(ファンさんは武漢の人々を助けるべく、期間中は会場で募金活動も行なっている) ここではほかにも、中国北部出身のアーティストで来月この地下で自身の展覧会をするタンさんや、2ヵ月前にニューヨークに活動拠点を移したばかりの芸術家、野村在さん、そして千住博さんのところで10年ほど働いていたという原田隆志さんらにもお会いした。 アートはまったく専門外で普段はあまりご縁がないが、たまにはそういう所にも足を運んでみるものだ。こんな面白い人々との出会いが待っているのだから。 ちなみにルイスさんとの会話のその後だが、私もルイスさんも作品を見ながらしばらく別の人々と会話を楽しんでいた。そのうち彼は「またどこかで会いましょう」と軽く挨拶し去っていった。 連絡先も交換せず、ご縁があればまたどこかで。何とも後腐れのないニューヨークらしい出会いだ。 [All photos by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted.

051ファッショニスタに支持されるブルックリンの古着屋「Antoinette Brooklyn」

上質の「一点モノ」が見つかる! 「元気〜?」と近所の人々が次々に訪れ、オーナーのレキシィにあいさつします。2011年のオープンから9年。「(常連の)彼女は子供の頃から知っていて、親のような気持ちよ」とレキシィ。 世界中のファッショニスタに支持される「Antoinette Brooklyn」では、何十年も前に生産されたアルマーニ、ヴァレンティノ、ミッソーニ、バーバリー、アン・クラインなど、質と価値の高い1点モノの衣類や小物が並びます。 バイヤーでもある彼女の審美眼でセレクトされるのは、1940年代モノから98年モノまで。彼女いわく「ヴィンテージの定義には最低20年必要」で、2000年モノも入りそうですが、98年までと決めているのは訳があります。「ファストファッションは買わないの」。 おおよそ90年代後期から世界中に拡大していったファストファッションですが、環境に与える汚染問題や生産地の劣悪な労働環境は深刻です。「中国で大量生産された衣類は繊維の質が悪いから、すぐ毛玉ができて耐久性がないの。それ以前のアメリカ産の衣類は毛玉などできなかった」。確かにそうですね! 目からうろこでした。 接客中によく聞こえてくるのは「これは日本のデザイナーによるものよ」という会話。日本ブランドも彼女に認められています。 セレブの来店も多い 彼女は以前GAPジャパンで働いていたこともあり、日本が好きで、スタッフも日本人です。HBOのドラマ『ザ・デウス』の衣装スタッフが番組用に、また有名ブランドのデザイナーが昔のデザインを参考にするために、購入したりするそうです。 「日本人の顧客も多いわよ。ローラさん、米倉涼子さん、大島美幸さん、舟山久美子さん、松岡モナさん、植野有砂さんたちも来てくれたわ」 招き猫の影響は絶大のようですね! [by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム 、安部かすみ(Brooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止

Listening to music, feel like living in NYC!

「今を生きるためにここにいる。瞬間を生きているなら、止まることなく動き続けよう。天井なんてどこにもない」(撮影地:Brooklyn: Williamsburg, DUMBOなど) 「ブルックリンからシティー(マンハッタン)にやってきた。このコンクリートジャングル、ニューヨークでは、叶えられないことは何一つない」 「ニューヨークで酔っ払っちまって朝までしゃべった。けどキミと一緒にいる僕が好き 」(撮影地:Brooklyn: DUMBOなど) 「僕はニューヨークで生きる、孤独な英国男だ。何て言われようと自分らしく…」