1年3ヵ月ぶり「非常事態」が解除 NYはいま【昨年との比較写真】

「緊急事態は終わった。新しい章の始まりだ」 ニューヨーク州のクオモ知事は23日の定例記者会見でこのように述べた。 州では昨年3月7日にコロナ禍における非常事態が宣言されたが、今月24日をもって終了の期限を迎え、非常事態が解除された。 そもそもこの非常事態宣言とは当時、世界最悪の状況に陥った同州の新型コロナ感染拡大を受け、必要な予算、物資、州兵などの確保を目的に出されたものだったが、ワクチンの浸透と共に感染状況は落ち着いている。 1å¹´3ヵ月前といま(比較写真) 過去記事 (2020å¹´3月) 米海軍の病院船コンフォート到着 死者千人超えでも希望を捨てない人々(ニューヨーク、今日の風景) NY州最新の感染&ワクチン接種状況 ニューヨーク州の感染者数は、先月よりさらに減少している。 25日に実施された新型コロナ検査は9万7020回。うち、385件が陽性(全体の0.40%) 新型コロナウイルスによる入院患者(重症患者)数はこの日の時点で、371人 死者5人 州のワクチン投与実績…少なくとも1回接種は71.6% これまでに州内で投与されたワクチン接種数:2094万5467回 24時間以内に投与されたワクチン回数:11万7760回 少なくとも1回のワクチン接種を受けたのは、18歳以上の71.6%(すべての年齢層の59.4%) 必要回数分(1回もしくは2回)のワクチン接種を完了したのは、18歳以上の64.1%(すべての年齢層の52.8%) 非常事態解除後のNYのいま マスクの着用率は?(タイムズスクエア) 筆者は宣言解除の翌25日から週末にかけて、ニューヨークの中心地タイムズスクエアやセントラルパークなどに様子を見に行った。 まず、国内からの観光客だと思われる人出は先月よりさらに増えており、パンデミック前の活気が戻っていた。 州では先月半ば以降、ビジネスの入店・入場制限の規制のほとんどが解除され、地下鉄も本来の24時間営業に戻るなど、大規模に経済活動が再開している。ワクチン接種完了者は、公共交通機関や一部の商業施設を除いて、マスクの着用義務がない。 多くの人々はワクチンを打ったからこその「自由」を満喫しているようだった。大切な家族や友人とハグをし、さまざまな場所にマスクなしで躊躇なく行ける自由。パンデミックによりそれまでの当たり前が当たり前ではないと誰もが気づいたからこそ、なんてことのない日常がありがたく感じる。気候も良く、緊急事態が解除された軽やかな気持ちは皆、同じだろう。 同じだろう。 マスクの着用率は先月、ワクチン接種を完了した人でもまだ高いとレポートしたが、6月も後半になると、全員とはいかないまでも、マスクを外している人は大分増えていた。 マスクの着用率は先月、ワクチン接種を完了した人でもまだ高いとレポートしたが、6月も後半になると、全員とはいかないまでも、マスクを外している人は大分増えていた。 ニューヨークは毎年この時期、大規模なプライドパレードが開催されるが、昨年は中止、51回目の今年は「Pride March」と題してパレードが縮小し、ブロックパーティーやイベントが各所で行われている。 セントラルパーク 広大なセントラルパークでのマスク率はさらに少なかった(全体の1%ほど)。大多数の人はマスクなしで、ピクニックや読書、ジョギングなど思い思いの週末を楽しんでいた。 飲食店やバー 「QRコード・メニュー」がニューノーマル パンデミック以降、レストランやバーは歩道や車道だったスペースにテーブルを置き、感染防止対策をしているが、外は蒸し暑いからと屋内飲食する客も最近は増えている。 飲食店の中にはワクチン接種完了者のみを受け付ける店もあるようだが、筆者はこれまで一度もワクチン接種完了証明書の提示を求められたことはない。この店にはついうっかりしてマスクをせずに入店したが、通常通りに対応された。 飲食店の大きなニューノーマルの1つが、メニューブック/表の廃止だ。QRコードでメニューを見て注文するのが、飲食店での新たな常識となった(昨年の夏以降増えた気がする)。ミッドタウンにあるハンバーガーの美味しいこの店の女性サーバーに理由を聞くと、「衛生上の問題です。メニューは不特定多数の人がベタベタ触って不衛生だし、店側も客ごとに各ページを除菌するのは手間がかかるから」。そこで登場したのがQRコード・メニューというわけだ。 「もはや店内には紙のメニューはいっさい置いてないんですよ」との徹底ぶり。今後メニューブック自体が過去の産物として、新世代に「何それ?」と言われるようになるかもしれない。 またニューノーマルの1つだった、カクテルなど「アルコール類の持ち帰り」は25日以降はできなくなった。 州では、昨年3月の非常事態宣言と共に、バーやレストランの通常営業を禁止し、アルコール類も含むデリバリーもしくは持ち帰りに限り許可していた。 アメリカはもともとアルコールに関して日本より規制が厳しい。州によって多少異なるが基本的に路上飲みは一切禁止だし、ハードリカー類は酒屋でしか販売されておらず、当然夜間は閉まる。すべての酒類を購入するには写真付きIDを見せる必要も。そのような厳しい規制の中「お持ち帰りカクテル」は、市民にとって画期的なサービスだった。本来は禁止されているが、店の前の路上でこっそり飲む人も見かけた。 しかし今回、パンデミック前のガイドラインに戻るとして、本来のルール(持ち帰り禁止)となった。 関連記事 昨年10月の飲食店の様子 半数以上が廃業? この半年「生き残った」飲食店が行った新たな試みとは【NYで屋内飲食再開】 そのほか    地下鉄 スーパーマーケット オフィス 植物園、博物館 筆者はこの週末、ブロンクス植物園の草間彌生展「KUSAMA: Cosmic Nature」を訪れたが、世界の草間彌生人気を反映して、ここもものすごい人出だった。 温室や館内、土産店の入り口には「ワクチン接種済みであればマスク不要」とする注意書きがあり、接種完了済みの筆者はマスクを着けずに入ったが、接種証明書の提示は求められなかった。…

未接種で解雇、接種証明書の転売 …「ワクチン接種か否か」で揺れる米国

アメリカ各地の医療機関や大学などを中心に、従業員や学生に新型コロナワクチン接種を義務付ける動きが出始めている(未接種者は解雇)。ワクチンを打ちたくないが接種証明書だけは欲しいと、盗難事件まで出る始末。

全米の4人に1人が「ワクチン打たない」反ワクチン運動や職場訴訟も(動画あり)

摂氏34度の夏日となった6日午後4時過ぎ、ニューヨークのハーレム地区にある教会の前は多くの人が集まり騒然となった。 米国立アレルギー・​感染症研究所の所長、アンソニー・ファウチ医師とバイデン大統領夫人のジル・バイデン博士が共にAbyssinian Baptist Churchを訪れ、教会関係者、医療従事者、接種を受けに来た人々をねぎらった。この教会は今年1月以来、新型コロナウイルスのワクチン接種会場として使用されており、これまで1万2000人以上がここで接種を受けてきた。 ニューヨークではワクチン接種数の浸透と共に感染者数も減っており、先月19日より大規模な経済活動が再開した。 ニューヨーク州では少なくとも1回の接種を受けた18歳以上は68.6%。 この国で教会とは、人々の心の拠り所として、地域住民にとって欠かせない要の場所だ。社会的に弱い立場の人々にとっては尚更である。そのような神聖な場所が今、感染防止の最前線として大活用されている。 「特にブラック&ブラウン・コミュニティー(新型コロナで打撃を受けた黒人層やヒスパニック層が多く住む地域)であるハーレム地区の教会が接種会場になり、2人が視察してくれたことは意義深い」と、同教会のカルヴィン・バッツ牧師は地元メディアを通して語った。 ファウチ医師とバイデン博士が訪れ、現場を激励した時の映像 一方で会場外では、ワクチン接種反対派の人々による抗議活動も同時に行われていた。 ホワイトハウスの発表では、米国内で新型コロナワクチンを少なくとも1回接種を受けた成人は63%に、1回もしくは2回の接種を「完了」したのは52%に達している。 バイデン政権は来月の独立記念日(7月4日)までに「成人の70%が少なくとも1回の接種を受ける」という目標を掲げており、すでに70%を達成したのは12州となっている。全米で見てもあともう少しといったところだ。しかしワクチン反対派による抗議活動を見る限り、簡単な道のりとも決して言えないようだ。 なぜなら、これまでの数々の調査で、アメリカ国内のおよそ25%の成人が、ワクチン接種を受けるつもりはない、もしくは未定とされている。 その25%にあたる人々の一部がこの日抗議活動を行い、「私たち国民に選択の自由がある」「ワクチン必須な世の中なんて御免だ」「我々は実験用ネズミではない」などと、ファウチ博士やバイデン博士の方針を強く批判した。 市内ではすでに『レイトショー』などテレビの人気公開放送番組や、新たな観光スポット「リトルアイランド」の有料イベントなどさまざまな場所で、「入場するにはワクチン接種済み証明書が必要」という動きが出ている。 クオモ州知事も「今後ワクチンが完全に承認されれば、州立大学や市立大学の秋学期以降の対面授業には、接種完了の義務付けを予定」と発表した。 「スポーツ会場や大学などさまざまな場所でワクチンパスポートが必須なんてことになってはならない」と懸念するのは、「マスク、ワクチン、(歯磨き粉の)フッ素反対」という看板を掲げたショーンさん。 ただし現時点で成人の60%以上が少なくとも1回の接種を受けている現実を見れば、これらの反対派はごく一部の人々ということだろう。抗議の様子を離れた場所から冷ややかに見ていた近隣住民の男性は、ちょうど博士の視察中に息子がワクチン接種を受けに行ったため、外で待機中とのこと。CDC発行のワクチン接種完了カードを誇らしげに筆者に見せながら、デモについて「この人たちはクレイジーだと思う。やれやれ」と呆れ顔だった。 進む分断 ワクチン反対の動きは今や、訴訟問題にまで発展している。 米南部テキサス州のヒューストン・メソジスト病院(Houston Methodist Hospital)では、医師や看護師などこの病院に勤務するすべての医療従事者が現地時間の今日7日までにワクチン接種を受けるよう通達されている。接種を受けなければ2週間の無給待遇の処分を受け解雇もあるとし、「従業員にワクチンの臨床試験への参加を強制することは違法」と、117人が勤務先の病院を相手に訴える騒ぎになっている。 ファウチ博士とバイデン博士はハーレムの教会視察の翌7日朝、ABC局のトーク生番組『ライヴ・ウィズ・ケリー・アンド・​ライアン』に軽やかな表情で出演した。司会者にワクチン反対派についてどう思うかと聞かれ、バイデン博士は「接種はあなたのためだけではなく、あなたの周りの人のためでもあります」と答えた。 ホワイトハウスは出会い系アプリ9社とコラボするなどし、主に若い世代を対象にワクチン接種啓蒙活動に力を入れている。先月24日、ファウチ医師や人気ユーチューバーらと共に記者の前に現れたバイデン大統領は、このように訴えかけた。 (緊急事態下において)「ワクチン接種はあなただけの話ではない。これはオブリゲーション(人としての義務、責任)なのだ」 当日会場外のワクチン反対派のデモの映像 関連記事 米国で見え隠れする「ワクチン差別」…「ところでワクチン打った?」という会話に潜む危険性(現代ビジネス) アメリカで「ワクチン接種数」が“頭打ち”…? これは数ヵ月後の日本の姿かもしれない(現代ビジネス) 新型コロナに「打ち勝った」“先行事例”となるか?NYが復興へ前進、大規模再開へ NY主要駅で新型コロナワクチン接種。ワクチンツアーの観光客にも好評【筆者の接種体験】 米「ワクチン接種でマスク不要」 NY中心地のマスク率は? 街の人の声は? Text and photo by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

NYで多発するアジア人差別(1) 在住者の私の経験談

チャイナタウンの近くで男性が見知らぬ者から突然刃物で刺されたり、歩道で女性が突き飛ばされて大怪我をしたりするなど、ニューヨークでは今年に入り特に旧正月あたりから、再びアジア系の人々をターゲットにしたショッキングな事件が多発している。 新型コロナウイルスのパンデミックの影響で、当地で増加するヘイトクライム(憎悪犯罪)に対処するため、ニューヨーク市は「Stop Asian Hate」を呼びかけ、差別撲滅のための啓蒙キャンペーン”I Still Believe in Our City” (それでも私たちの街を信じている)をスタートさせた。 市は「誰でも差別なく生きる権利がある」と呼びかけ、嫌がらせがあった際にどうするべきか、日本語を含む各言語で情報を発信している。 市やメディアの報道によると、市内で起こったアジア系に対するヘイトクライム事件は、2019年は1件だったが、20年は30件に増加した。うち16件は暴力がらみの犯罪だった。また嫌がらせや偏見なども含む報告は、19å¹´2月から12月の間は30件だったのに対し、20年の同時期は205件に急増。アジア系の女性の方が男性より3倍多く、言葉による嫌がらせを受けている。 これらは報告されているものだけなので、実際の数はもっと多いのではないかと見られている。 「アジア人差別は実際あるの?」筆者の経験談 経験談を語る前に、筆者の見解をまず伝えておく。 国がどこであろうと、一般の人は基本的にある程度の常識や良心があると信じている。見知らぬ人に汚い言葉や態度で絡んでくるのは、ごく一部の無知で「ちょっとおかしな人」なのだと思う。 それを前提に、在住者としての経験談をシェアしたい。 ニューヨーカーは一般的にフレンドリーな性格で、筆者にとってここに住む大半の人は、コロナ禍になっても特に変化は見られない。 ただ思うこともある。以前は道で目が合うとニコッとする人が多かったが、最近は減った気がしている。近年、外国人が多くなり当地の良き習慣がなくなりつつあるのか、コロナになって人々に心の余裕がなくなってしまったからなのか、理由は不明だ(マスクをしているというのもあるかもしれない)。 次に、アジア人へのヘイトのようなものは、コロナに関係なくアメリカには以前からあった。例えば筆者が2000年代初頭、アジア人のほとんどいないペンシルベニア州の田舎を訪ねた時のこと。レストランで食事をしていたら、隣に座った女性2人のうちの1人が私をチラリと見て、このように言った。「私最近、中国人に仕事を取られたのよね」。明らかにアジア人である私に向けられた言葉だと直感でわかった。 トランプ元大統領は、選挙期間中に何度「中国ウイルス」という言葉を発したか。最近では2月28日のCPACで、久しぶりに公の場で演説し世界中に注目されたが、何度もこの中国ウイルスという言葉を繰り返した。世界で最も影響力がある人物の1人により、世界中の人々に「コロナ=アジア」が刷り込まれてしまった。アジア系の人を見て「仕事を取られた」「ウイルスを持ってきた」などと言ってしまうような無知な人々は近年、増加したことだろう。 さて前置きが長くなったが、この1年間のニューヨークでの筆者の経験として、結論から言うと、筆者自身がアジア人を標的とした暴言や暴力など「あからさまな差別」を受けたことは今日まで一度もない。 ただ、気になることがまったくないわけでもない。 一つは昨年、客のいない早朝のモール内の某有名カフェチェーンで、クロワッサンとコーヒーをオーダーした時にこんなこともあった。まず女性スタッフがとても無愛想だった。感染防止対策で店内飲食が不可のため、まずモールから屋外に出てレシートを見ると1ドル(100円程度)が上乗せされていた。そしてコーヒーカップの蓋が洗剤臭かった。私がアジア人だからそのようなことが起こったのか、それともスタッフ側の問題なのか、いまだに真相はわからない。(戻るのが面倒なのでクレームは入れず、その店には2度と行かないと決めた) アパートの住民にも気になる人がいる。2年前に引っ越してきた40歳くらいの男性は、私と道で会っても目を合わせないし挨拶もしない。ある日、筆者が隣人と表で立ち話をしていたら、その男性が通り過ぎて行き、彼の笑顔を初めて見た。私は彼に対して失礼なことを一度もしていないので、彼が無愛想なのは私がアジア人だからか、それとも彼の心の問題なのか、この辺の判断もつかない。そもそも感じの悪い隣人というのは、どの国にも存在するものでもある。 Updated(3.13.2021): 執筆後に思い出した3つのエピソードを以下に追加した。これらは一瞬の出来事なので、怒りというより驚きの気持ちの方が大きい。そもそもこれらの人々が「無知」なのは明らかなので、いずれも自分の中では雑音程度にしか思ってなかった。特に気にもならず遺却した出来事だったが、そういえばこんなこともあったと最近になって思い出したので、備忘録として残しておく。昨年2月、新型コロナのニュースが出始めたころ、筆者が密集したアートイベントの会場で観光客風の白人親子の近くに寄った時、母親と見られる女性が子を私の近くから離したことがあった(差別的忌避)。また年配のイベント関係者に「出身はどこか?」と真剣な顔で聞かれた。これも初期のころだが、地下鉄構内ですれ違いざまに、アジア系の年配男性に思いっきり咳を吹きかけられたこともあった。スーパーの中ではすれ違いざまに「チャイニーズが〜〜」と言っていた若い黒人男性にも遭遇した。そこにはアジア人は私しかいなかったので、私に向けた言葉だった。そもそもこれまでも中国人と呼ばれることはたまにあるが、親しみを込めた言い方とは明らかに違った。 当地に住む日本人の知人にもヒアリングしてみたら、「通りがかりに暴言を吐かれたことがある」という人が何人かいた。ただし「アジアや特定の国を指す言葉を吐き捨てられたわけではないので、アジア人である自分に向けられたものなのか周囲の人に対して言ったものなのかは不明」とのこと。 結局のところ、アジア系へのヘイトクライム急増の真相は、住んでいても実感としてよくわからない。私も周りの人々も「あからさまなアジア人差別」を受けたわけではなく、トラブルがあってもその背景に人種差別的な動機があったのかどうかは不明だ。 ただし「ウイルスを持ってくるな」と言われたり、唾を吐きかけられたり、駅や電車で暴行を受けたりしたなどの話は報道され、いくつか人づてにも聞くので、もう少し多くの人にヒアリングすれば、さまざまなケースが出てくるかもしれない。 また遅い時間帯や治安の悪い場所には不審者や精神障害者が増えるため、アジア系の人々が標的となる事件が起きやすいのかもしれない。 (次回は、実際に暴行を受けた日本人に話をお聞きします) 過去記事 ユナイテッド航空の乗客引きずり降ろし。アメリカで生きているアジア人として思うこと 「日本には差別がある」ナイキ広告が炎上し世界に波及 本国アメリカではどう映った? (Text by Kasumi Abe  Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

 NYタイムズスクエアの年越しカウントダウン  コロナ禍で史上初「無観客」

日本から14時間遅れて、ニューヨークでも年が明けました。 新年おめでとうございます! 当地の一番有名な年越しイベントは、タイムズスクエアのカウントダウン。 ボールドロップが始まったのは1907年(イベント自体は1904年)のこと。それ以来、100年以上にわたって毎年この地で行われてきたのですが(第二次世界大戦下の1942年、43年を除く)、コロナ禍の今年は史上初の無観客&バーチャル形式で行われました。 現地時間12月31日午後6時~翌0時15分(日本時間の2021å¹´1月1日午前8時~午後2時15分)、ウェブキャスト、Facebook、Twitterなどで生配信されたため、日本から観た人もいたかもしれません。 招待された人は、スポンサー企業関係者に加え、今年のヒーロー的存在である医療現場の最前線で働いているファーストレスポンダー、医療従事者、教師など一部のエッセンシャルワーカーと家族のみ。 そうは言っても教師だけでも相当な数いる中で、「どうやって選んだの?」と思っていたら、母親と一緒に参加していたある教師の女性は「勤務先の学校でインタビューを受けて選ばれた」と言っていました。面接に加えて数が多い場合は抽選などで選ばれたのでしょう。 このボールドロップの参加者は毎年、基本的に観光客もしくはニューヨークに移住したばかりの人が多く、地元の人は少ないので(極寒の中で早朝から場所取り、トイレなし、など過酷な状況なため)、今年は1年間の感謝も込めて、このように「ヒーローたち」に開放できてよかったと思います。また市がこのような形で彼らに敬意を表したというのも好感が持てます。 ライブパフォーマンスとして、グラミー賞を2回受賞したディスコソングの女王グロリア・ゲイナーがコロナの年にふさわしい“I Will Survive” や “Joy Comes In The Morning” “Never Can Say Goodbye”を披露(パワーみなぎる若々しいお姿と歌声。何歳?とググったら77歳!全然見えない…)。ほかにジェニファー・ロペス、ピットブル、シンディ・ローパー&ビリー・ポーターなども登場。 アンドラ・デイも、グラミー賞にノミネートされた“RiseUp”や“ForeverMine”、そして年が明ける直前には、ジョン・レノンの“Imagine”も披露してくれました。 これらの大スターがすぐそこのステージにいたんだけど、私など取材陣が入れるエリアからはスクリーンしか見れませんでした。音が聴けたのでよかったですが。 こんな感じで「異例」のボールドロップは今年も終わりました。例年に比べて人がとにかく少ないので迫力には欠けたけど、考え方によってはもう2度とないであろう(あって欲しくない)スタイルでのイベント。未だ感染拡大が止まらないコロナ禍において、withコロナ・イベントとしてはこのスタイルがもっとも適切だったのではないでしょうか。 2021年が皆さまにとっても、健康でより良い1年になりますように願っております! 2020-21年カウントダウン準備(インストール風景&おまけ映像つき) 2019-20年(コロナ禍直前)のカウントダウンの記事 2019-20年の動画 (Text, photos and video by Kasumi Abe) 無断転載禁止

「クリスピー クリーム」ドーナツ、NY中心地に復活 セックス・アンド・ザ・シティにも登場した人気店

私はこのクリスピークリーム(Krispy Kreme)ドーナツを食べると、いつも18年前、ニューヨークに来たばかりの頃を思い出します。 TVシリーズ「セックス・アンド・ザ・シティ」にも登場したということで、当時話題のドーナツでした。当時の私はマンハッタンのモーニングサイドハイツに住んでおり、すぐ近くのハーレムに住んでいた留学仲間がお気に入りっていうことで、ハーレムにあったこのドーナツ店に一緒に行ったのが始まり。店内奥に工場があって、そこで焼き上がったばかりの甘いドーナツをコーヒーと一緒にいただくのが、貧乏学生にとってのささやかな楽しみであり贅沢でした。 いつしかクリスピークリームはニューヨークから姿を消し、気づいたらペンステーション店だけ、あとはスーパーで見かける箱売りだけになっていったのです。 パンデミックの最中、タイムズスクエアに復活 そんな私にとっての「懐かしい味」が、今回ニューヨークに大復活しました。 オープンしたのは初の旗艦店。場所はNYの中心地、タイムズスクエア。時は2020å¹´9月15日という新型コロナのアウトブレイク最中! 取材した、最高マーケティング責任者(CMO)のデーブ・スケナさん曰く、本当は5月オープン予定だったけど、パンデミックにより4ヵ月も遅れたのだそうです。 見える工場 店に到着すると右側の列はドーナツやコーヒー購入者用、左側は体験型と聞き「どういうこと?」と思ったら、店に入ってなるほど。 店内左部分は「見える工場」になっていて、目の前でドーナツが作られている様子を「工場見学」できるようになっています。1時間に4500ものドーナツが作られていると言います。CMOのデーブさん曰く「世界中にある同社他店と比べて、旗艦店の工場は最大規模」。 消費者側からすると、目の前で作られている様子を実際に確認できるのは、安心ですね。 新店舗のコンセプトは「スタジアム型」だそうで、見える工場の向かい側には、野球場のようなシートがありました。つまりドーナツができる様子(試合)をそのシートから「観戦」できるというわけです。 エンタメはこの店の1つのテーマで、時折スタッフが全員で、急に楽しげに掛け声をかけて歌い出します。なんだかこのガヤガヤした熱気が、野球観戦にでも来たように気分を盛り上げてくれ、店内でもドーナツを買うのに待ったのですが、自然と楽しい気持ちになれました。 リピートする楽しさ 顧客に「リピートさせる」いくつかの工夫も見られました。 まず1つは、オリジナルグッズの豊富さ。 店の敷地の半分がグッズ販売コーナーになっています。売られているものは、各種Tシャツ、エコボトル、マグカップ、キーホールダーなど。NY観光シーズンがまた復活したら、お土産を買うのにおすすめです。 2つ目は季節ごとに変わるドーナツ。今の時期はパンプキンドーナツでした。 NY店限定ドーナツ「ビッグアップルドーナツ」(Big Appleにかけて)もあります。10.99ドルと割高ですが、CMOのデーブさんは「今のところトップセラーは、このりんごドーナツなんです」とのこと。 私のお気に入りは当時も今も「Original Glazed」(1.99ドル)と「Chocolate Iced Kreme Filled」てやつです。機会があればぜひ食べてみてください。 10年ぶり?15年ぶり?に食べたドーナツの感想はというと… フワフワ、超甘〜い、でも美味しい!通っていたハーレム店とあの頃の日々を懐かしく思い出しました。 この旗艦店は、今年のクリスピークリームの拡大戦略の一環であり、市内では今年だけでも新しく7店舗をオープンし、400人以上の雇用を生み出す予定だそうです。 (Text and photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止

056 Black Lives Matter 巨大路上アート出現

白人警官に殺されたジョージ・フロイドさんの死をきっかけに、全米に広がった、BLMことBlack Lives Matter(黒人の命は大切)ムーブメント。ごく一部の過激派や犯罪者により、暴動や略奪にも発展しましたが、現在は沈静化し、平和的にデモが続けられています。そんな中で現れたのがこの路上アートです。 DCに続きNYにも 6月5日、ワシントンDCでBLM関連の巨大ミューラル(=ミューロ、市公認の路上アート)が完成し、話題になりました。ニューヨークのデブラシオ市長も「われわれも、力強く叫ばれているBLMパワーを(市民に)感じてほしい。市は全面的にバックアップする」と言い、市内5区全てでのミューラルの完成を約束しました。 DCでの完成の1週間後、ブルックリンに市内初のミューラルが完成しました。場所は、人口の65%を黒人が占めるというベッドフォードスタイヴサント地区。この一角のフルトン通りに完成したのは、ビビッドな黄色で描かれた「Black Lives Matter」の巨大文字。早くも街並みにとけ込んでいます。約1ブロックいっぱいに描かれ、全長約114メートル、幅約8.5メートルもの大きさです。 アーティスト30人参加 プロジェクトを指揮したのは、ビリーホリデー・シアターのエグゼクティブ・アートディレクター、インディラ・エトゥワルーさん。著名アーティストのセイ・アダムスさんとダウッド・ウエストさんらがリードし、ブルックリンで活躍する約30人のビジュアルアーティストが共同で作業。13日に開始し、1日で完成しました。 またミューラルの傍には、人の形をした像もあります。フロイドさんの他に、NYPDに殺された黒人の犠牲者の名前がグラフィティー調のフォントで刻まれています。人々の記憶にいつまでもBLMの理念が残り、コミュニテーィの士気を高めてくれそうです。 ミューラルは、全米では他にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、オースティン、シャーロットなど多数の街で誕生中です。マンハッタンでは、五番街のトランプタワー前の道路も予定されています。2020年を代表するBLMのシンボルとして残されていくでしょう。 フルトン通りに面した雑貨店、ニコラス・ブルックリンに入ってみました。お香やアロマオイルが充実していました (c) Kasumi Abe ミューラルのそばには、フロイドさんをはじめとする犠牲者の名前が描かれた像も展示されています (c) Kasumi Abe [by Kasumi Abe]All images and text are copyrighted. 本稿はWeekly NY Japionのコラム ã€å®‰éƒ¨ã‹ã™ã¿ï¼ˆBrooklyn本著者)が案内する「古くて新しい、とっておきのブルックリンへ」からの転載。無断転載禁止

フランク・シナトラの曲「New York, New York」歌詞の和訳

Start spreadin’ the news, I’m leavin’ today  朝になりニュースが騒ぎ出す 今日は出発の日だI want to be a part of it 私はこの街の一部になりたいNew York, New York ニューヨークニューヨークThese vagabond on shoes, how longing to stray さすらいの旅人たちは彷徨うRight through the very heart of it  この街のど真ん中をNew York, New York  ニューヨークニューヨーク I wanna wake up, in a city that doesn’t sleep 眠らない街で、私は再出発したいAnd find I’m king of the hill そうして私は丘の上の王者になるTop of the heap この街のナンバーワンにのぼり詰める…

新型コロナで死者千人超えでも希望を捨てない人々(ニューヨーク今日の風景)

ニューヨーカーの希望の光 「我々が必要としていたものが今、ここに到着した。我々の仲間、海軍兵士によるこの病院船は、ただベッドや医療物資を届けるためだけにやって来たのではない。これは私たちの希望(Hope)なのだ」 現地時間3月30日午前、アメリカ海軍の病院船「USNSコンフォート」(以下コンフォート)がニューヨーク市マンハッタン区のピア90に到着し、ビル・デブラシオ市長はメディア向けのプレスカンファレンスで、力強くこのように語った。 ニューヨーク州内ではこの日、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染者が6万6497人、死者が1218人(前日965人)となった。コンフォートはこれらの事態を受け、州内にある医療施設のキャパシティを増やすために派遣された。 船内には1000床のベッド、12の手術室、80の集中治療室、医療ラボなどを備えており、ここでは新型コロナウイルス感染症以外の救急患者の治療が行われる。医療関係者1200人が任務にあたる。 Updated April 6: ニュージャージー州も含む新型コロナ患者の受け入れに転換しました(最大500床)。 コンフォートの船内の写真 バズフィードニュース コンフォートは通常、国外でのハリケーンや大地震の救済に使われているもので、ニューヨークにやって来たのは2001年の同時多発テロ以来だ。 実はこの日、ほかにジャビッツセンター(Javits Center)が仮設病棟としてオープンした。ジャビッツセンターは平常時、コミコンやNY NOWなどが行われる大型展示会場だ。ここには2500のベッドが設置され、新型コロナ感染症以外の患者が搬送される。 Updated April 3: 新型コロナ患者の受け入れに転換しました。 州内ではほかにも、大学のキャンパスやセントラルパークの屋外テントを仮設病棟とする計画が急ピッチで進められている。 関連記事: 防護服足りずゴミ袋代用の看護師死亡 NY州で死者1日で100人増【米・世界最多に】 コンフォートを一目見ようと多くの人々が集まったが、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)の確保がされておらず、警官が出てくる一幕も。 取材帰りの非現実的な光景 in タイムズスクエア ニューヨークでは今、エッセンシャルワーカー(医療現場や交通、スーパーや薬局などで働く人々)以外、自宅待機が求められている。筆者は前夜遅く、コンフォートのプレス用カンファレンスの知らせを急遽受け取り、この日約2週間ぶりに取材に出かけた。 カンファレンス終了後、地下鉄へ向かう途中、ニューヨークの中心地、タイムズスクエアがある。 いつもは全米そして世界中からやって来た観光客でごった返し、なかなか前に進めないくらい人が多いタイムズスクエアが、新型コロナの影響でガランとしている。 どの店もシャッターが降り、店内が暗い。人もまばら。いつもならうるさいほどのクラクション音もない。 感謝祭やクリスマスなど一連のホリデーがすべて終わり、年末最後の大騒ぎをする大晦日の翌朝、つまり静まり返った元旦のようだ。 この街とは1990年代からの付き合いだが、こんなに寂しいニューヨークを初めて見た。 駅に向かって歩いていると、タイムズスクエアの顔なじみの人と遭遇した。 年中パンツ一丁でギターを弾くネイキッド・カウボーイこと、パフォーマーのロバート・バーク氏だ。筆者は15年ほど前、彼に同じ場所でインタビューをしたことがある。まさかこんな誰もいない日にも彼がここに出没しているとは思わなかった(しかも気温は10℃ちょっと。まだコートが必要) 今日だけいつもと違うのは、オリジナルマスクを着けていることだ。 久しぶりに日本語の歌を目の前で歌ってくれたので、チップを出そうとしたところ、ロバートが「いらない、いらない」と言う。「なぜ?」と聞くと「今はソーシャル・ディスタンシングが叫ばれているからいらない。それより経済が早く回復してもらうことを願っている」とクールに言い放ち、次の通行人のもとへと去って行った。 さらに駅に向かって歩を進めると、今度はさっきまでシーンとしていたのに、突然大音量の音楽が聞こえてきた。派手な三輪のスポーツカー、スリングショットが信号待ちをしている。音楽はそのスピーカーからだ。 曲は、フランク・シナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』。 田舎からやって来た男性がこの街で一旗揚げるぞ、と意気込む希望の曲だ。この曲はニューヨークでは、イベントやエンターテインメントが終わった後、成功を記念してかかるお決まりで、毎年大晦日のタイムズスクエアのカウントダウン後の定番曲でもある。 筆者が最後にこれを聴いたのは、ちょうど同じ場所で2019年の大晦日のカウントダウンだ。 参照記事:筆者が2019年末に撮影した、タイムズスクエアの大晦日カウントダウンの様子 NYタイムズスクエアの年越し2019-2020 このスリングショットを走らせるのは、ニューヨーク州ロングアイランドから運転してきたマットさん。景気付けにやって来たようだ。 人のいないタイムズスクエアで、偶然出くわした『ニューヨーク・ニューヨーク』。 たった2、3人の通行人と共に聴く。 映画みたいなことが、いいことも悪いことも、 今ここニューヨークで起こっている。 [All photos and video by Kasumi Abe] All images and text are…

「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。© Kasumi Abe 水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。 私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。 ブルックリンブルワリー(Brooklyn Brewery)とは? 全米はもとより、日本や北欧でも流通するニューヨーク発の地ビール。創業は1987年。戦場ジャーナリストだったスティーブ・ヒンディ(Steve Hindy)が、中東特派員を終え帰国後、自宅キッチンで趣味のビール作りをしたことが始まり。クラフトビールという概念はここから始まったと言っても過言ではない。 (以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容) 80年代、戦場を駆け抜けた 私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。 それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。 妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。 最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。 そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。 翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。 振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。 ビール作りは自宅キッチンから そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。 当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。 それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。 治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業 ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。 その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。 しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。 ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。 今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今では60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう? 世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話 ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。 だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。 私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムを手がけたミルトン・グレイザーでした。 早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。 ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです! ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。 《誕生》「クラフトビール?何それ?」 ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。 クラフトビールとは? 当初、小規模のビール会社はマイクロブルワリーと呼ばれていた。American Homebrewers Associationが発行する雑誌で、コロラド在住のITライターが「ブルワリーはまるでマイクロプロセッサーのようだ」と表現したのがきっかけ。その後、スティーブが06年より会長を務め、現在は取締役会のメンバー、Brewers Associationでクラフトビールという言葉を使うようになった。 「我々が『クラフトビール』と名付け定義化することで、小規模のブルワリーの販売を促進しようとしたのです。生産量が年間600万バレル以下で、独立企業でかつ大手により25%以上の株シェアを持たせない、そして醸造免許を保持している──これらを満たせばクラフトビールと呼んでいいのです」 日本でクラフトビール、いつから聞くように? 過去30年以上の日本全国の新聞記事(約150紙)を一括検索できる「G-Searchデータベース」によると、クラフトビールという言葉の新聞掲載数は、2000年代初頭には年間15件、10年には35件、11年には99件。12年に入って3桁台の260件、13年には502件。14年に入って4桁台の1198件で昨年1年間では2167件。 《衰退から復活まで》資金が底尽き、二足の草鞋 91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。 事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。 ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。 ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。 ビジネスを成功させる秘訣とは?…