眞子さまNY移住で噂される3つの「就職先候補」ってどんなところ? 現地在住目線でその「魅力」を紹介

眞子さまの結婚後の移住先として注目されるニューヨーク。日本のメディアによれば、早くもいくつかの就職先候補が浮上している。 その就職先候補はどんなところか気になるだろうが、まず始めに、日本人を含む外国人が「アメリカで働くこと」について説明したい。 アメリカで外国人が就労するには、就労ビザやOPT(実践的経験を積むことを目的に与えられる就労許可)、就労許可証、またはグリーンカード(永住権)の中からいずれかが必要だ。また外国人が就労するということは現地の雇用を奪うことにもなりかねないため、その人の専門性や、その人でなければ業務が成り立たないというような雇用主からの証明書などが求められる。 また、一口に就労ビザと言っても職種や役職によってさまざまな種類が存在する。ニューヨークの一部の報道では、ロースクールを卒業した小室圭さんが今後取得するだろうとされているビザは、OPT(もしくは就労許可証)の後にH1-Bと呼ばれるタイプのもので、来春以降にH1-Bを申請するのではないかと言われている。 就労ビザやグリーンカードは通常、移民法専門の弁護士に依頼し申請する(移民法の専門知識があれば自分で行うことも可)。申請と取得には、時間とお金がかかる。筆者も以前ニューヨークの出版社に勤務していた際、H1-Bビザ保持者だったので、外国人がアメリカで就労するための苦労や労力を身を以て実感してきた。しかもH1-Bビザの新規年間発行数は6万5000件と決まっている。その枠内に入らなければアメリカでの就労は認められない。仕事があるにも拘らずこの枠内から洩れたため、泣く泣く帰国して行った人を筆者は何人も見てきた。この国で、自分が希望する職種や会社で合法的に就労することは、決して狭き門とも思わないが、限られた門であることは間違いないだろう。そしてビザ保持者の配偶者にとっても同様だ。 参照 オーサーコメント 一方でアメリカというところは、秀でた才能の持ち主や高額納税者を喜んで迎え入れ、グリーンカードや市民権を寛容的に与える国でもある。それがひいては国力に繋がることを考えれば納得だ。そして眞子さまは小室圭さんと結婚して小室眞子さんになっても、いわゆる一般の人ではない。アメリカ人は王族や皇室のロイヤルの称号を崇める傾向があり、「元プリンセス」「元ロイヤルファミリーの一員」「天皇陛下の親戚」という言葉の響きに弱い。よってそのような肩書きのある人を仕事仲間やコミュニティの一員として迎え入れたい気持ちになるのは、わからなくはない。一般人にとって容易くはない就労ビザやグリーンカード、市民権の取得でも、ロイヤルブランドで難無く可能になってしまうかもしれない。 そんな前知識を踏まえ、(あくまでも噂の段階ではあるが)眞子さまの就職が囁かれているニューヨークの3つの候補地がどんなところか紹介していきたい。 メトロポリタン美術館(MET) 現時点で米メディアにはそれらしき情報は出ていないが、日本の女性週刊誌により「就職先として急浮上」と紹介されたのが、マンハッタンの高級住宅地、アッパーイーストサイドに位置するメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)、通称メットだ。 ここは世界三大美術館の1つと呼ばれ、アメリカの美術館としては最高峰だ。世界各地からコレクションされた5000年以上にわたる文化・芸術遺産200万点以上を収蔵、展示している。アート業界に身を置けば、一度は働いてみたい職場かもしれない。 筆者は10年以上前、この美術館のペーパーコンサベーション(紙の修復・保存)部でコンサバター(修復・保存家)として勤務する日本人女性を取材したことがある。現在全部で何人の日本人や日系人が勤務しているかは不明だが、ウェブサイトを見る限り日本画のコンサバターとして日本人男性が勤務していることを確認できる。競争が激しいニューヨークのアート業界ではあるが、同館で眞子さまの「専門性」が求められれば、日本人であっても雇用される可能性は充分にある。 訪問するなら…筆者のおすすめ ゴッホやピカソ、フェルメールなどの中世ヨーロッパの名画、そしてエジプトからそのまま移転させた巨大な古代芸術は特に見応えあり。また館内には(日本から訪れた人にはあまり関心を持たれないが)葛飾北斎など日本の芸術展示コーナーもあり、地元の人々に高く評価されている。 館内は1日では周り切れないほど、とにかく広い。名作ぞろいと言えども1作1作見きれない。訪れる際は事前にどんなジャンルの美術を中心に鑑賞したいのか的を絞って臨むといい。 屋上にはルーフトップカフェ&バーもある。アートの鑑賞後、そこでの休憩は最高に気持ちが良いはず。 アメリカ自然史博物館 マンハッタンの高級住宅地、アッパーウェストサイドに位置するアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)も話題の1つになっている。こちらも現時点で米メディアにはそれらしき情報は出ていないが、別の日本の女性週刊誌で「眞子さまが数年前にお忍びで視察したことがある」として、就職先の候補の1つではないかと紹介された。 場所は真ん中のセントラルパークを軸に、前述のメットからはちょうど真反対側の西側に位置。館内では動植物、鉱物など自然科学・博物学にかかわる標本や資料を所蔵・展示している。創立は1869年と、こちらも長い歴史を持つ。 以前は大人向けにお泊まり会を開催したり、パンデミック以降は同館の一部を予約不要の新型コロナワクチン接種会場とするなど、斬新なアイデアも地元で評価を得ている。 過去記事 アメリカ自然史博物館で行われたイベント アポロ11号月面着陸から50年 記念展で「次に月に行く人は?」との問いに・・・ 訪問するなら…筆者のおすすめ 恐竜の標本や化石、プラネタリウム、動物や海洋生物のコーナーなどが見応えがあり、大人から子どもまで楽しめる。 海洋生物コーナーに展示されている、長さ29m近くの等身大の巨大クジラの模型は圧巻。1925年に南米の最南端沖で死骸として発見された雌のシロナガスクジラをモデルにしたもので、これまで存在した動物の中で最大のものとして知られる。クジラの模型の下は昼間でも薄暗くて静かなので、地元では密かに昼寝や休憩の名所として親しまれている。 ギャラリー 米ウェブニュースのPageSixは9月、眞子さまについて「留学先の英国レスター大大学院の博物館学で修士号を取得し、東大博物館で働いてきた実績やコネクションを買われ、ニューヨークのトップギャラリーは(眞子さまを)雇用しようと動いている」とする、アート業界の関係者の声を紹介した。 同サイトによると、イギリス王室のユージェニー王女もニューヨークのギャラリー関係の仕事に就いたことがあるという。同王女は2013年ニューヨークに移り、オンラインオークションハウスのPaddle8で働き、15年にロンドンに戻って、アートギャラリーHauser & Wirthに勤務したそうだ。 タイムアウトニューヨークによると、この街にはブロードウェイ劇場が40箇所、書店が100店あるのに比べ、ギャラリーの数はなんと1500にも上るという。働き口はいくらでもあるということだ。 その多くは以前は、ソーホー地区やローワーイーストサイド地区、ブルックリンのダンボ地区に、現在はチェルシー地区に集まっているが、近年はブルックリンのほかの地区やマンハッタンのハーレム地区、クイーンズなどニューヨーク中に広がっている。 毎日どこかでオープニングイベントが行われ、シャンパン片手にアート好きが集まって談笑をしている。 ニューヨークにはこのほかにも素晴らしい美術館や博物館、個性的なギャラリーが点在しており、アート好きにはたまらなく魅力的な街だ。眞子さまが移住されたら、公私共にきっと気に入られるに違いない。 ギャラリー関連 過去記事 ハーレムのギャラリーで行われたイベント NYのアート発信地をチェルシー→ハーレムに企てる男 ある茶会での出会いと学び(武漢アートも) Text and photo by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

脱プラになって万引きが急増。スーパーで万引き犯と目が合った日の話、つづき

この記事を出すタイミングを伺っているうちに下書きフォルダーにずっと入っていたのですが、昨日ヤフーニュース個人にアップした記事に関連しているので、この機会にアップしようと思います。 2020年秋、スーパーで万引き犯と目が合った日の話。↓ プラスチックの買い物袋が有料化になって、万引きが増えたのでは?について、以前このようなオーサーコメントをYahooニュースでしました。 このコメントでも触れましたが、実際にスーパーでビール瓶をポケットに入れて、出口で見つかっている人を見ました。また最近、いろんな大型リテール店に行くと、出口に2人くらいスタッフが立っていて「なに?ご丁寧にお見送り?」と思っていたけど、あれ違ったんですよね。 このトピックが久しぶりに気になったのは、週末ちょっと興味深いことが起こったからです。 週末のまとめの食料品買い出しに、近所のスーパーに行きました。買い物をしていたら、フワ〜と視界に見えたのです。盗んでいる人が!少し離れたビールコーナーで、ビール瓶を自分の袋(エコバッグと言うにはとても汚い、使い古された袋)に入れているおじさんを。70代ぐらいの方でした。 あぁいうのは、見なくても目に入ってくるもんなんですね。 私、自然とそのおじさんをジーと見てしまった。しばらく。そしたらおじさんがギョロッとした目で私を見て、こう言いました。「あなたは息子か誰かを探してるの?」私は「いいえ」と返したら、おじさんが「そうなのですね、さっきスケートボードで走ってる小さい男の子がいたんだよね。だから探しているのかと思った」とのこと。 でも、この会話とてもおかしいです。 そもそも、小さい男の子はその辺にはどこにもいなかった。もし私がその男の子を探していても、おじさんをジッと見る理由には繋がりません。 「このおじさんは常習だ」と直感で思いました。 私は顔を覚えられたら面倒なので、そのおじさんとの会話はそれで終え、もうこれは考えなしで、すぐさま近くの店員さんのところに行き、見たものをそのまま伝えました。 「誰かがビールを盗みました。そこのコーナーにいる人です」と。そして「私、あまりこういう(チクルような)ことしたくないんです。私が見たと伝えないでほしい」と伝えました。 店員さんははもちろんわかった、と言ってそのおじさんの顔を確認しに行き、「あぁ(またいつものあの人だ)」という顔をして、私にお礼を告げ、同僚?上司?に報告に行きました。 私はそもそもこういう非生産的なゴタゴタに時間を取られたくないし、おじさんに顔を覚えられて恨まれるのは嫌なので、私にとってまったくいい経験ではありませんでした。 でもその後この経験を思い返してみて、あのおじさんて、いつもそういうことしている人生なんだなと思ったら、少しかわいそうになりました。だって、どこか後ろめたい気持ちで店に行ったり(窃盗は慣れているのであれば後ろめたい気持ちもないかもだけど)、「あ、またあいつがきたから見張ろう」と思われる生活や人生なんて全然ハッピーじゃない。 補足すると、ニューヨークは税金が高い分、低所得者はフードスタンプというスーパーで使えるチケットを配給してもらっているんです。また定期的にフードの配給もあります。コロナ禍になって長蛇の列ができています。無料のフードをもらうのはIDとか必要なくて、『誰でも』(外国人の私でも)もらおうと思ったら食料をタダでもらえます。つまりNYでは餓死が起こりにくいシステムだし、お金がなくても指定の店で「買える」システムになっています。 詳細 コロナ禍のNY 救済活動で浮き彫りになった貧困と食料問題(思いが込められたランチはおいしかった) でも、、、配給品に、流石に嗜好品は含まれないんですよね。だから吸い殻のタバコを拾って吸っている人をよく見るしあのおじさんみたいに、ビールを飲みたかったら盗むしかないのでしょう。(そもそもそんな高くないんですけどね) ま、とにかくあのおじさんの行動を思い返しながら、学んだわけです。外国人の私でも、コロナ禍で配給所に並ぶことなく生活できてるって、なんてラッキーだろう。普段、贅沢はしていないけど、外食したかったら外食できて、スーパーで好きなものを買えるし、なんて自分は恵まれているんだろう、と教えてもらえたわけです。 あのおじさんがもう一つ教えてくれたのは、やはり犯罪には注意しようと。あのような方は、普通の人に比べると、犯罪をするしないの判断ネジが、普通の人と比べて1つも2つもゆるい。例えば、盗む生活が当然になると、お金払って物を買うのは馬鹿らしくなります。そうしたらエスカレートして、別の犯罪も普通になってしまう。私は普段あまり考えもしなかったけど、窃盗とかスリとか、ニューヨークは2000年代以降、ヨーロッパなどに比べて少なかったわけですが、今後は気をつけなければと改めて思いました。あのようなおじさんが、次はいつ強盗犯になるかもわからないし(私は一度、以前の自宅に強盗に入られた経験あり)、治安悪化のニューヨークで、さらに身を引き締めて気をつけようと思ったのでした。 あと最後に、、、 たまに子連れの若いお母さんも、バッグに商品を入れている人を見かけます。支払っているのかいないのか不明だが。子連れの若い白人の母親なんて、店側からすると「ノーマーク」です。 日本でも外国人というだけで、警察に突然路上で事情聴取を受けたりと同様のことが起こっているが、アメリカでも同様のことが起こっています。つまり人種、性別、格好など「見た目」により「そのように(犯罪しそうな人)」という烙印を押されマークされ取り調べが起こることがあるのです(Stop-and-frisk=ストップ・アンド・フリスクと言われるものです。レイシャルプロファイリングは許されることではありません)。 これも悲しきかな、アメリカの現実。 Text by Kasumi Abe 安部かすみ  無断転載禁止

NYドラッグストアの棚が“再び”「空っぽ」に… その意外な理由とは

筆者は数週間前、ニューヨーク市内のドラッグストアに歯磨き粉を買いに行った際、ちょっとした「異変」を感じたことがあった。 異変その1 歯磨き粉の売り場が「空っぽ」だったこと。商品は見事に売り切れ状態だった(写真上)。 ニューヨークで新型コロナウイルスが感染爆発する直前の昨年3月、同様にどこの店も陳列棚がすっからかんになったことがある。その時以来の光景だ。 未曾有のパンデミックに備え不安になった人々がスーパーやドラッグストアに押し寄せ買いだめをしたため品切れ状態になり、棚という棚が空っぽになった。 過去記事 「必要な物がスーパーにない」買いだめに殺到するNYの人々(2週間前と今) しかしそれ以来、全米で物資は有り余るほど供給されており、この日ドラッグストアで見た光景の方が今や珍しいため、筆者は不思議に思った。 まぁでも「抜け」の多いニューヨーク。スタッフの陳列作業がこの日は滞っているのかもしれない(?)とも思った。 異変その2 歯磨き粉の棚に鍵がかけられていた。 アメリカの小売店の商品棚の施錠と言えば、粉ミルク、一部のやや高額な薬やスキンケア売り場ではこれまでもよく目にしてきた光景だ。 それらがなぜ施錠されているか。そのような商品は万引きが比較的多いからだ。 商品を手に取って見たり購入したりする場合はスタッフに知らせて鍵を開けてもらわねばならない。 しかし筆者が数週間前に目撃した、新たな施錠の商品は「歯磨き粉」である。歯磨き粉と言えば、どんなに物価の高いニューヨークでもせいぜい1チューブ4~6ドル(500円前後)で買うことができる。 筆者は長年この地に住み、こんな物にも施錠をして管理しているのを初めて見たので、流石に疑心を抱いた。 そして最近、ある報道を見て合点したのだった。 今や“金鉱”となったドラッグストア 9日付のニューヨークポストは「Third World’ NYC drug store shelves empty amid shoplifting surge」(万引きの急増につき、まるで第三世界と化したニューヨークのドラッグストアの棚は空っぽに)という見出しで、市内の小売店で盗難事件が増えていることを報じた。 盗難件数は、9月12日の時点で2万6385件に上り、1995年以来の多さだという。昨年の2万24件から32%増加、2014年の1万9166件から38%増加した。 つまり、通常であれば潤沢に揃っている日用品が売り切れ状態にあるのは、万引き犯により「ごっそりと持って行かれた」ためのようだ。どうりで筆者が立ち寄ったドラッグストアがあのような「もぬけの殻」状態になっていたわけだ。 スーパーやドラッグストアなど小売店での万引きはこれまでも市内で頻繁に発生していた。近年、店の出入り口に盗難防止用の防犯ゲートが取り付けられていることが多いが、そのようなものがない時代は、入り口に棚が設置され、バッグ類はそこで預かるシステムだった。 そして防犯ゲートが浸透している昨今でも、筆者は普段の生活を通して、出口で警備員に見つかっている(もしくはゲートで引っかかるも大胆にそのまま逃げ切る)万引き犯をたまに見かけることがある。そのような光景は昨年から増えた気がする。 理由はいくつかあるのだろうが、一つはプラ製レジ袋の削減のために昨年より買い物袋の有料化がスタートし、客がエコバッグを持参するようになったことも関連しているかもしれない。 筆者は昨年以降、スーパーで堂々とエコバッグや中身が見えないカートに商品を入れている人を何人も見かけたことがある。多くはレジで支払っているようだが、無人のセルフレジも多い中、彼らが全部正直に申告しているかは謎だ。 そしてある時、慣れた手つきでビールを小汚いバッグに押し込んでいる人物を目撃した時には、流石に筆者の目も点になっていたようでその人物と目が合ってしまった。老齢のその男はまったく怯むことなくギョロッと目を光らせ「あなたは息子か誰かを探してるの?」と不思議な質問を投げかけてきた。「さっきスケボーで走ってる小さい子がいたから探しているのかと思った」とのこと(当然男の子なんて周辺にはいない)。筆者はその後、店のスタッフにこっそり伝えたところ、スタッフは「あぁ、またあの人か」という顔をし「我々はレジで待ち構えるから大丈夫。知らせてくれてありがとう」と言ってほかのスタッフの所に向かって行った。 過去記事 NYでプラ製レジ袋有料化スタート 施行初日、本当にレジ袋は消えたのか? オーサーコメント  (1)   (2) 万引きを目撃しても店員は犯人を捕まえない。その理由は? 現在市内で急増している窃盗犯は単独犯というより、プロによる専門の組織グループによる犯行だという。確認されているだけでも市内には77人の実行犯が活動しており、犯人は歯磨き粉、洗顔料、ボディソープ、サニタイザーなど日用品をごっそりとバッグに入れて盗み出し、それをアマゾンなどオンラインサイトで転売しているケースが多く報告されている。 例えば常習犯の1人、アイザック・ロドリゲス容疑者(22歳)は万引きで今年だけで46回逮捕されている。FOXニュースによると、ある店の店長の証言として、「(同容疑者は)毎日ここに来ては物を盗む。その度に我々ができることは警察に通報することくらいだ」。 なんでも「安全上の理由」により、スタッフは万引きを目撃しても「通報以外に何もしない」がこの店のポリシーという。そして万引きの常習犯で逮捕されたとしても起訴されず同日釈放になることが多い。州の保釈改革法により釈放され自由の身となった犯罪歴のある者にとって万引きは「好んで選択するキャリア」になっているようだ。 常習犯である同容疑者は暴行容疑でも逮捕され「ついに」刑務所に入れられたようだが、犯行を目撃しても犯人と対峙せず、犯人は犯人で御用となってもすぐに釈放されるというのは、なんとも重犯罪が多いアメリカらしいエピソードだ。 そして窃盗犯罪の急増はニューヨークだけの事象ではないようだ。ウォールストリートジャーナルは、全米の小売店が組織犯罪の標的になっており、被害総額は450億ドル(約5兆500億円)にも上ることを報じた。 サンフランシスコのある犯人は、総額1000ドル(約11万円)分のアレルギー薬を盗み出し、車に詰め込んだ後再び別の店で同様の犯行に及んだとある。このような犯人は「ブースター」として知られる、組織化されたプロの犯行グループの一味によるもの。 つまり筆者が見た、鍵のかけられた歯磨き粉やボディソープなどは「ごっそり持って行かれない」ために店側が取り組み始めた、最大限の自衛手段ということだ。 市内の小売店ではあの手この手で自衛され、警察官が店内をパトロールしている報道も見るが、警官が各店内に留まって四六時中目を光らせる、なんてことはこの犯罪の多い都市で実現不可能だろう。 消費者側の視点としては、商品を購入するのに(または購入せずとも商品を手に取って見たい時に)わざわざ店員を呼ばなければならないとなると面倒なハードルが1つできてしまい、であれば気軽に手が届く店舗に行こうという気になる。鍵がかけられている店から客の足が遠のくのは確かで、店側にとっては商品を盗まれることと同様に死活問題であろう。 恐れ知らずの大胆な窃盗集団と、それを阻止しようと取り組む小売店。イタチごっこのような攻防戦は、犯罪都市ニューヨークが抱えた新たな頭痛の種となっている。 過去記事 刑務所も新型コロナの温床に NYで6ix9ineら受刑者650人を釈放、懸念される治安悪化 Text and…

人種差別、リンチのトラウマをアートに。ウィンフレッド・レンバート展 Winfred Rembert: 1945-2021

ニューヨーク、ミートパッキングにある3階建のギャラリー「フォート・ギャンズヴート」では、10/8から12/18まで「Winfred Rembert: 1945-2021 」(ウィンフレッド・レンバート展)が開催される。 ウィンフレッド・レンバートさんの作品は、革をキャンバスに、レザーカーヴィングと靴の染料を使って仕上げられている。 革に描かれているものは、鎖で繋がれた囚人たち(チェーンギャング)、首を吊られている姿、殴られて血が噴き出しているイメージ、警官から追われているイメージ…。 彼がなぜそのような作品を作るようになったか。 人種差別が色濃く残っていた南部ジョージア州で1960年代、公民権運動の最中に逮捕状もなく拘束され、7年間も投獄させられた。刑務所内では監守からのリンチ、拷問は日常茶飯事に行われ、出所後もトラウマになる程だった。奥様のパッツィーさん曰く、彼は亡くなるまで悪夢にうなされた。 つまり、彼の記憶から抜け切れなかった悲惨な記憶が、時に色鮮やかにアートとして表現されている。その原動力は、奥様のパッツィーさんが「あなたならできる」と励ましたことによる。刑務所内で覚えた皮製品やデザインなどを生かし、ウィンフレッドさんは作品を次々に生み出した。 彼の作品は目を覆いたくなるほど悲惨記憶の中に生活があり、時にカラフルである。 そんなウィンフレッドさんだが、今年の3月に75歳で亡くなった。この日のプレスプレビューにはパッツィーさんだけが出席して、彼の替わりにそれぞれの作品を解説してくれた。 3階スペースの奥には、首を吊られた黒人男性の絵があり、このようなメッセージが添えられている。 「あぁ神様、私はまだ生きている。生き残った。そして私はリンチを受けてサバイブした生き証人として、絵や本に残し、後世に何が起こったかを伝えることができる。もし死ぬことがあっても老衰であり、ロープで(吊られて)死ぬことはない」 Winfred Rembert: 1945-2021 (ウィンフレッド・レンバート展) 10/8~12/18, 2021 Fort Gansevoort New York5 Ninth AvenueNew York, NY, 10014 Text and photos by Kasumi Abe 安部かすみ(ノアドットより一部転載)無断転載禁止

「日本にいる時より幸せ」有力紙が米移住の元皇族発言を引用。眞子さま結婚 米で一斉報道

眞子さまと小室圭さんの結婚が、宮内庁により正式に発表された。同時に眞子さまが複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されたことも明らかになった。 アメリカでも1日、CNN、ブルームバーグ、ロイターなど主要メディアにより一斉に報じられた。そして、2人が今後住むことになるだろうニューヨークでも、ニューヨークタイムズ、ウォールストリートジャーナルといった有力紙の記事も確認できる。 ウォールストリートジャーナルは「Japan’s Princess Mako to Marry as Palace Blames Media for Her PTSD」(眞子内親王はメディアの批判によってPTSDを発症し、結婚へ)という見出しで、眞子さまに関する記事を初めて報じた。 同紙は「日本のスクラッピー(ちぐはぐ、とっちらかったなどの意)な週刊誌やそのほかのメディアによる報道が繰り返されてきた。それらは(小室さんの)父親の自殺を含む家族のことを調べ上げ、最近では帰国時のポニーテール姿を批判した」など、これまでの背景を紹介。 また結婚自体については「基本的人権の問題であり他人が干渉してはならない」とするコメントを引用し、記事を結んだ。 最近の動きについて静観していたニューヨークタイムズも、眞子さまの結婚について報じた。「A Princess Is Set to Be Wed. But It’s No Fairy Tale.」(プリンセスが結婚へ。しかしそれはおとぎ話ではない)という見出しで、この結婚が多難であることを示した。 同紙は眞子さまについて、「第二次世界大戦後に皇室に関する新憲法が日本で施行されて以来、一般市民と結婚する9人目の女性皇族」であると紹介。そして3人の女性 ── メーガン夫人、皇后雅子さま、元皇族の島津貴子さんの事例を引き合いに出した。 メーガン夫人 眞子さまの複雑な結婚問題とよく引き合いに出されるヘンリー王子とメーガン夫人の英王室離脱騒動(メグジット)と比較し、日本の皇室についてはこのように紹介している。 Japan’s staid royal family is low on star power and has largely avoided the dramas surrounding the British royals. The family, the…

小室圭さん報道で考える「人の見た目問題」。日本は真の多様性に向け何が必要か

眞子さまと小室圭さんの結婚問題に注目が集まっている。最新の報道では、ニューヨークに暮らす小室さんがミッドタウンで一時帰国に必要なPCR検査後、日本のテレビ局にスクープされたという話題で持ちきりだ。 小室さんと母親のさまざまな疑惑について多くの国民が納得していない状態では、何をしても火に油が注がれる状態のようで、一挙手一投足がマスコミの格好の餌食となってしまっているようだ。 さてニューヨークでの路上スクープについて、筆者は当地に長く住んでいる身として、どうしてもニュースフィードに並ぶ「長髪」「ロン毛」「コムロン毛」「ポニーテール」などという言葉が気になってしまう。 近影の長髪姿を見たが、後ろで縛って不潔な印象は特になかったし、普段はほとんど寮から出ていない生活のようだから、(結婚、就職、労働ビザ取得などの準備で)忙しすぎて髪を切りに行く時間がなく自然と伸びてしまったのかな、くらいの印象しか持たなかった。しかし、これほど長髪についての見出しが並ぶと、否が応にも気になってしまう。 日本はそもそも、髪型(ヘアスタイル)について厳しい国だ。学校では生徒の髪型や服装を校則で厳しく取り締まっているし、令和の時代においても生まれながらの自然な茶髪を黒髪に染めるように言われた、本人の意向を無視し教師が勝手に手を加えた、天然パーマを縮毛矯正するよう指導された、三つ編み禁止を通達されたなど、意味不明な校則がいまだに存在するようだから、小室さんの「長髪報道」もなるほど日本らしいと思った。 小室さんが今いるのはニューヨークであるから、ニューヨーク事情を説明すると、多民族が暮らすこの街では、人の見た目や身体的特徴について、例えば障害はもちろんのこと、肌の色、髪型、体型などについて、他人があれこれ物申すのはハラスメントにあたり、タブーとされている。 髪型に関することは特に近年、規制が強まっており、2019年より州内の職場において、従業員の髪型について言及したり、髪型を理由に不採用にしたり解雇したりすることを法律(人権法=NYSHRL)で禁じた全米初の都市になった。 このような法律がなぜできたかと言うと、裏を返せばそれだけ髪の毛を含む見た目にまつわる嫌な思い(ハラスメント)を多くの人が受けているからにほかならない。被害を受けやすいのは主に黒人、ヒスパニック系、ユダヤ系などで、近年でも職場や学校で、そのようなハラスメントが皆無とは言えない。たびたびニュースにもなっており、例えば18年、ニュージャージー州の白人が多く通う高校のレスリングの試合において、審判がドレッドヘアの黒人選手に対して、髪を切るか試合を棄権するかの選択を迫り、一時試合に出場できない事態になったこともある。 ちなみにアジア系が髪型で被害に遭うケースはほとんど聞かないが、それでも身体的特徴について言及されたというようなケースは存在するようだ。 多民族が共存するNYで求められること 誰の髪が長かろうと、ドレッドロックスだろうと、スキンヘッドだろうと、この街では我関せずが求められる。その人のそのままの姿を受け入れるというのが、真の多様化に向けた1歩になるのではないだろうか。 人の見た目について他人があれこれ言及することがタブーと言えど例外はあり、「褒める」ことは歓迎されている。もちろん異性を過度に褒めちぎることやリップサービスは注意が必要だが、例えばYou look great.(元気そうだね)やYou changed your hair. It looks nice.(髪型変えたんだね。いいじゃん)などは普段の会話でもよくされる。 またそれほど多くはないものの、自虐に他人が多少乗ったり笑い合ったりするのは問題ないとされている。アメリカ人特有のユーモアセンスで、自虐ネタで会話を和やかにするのはよくあることで、コメディの技法でも使われる。 ただ日本人にとってトリッキーなのは、褒め言葉だと思ってかけた言葉が、外国人にとっては実は褒め言葉になっていないものがあることだ。 例えば、日本人が外国人を見て言ってしまいがちな「顔が小さい」「鼻が高い」「(女性の)背が高い、大きい」「髪が多い、少ない」などはNGワードだ。「痩せた」も褒め言葉のようで実はアメリカでは褒め言葉ではない。アメリカでは痩せていることが必ずしもよしとされておらず、太った・痩せたは健康に関わるデリケートな話題のため、よっぽど親密な関係でない限り避けた方が無難だ。 褒め言葉か否かの判断がつきにくい場合、他人の見た目について「何も言及しない」のが賢明だろう。 話が少し脱線してしまったが、今回小室さんの長髪にまつわるヘッドラインがなぜこれほど多いのかというと、「眞子さまの婚約者らしからぬ」ということがあるのだろう。筆者は個人的に、だらしない格好ではなく清潔感がなくされていなければ、どんな髪型でも格好でも気にならないのだが、そのような価値観は日本で許されないのだろうか。「こういう人はこうあるべき」「このような職業の人はこういう格好をするべき」などという固執したイメージを強く持ち続ける限り、なくなっていかない価値観だろう。これは日本だけではなく、イギリスでもヘンリー王子と結婚したアメリカ人のメーガン妃がイギリス国民にだいぶん叩かれてきた。(そんな彼らもカナダを経て現在アメリカ在住) そもそも、小室さんは多民族が共存するニューヨークに移り住んで3年も経つから、日本独特の「〜らしさ」「〜であるべき」という価値観の中でもはや生きていないかもしれない。 反対意見ももちろん多いだろうし、どれが正解かは見えづらい話題ではあるが、今回の「長髪報道」でふとニューヨーク現地から考えさせられたことだった。 関連記事 オーサーコメント 子どものヘアスタイルと多様性、アメリカでは訴訟問題。(フィガロジャポン) 悪気ない行動に差別のDNAが宿っている?有名人ブログの「あえて白人」発言の違和感 近藤サトさんに学ぶ「ありのまま」の美しさと、アメリカ人のグレイヘア観 Text by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

20年の節目に、現地取材で感じたこと【米同時多発テロ NY追悼式典】

2021å¹´9月11日。雲一つない秋晴れの美しい朝を迎えた。 気温は摂氏26度。9月も半ばになろうしているが、日差しはまだ強い。 アメリカ現地は今日、同時多発テロから20年を迎えた。世界貿易センター跡地であるグラウンドゼロには多くの人々が朝から集まり、あの日に思いを馳せ、犠牲者に哀悼の誠を捧げた。 グラウンドゼロでは午前中、遺族を招いて追悼式典が行われ、バイデン大統領をはじめ、オバマ元大統領やクリントン元大統領といった歴代大統領が参列し、国民に結束を改めて呼びかけた。 さらに緊張する中東問題を鑑み、現場ではテロ防止のためのより厳重な警戒態勢が敷かれていた。筆者は昨年もこの日をここで迎えたが、昨年の式典より何重にもチェックポイントが設けられるなど、最高レベルの厳戒態勢を実感した。 歩いていると時折バグパイプの生演奏が聞こえてきた。すぐ近くのアイリッシュパブ、O’Hara’s Restaurant and Pubの中からだ。 このパブはグラウンドゼロおよび消防署から目と鼻の先にある。テロで命を落とした消防士にここの常連も多かった。事故で損傷し7ヵ月後に再開した後、消防士や作業員の辛い日々の心の拠り所として「再生への活力」を与えてきた。 この日の賑わいは、同窓会のようでまた格別だった。朝からバグパイプ演奏に耳を傾けながらギネスを飲み、犠牲者(彼らにとって元同僚)に思いを馳せながら、特別なこの場所で再会を喜び合っているようだった。哀情だけではない、前向きなエネルギーを感じた。 バイデン大統領はグラウンドゼロの追悼式典を途中で退席し、ペンシルベニア州シャンクスビルのフライト93ナショナルメモリアルへ移動した。ハリス副大統領と、2001年テロ発生時の最高司令官を務めたジョージW.ブッシュ元大統領らと合流した。大統領は夜、国防総省の式典にも出席予定だ。 グラウンドゼロの式典が滞りなく行われたのを見届けた今、筆者が20年という節目において取材を通じて知ったこと、感じたことを、ここで改めてまとめることとする。 今も続く犠牲者のDNA鑑定 20年経った今もまだ、家族の亡骸に対面できていない(埋葬もできていない)人が多いというのは、8日の記事で書いた。 ニューヨークタイムズによると、DNA鑑定は倒壊跡地から見つかった骨片などを使って行われているが、無傷の骨からDNAを採取することは困難なため、骨片などは可能な限り細かく粉砕されて行われているという。 当時のDNAフォレンジック技術ではDNA鑑定が難しいと、05年に鑑定作業の一時停止が発表されたこともあった。近年はより進んだ技術で、過去に分析されたサンプルの再検査が進められているそうだ。 それでも、2001年の事故直後に身元が特定されたのは数百人分だったのが、そのペースは年を追うごとに落ちていき、こんにちでは年に1人程度だという。 数週間前に身元が分かった2人分(照合したのは1646、1647番目)のDNA鑑定は2019年以来だった。 迅速なDNA検査で身元を特定できたフロリダ州マンション崩壊事故とは異なり、911がなぜそんなに長い年月を要しているのか。それは、骨片などが「燃え続ける瓦礫の中で数週間以上損傷して劣化し、抽出するDNAの量が不足しているため」だ。(筆者が今回取材をした、倒壊現場付近に住んでいた住民も「火が完全に鎮火するまで数ヵ月かかった」と証言) また20年経った今、DNA鑑定で身元が分かった家族の心境として、粉々になった骨片を見ることも辛いようだ。「古い傷を再びえぐられる」ように感じ、受け取りに戸惑う人もいるという。親族が遺骨の受け取りを希望しないケースもあり、その場合はグラウンドゼロの保管庫で保存されるという。 今も増える復興作業員の死 テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員の中には、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっている人が多いことも、9日の記事などで書いた。 国立労働安全衛生研究所(CDCの傘下)が管轄する、9.11WTC健康プログラムというものがある。 このプログラムは同時多発テロが発生した3箇所に関連した健康被害を受けた人々に対して「認定された場合のみ」、医療や治療を無償で提供するというもので、2090年まで有効だ。 認定を受けた人は約8万人。ただし事故現場の近隣の住民や報道関係者などには、病気と事故との関連が困難で認定されていない人も多い。また(違法滞在者で、復興や清掃作業に臨時で雇われたケースなど)さまざまな事情を抱えた人も認定されるのは困難だ。 NPRが報じた19年の研究によると、911のファーストレスポンダー(その多くは事故当時、30代後半)は一般のケースと比較して、甲状腺がんのリスクが2倍も高いことがわかった。前立腺がんのリスクも約25%、白血病のリスクも41%多いなど、特定のがんのリスクが高い。 2000人以上のファーストレスポンダーと復興作業員が、復興作業に起因する病気で亡くなったという報告があり、FDNY(ニューヨーク市消防局)だけで、911関連の病気(がんを含む)で死亡した消防士は、退職者を含めて257人に上る。 911を知らない世代に語り継ぐ ABCニュースなどが報じたCDCの発表では、01å¹´9月11日以降にアメリカで生まれた人の数は7000万人以上。それに加え、9月11日の時点で生まれているが、乳児や幼児で、この日の記憶がまったくない人たち(数百万人規模)が、「911を知らない世代」となる。 筆者が今回さまざまな場所で話を聞いた人々の中にも、若い世代がいた。当時5歳で事故現場を直接目撃した25歳の女性や、当時7歳でカリフォルニアの自宅からテレビで観たという911美術館で働く27歳の女性らに話を聞くと、皆「覚えている」と語った。 一方、それより若いZ世代の人々にとって、あの悲劇が「実際に起こったこと」としてリアルにとらえにくいのかもしれない。 911の出来事を実際に、もしくはメディアを通じて「見た」我々の世代が、これまで歴史の教科書で学んできた過去の数々の悲劇と同じように、911についても正しい歴史と知識を伝え、そこから学び、感じとり、未来に活かすことが大切だろう。同じ悲劇を二度と繰り返さないために。 同日夜、スタテンアイランドのポストカーズでも、デブラシオ市長らが出席した追悼式典が行われた。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

911それぞれの記憶2 「毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私はそれを聞き、涙が溢れ出た」 エリサさん(72歳、俳優・アーティスト) 事故から20年。グラウンドゼロには、ビルから避難できず亡くなった友人の名前も刻まれている。 今年25になった娘にはいつも言っている。あの辺に行くことがあるときは、決して歩き去ることのないようにと。必ず立ち寄って、きちんと犠牲者に敬意を表しなさいと。あそこは通り過ぎる場所ではない。 2001å¹´9月11日。今でも私はあの日のことを、ほとんどすべてのことを思い出すことができる。​ 私の自宅は、世界貿易センタービル(ツインタワー)から大通りを挟んだはす向かいにあった。1993年の爆発事故の時もここに住んでいたが、私のアパートまで揺れるほどの衝撃だった。 あの日の朝は快晴だった。当時5歳の娘をすぐ近くの幼稚園に送り届け、その足でプールに泳ぎに行ってすぐに戻って来る予定でいた。 幼稚園もプールも自宅から目と鼻の先だ。水着の上に軽く羽織っただけのような軽装で、持って出たのは鍵だけ。財布、携帯電話、IDなどすべて自宅に置いたまま、娘を自転車のチャイルドシートに乗せて、幼稚園に向かった。 とても美しい青空が広がっていたが、それとは対極的に、実は私も娘もその日は少しナーバスでそわそわしていた。なぜならその日は幼稚園の初日で、丸1日娘が園の生活に溶け込めるだろうかと少し心配していたから(注:アメリカは9月が新学期)。また私はほんの数週間前に最愛の母を亡くしたばかりで、まだ悲しみの中にいた。 私は娘の様子を確認するために、しばらく教室の外から見守っていた。教室の窓からは、すぐ近くに世界貿易センタービルが見えた。 ちょうどそのころ、1機目がビルに追突した時間だが、私がいる場所からは何も見えず音も聞こえなかったので、しばらく誰も気づかなかった。娘が大丈夫そうなのを確認し、私は階段に向かった。ちょうど真ん中あたりにさしかかると、下から人々の叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかはわからないけれど、その人たちの動揺ぶりからこれはただ事ではないと察した。発砲事件か何か大変なことが起きたと思った。私も怖くなり娘のいる教室に引き返した。 窓の向こうに見えたビルには大きな穴ができ、そこから黒煙が上がっていた。飛行機が突っ込んだ穴だ。私はとにかくびっくりした。まるで世界の終わりとでも言うようなとてつもなく恐ろしい光景が広がっていた。人々の泣き叫ぶ声は聞こえたものの、激突音などはまったく聞こえなかった。園内は先生が行ったり来たり騒然とし始めた。子どもに見せまいと先生はブラインドを下ろした。皆その時はまだ事故だとばかりに思っていた。 私はそのビルがこちらに向かって崩れ落ちてくるのではないかと、恐怖心でいっぱいになった。そのころの私の心境として「母も死んだ、私も死ぬんだ」といったような(絶望的な)思考回路だった。 逃げようにも、保護者がいない子どももいる。場所柄、ビルで働いていた親も多かった。警察の指示があるまで動かない方がいいと、園長先生が全児童を1箇所に集めアニメ上映をし始めた。娘は今でもそのアニメを覚えている。しばらくすると屋外に避難し、PS3(公立小学校)に北上するよう指示があった。大人は全員、両手に子ども4人ずつ手を引き外に出た。 大通りはビルの方から逃げ惑う人々で溢れていた。周り一面は砂嵐だ。あれほどの砂嵐はビーチ以外で見たことがなかった。この時も音は聞こえなかった。とにかく私が覚えているのはこうやって(高層ビルを見上げるように)振り返ったことだけ。 無音の世界だった。想像してみて、このような状況ではものすごい騒音がする時でさえ、音は一切聞こえなくなる。 砂嵐が吹き荒れる中、ビルは一瞬にして崩れ落ちた。私も子どもたちも泣き叫んだ。もうもうたる黒煙が広がり、空一面が真っ暗になった。車の走っていないハイウェイを子どもたちの手を引いて、ひたすら走った…。そのうち人々は疲れてデモ行進のように歩き始め、トボトボ歩いて歩いて歩いて…。やっとPS3に到着し、そこで保護者のいない子どもを警察に託し、まずは一安心となった。 私の成人した2人の息子は、それぞれ自立しブルックリンに住んでいた。さぞや心配しているだろうと思ったが、私は携帯も財布も持ち合わせていなかった。 しかし、途中から一緒に歩いた見ず知らずの女性がいて、私に「これから仏教寺院に祈りに行く。そこに電話があるから一緒に行きますか?」と提案してくれた。そうしてやっと電話にたどり着けたのだが、私は一連の出来事で記憶喪失のようになっていて、誰一人番号を思い出すことができなかった。昔は電話番号案内サービスというものがあり、それを利用してやっと息子と話すことができた。その優しい女性は別れ際、私に5ドル(約500円)をくれた。私たちはそれでヨーグルトと牛乳とチェリオス (コーンフレーク)を買うことができた。 腹ごしらえをし、娘を背負って再び徒歩で息子の家を目指した。とにかく暑かったが、ウイリアムズバーグ橋の麓では水の配給が行われていた。橋を渡りながら振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。娘は「火事だ!火事だ!」と泣き叫んだ。娘は今でも、この光景をしっかり覚えている。 ブルックリンに入ると、その日はバスが無料になっていた。しかし大勢の人がマンハッタンから避難してきたので、バスに乗るのにも一苦労だった。乗るのに1時間半ほどかかった上、バスは人々を乗せて周回し(それほど遠くない)息子のアパートにたどり着けたのは夕方5時だった。もう1人の息子とも会え、私たちは無事の再会を喜び合った。 一方でその日から、私は事故により受けた精神的なショックが長引き、テレビニュースで惨事を目の当たりにするたびに、涙がとめどなく溢れるようになった。死者数が1人増え、また1人増え。友人、誰かの友人と訃報が次々に入ってきた。 自宅には数日間、戻ることができなかった。私も娘も着替えも何もない状態で、友人が洋服を貸してくれたりもした。学校もオフィスもしばらく閉鎖となった。 やっと自宅に戻ることができたのは、テロから1週間後のこと。IDがないということはここに住んでいる証拠もないため、自宅に戻るのも一苦労だった。警察に敷地内に入れてもらえずにいたが、近所の人が私がここの住人だと証言してくれ、やっと我が家に戻ることができた。 アパートとその一帯はクライムシーン(凄惨な事件現場)の中心だった。近所の家には機体の一部が窓を割って部屋の中まで突っ込んできている惨状だった。そして建物、プール、屋根…あらゆる場所に亡くなった方の遺体の一部が散乱している状態だった。私は見ていないが、ビルのコンシェルジュが私に教えてくれた。彼は事件後も避難できずにいた。なぜなら2階で1人暮らしをしている老人が事故後どこにも避難できなかったから。あのような状況の中、彼はこの老人と一緒にいてあげたのだった。 私の自宅も大変なことになっていた。あの朝すぐに戻る予定だったので、窓を開けたまま外出していた。自宅の部屋という部屋、そして物という物はすべて、数センチほどの分厚いダスト(埃、ごみ、残骸)で覆われていた。携帯を取り上げると、その跡がくっきりとわかるほどだった。 自宅にはしばらく住めず、滞在先の息子宅からちょくちょく戻っては清掃や修理をするような生活が続いた。そのうちエアーフィルターを手に入れることができたが、マットレスやおもちゃやそのほかいろいろなものはもはや洗えば使えるという状態ではなく、たくさん処分した。 私の自宅窓からは、世界貿易センターが見えた。テロから4、5ヵ月経っても、キャンプファイアーの後のように燻った火はなかなか鎮火していなかった。 そこから毎晩バグパイプの音色が奏でられ、私の耳にも届いた。 その音色が聞こえるたびに、今日も新たに遺体(の一部)が見つかったことを知る。私はワインを飲みながら、悲しい知らせを告げる音楽を聞く。涙がとめどなく溢れ出る。 今夜も次の夜も、またその次の夜も・・・。 自宅が住める状態になるまで数ヵ月間かかった。その年の感謝祭(11月末)はなんとか自宅で祝うことができた。幼稚園は4ヵ月後の翌年1月に再開したが、園に行っても私はあの時受けたショックから、娘の教室がどこにあるのかわからなかった。 この事件は私のその後の人生にも影響を及ぼした。 私は2015年に膀胱がんと診断され、臓器の摘出手術と化学療法を受けた。髪が抜け落ち、痩せてしまった。その3年後に孫娘も事故で亡くした。これらの体験は911の体験をはるかに凌駕するほど辛いものだった。 さまざまな問題が起こった私を誰も助けてはくれなかった。いや、私はできるだけ周囲の人を助けようとし、また人々も私に手を差し伸べようとしてくれたが、何の助けにもならず、そこから私が救われることはなかった。私が体験したことはすべて(他人が援助できるレベル)を超越していた。 私は時々、何も感じられなくなってしまっていた。一方で、映画を観に行き暴力的なものや虐待など過激なシーンが流れると涙が止まらなくなり、その場にいられなくなることもあった。いわゆるPTSDと言われるものだ。アートや音楽などさまざまなセラピー、メディテーション、そのほか良さそうな治療という治療を受けて今に至る。 私が当時、自宅での清掃時にマスクを着けていたかどうかは…思い出せない。ただ言えるのは、テロから14年後にがんになったということだ。私はこれまで一度もタバコを吸ったことはない。救助や復興活動をした多くのファーストレスポンダーがその後病気で亡くなっている。また、我が家は利用しなかったが、ほかの部屋で雇った清掃業者の中には、(違法滞在のため書類が必要な)仕事に就くことができず、この清掃作業に臨時で雇われた人もいたようだ。彼らのその後を思うと本当に気の毒だ。 今でも涙がこみ上げてくる、これだけのトラウマを抱えた状態でなぜ私がこの体験を話そうとしたか。それは私が死んだらこの話は誰も知らなくなるから。生きているうちに体験談を伝えていくことは大切だと思った。私たちは歴史を知る必要がある。 広島の原爆の被爆者でもあった私の78歳の友人はCOVID-19で亡くなった。彼は生前、子ども時代の戦争体験を私に話してくれた。一方、私は両親や祖父母の昔話を知らない。彼らは思い出したくないと、自分たちの過去を語ろうとはしなかった。ホロコーストや原爆投下など歴史上ではひどいことがたくさん起こってきたが、人は時々、自分で見たもの以外を信じようとしない。しかしそれは起こった、見た、体験した。ならばそれを伝えることが大切だ。いつまでも人々がその悲劇を忘れないように。 9月は娘と息子の誕生月であり、孫娘が亡くなった命日もある。そして911。大変な思い出が詰まっているが、センチメンタルになりすぎないようにしている。だって私の記憶には辛いことだけではなく、いい日もたくさんあったから。 関連記事 2021年(テロから20年) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編) NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview, text…

米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。 しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。 20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか? ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。 911それぞれの記憶 「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加 曽野正之さん(50歳、建築家) 私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。 アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。 73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。 刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。 私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。 ニューヨークに移住して3年目、2001å¹´9月11日。 私にとってはいつもの朝だった。 出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。 オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。 ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。 それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。 北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。 そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。 ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった) しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。 地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。 アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。 自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。 確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。 クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が​​95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。 この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。 911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。 アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。 事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。 毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。 2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。 関連記事 NYグランドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い 事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。 この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。 (後編につづく) 関連記事 2021年(テロから20年) アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 2020年(テロから19年) 米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)(後編) 「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日【米同時多発テロから19年】 Interview,…